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 記憶の中の兄は、いつも理知的で、余裕があって、笑っていた。

 それは確かに、兄の一つの側面だった。何層にも色を重ねて描かれた、“神前恭太郎”という人物の肖像画の、レイヤーの一つだった。

 別の見方をすると、それはこっち側の問題かもしれなくて、自分にとってアクセスしやすい階層に、“理想的な兄ちゃん”が記憶されているというだけなのかもしれない。

 だとしたら、身勝手な話だ。


 亜由美は山科川に沿った道を歩きながら考える。

 自動販売機で買った缶コーヒーは、もう空になっていた。

 ふと辺りを見渡す。誰もいない。人の気配がない。


「やってみよか」

 そうつぶやき、右手に持っていたスチール缶を空中に放り投げる。

 そのまま右手の掌を上に向けて、手の周囲にある電子を〈制御〉する。

 掌の中心に、ニュートンリングのような同心円状の光の輪が〈生成〉される。やがてその輪はゆらゆらと揺れ始め、淡く輝く網目状の模様に変化する。それは浅い海の水底に映る光のパターンに似ていた。

 落下してきた缶を、〈制御〉した電子で支える。光でできた円盤のような粒子の集合体の上で、缶が転がる。

 実際のところ、どういう現象が起こっているか、亜由美には推測することしかできない。〈制御〉しているのが本当に電子なのだとしたら、物質表面の電子軌道と、亜由美が〈制御〉している電子の軌道が重なれない――“縮退圧”とかいうのが働いてるんだったっけ?――という理屈で、缶と“光の円盤”がぶつかっている、ということなのかもしれない。

 光る理由も、よくわからない。電子を曲げるときに光が放出される――“シンクロトロン放射”とかいう名前だった気がする――というのは聞いたことがあるが、“これ”がそれかどうかもわからない。

 それを言い出したら、〈催眠〉がかかる理由も、他人の精神を〈クラッキング〉できる理由も、わからない。理由はわからないけど――ただ、何ができるかはわかっていて、実際にそれができるのだ。


 亜由美が“光の円盤”を消すと、缶は落下し始める。それを蹴り上げ、回りながら空中を飛ぶ缶に右手を向けて狙いを定める。

 今度は電子を掌大の“矢尻”の形に〈制御〉する。暗順応した目でようやく見えるくらいの輝度で光る、細い三角形の“矢尻”を〈生成〉すると、それを缶に向けて撃ち出す。

 バチッ、と乾いた音を出して缶が破裂し、飛んでいく方向が変化する。

 2発、3発、と次々に“光の矢”を当てていく。

 缶はその度に変形し、軌道を変えられて、やがて商業施設の立体駐車場に入っていった。


「“力”は使わないんじゃなかったの?」

 “分身”が声をかけてくる。

 亜由美が黙っていると、“分身”は闇の中からすっと現れ、隣に立つ。もっとも、それを見ることができるのは亜由美だけだ。

「使ったらあかん?」亜由美が聞き返す。

「あなたが決めたらいい」

 “分身”の表情は穏やかだった。

「ちょっとくらい、ええやん」

 亜由美は悪戯っぽく笑う。“分身”も口元を綻ばせる。


 亜由美は〈身体強化〉を使い、地を蹴って跳躍する。そして自分が跳んだ先に“光の円盤”を〈生成〉し、踏み台にする。そうやって“円盤”の上を飛び移りながら、駐車場に降り立つ。さっきスチール缶が落ちた場所だ。

 亜由美は自分が“矢”を撃ち込んだ缶を拾い上げる。それは原型をとどめておらず、ぼろぼろの鉄板のようになっていた。


「その、飛ばすやつ」

 “分身”が話しかける。

「他人を〈クラッキング〉するときの感覚を、それに“乗せて”飛ばせば、遠くから効かせられる」

「うん。覚えてるよ」亜由美は頷く。「もう使う機会がないといいけどな」


 亜由美は立体駐車場のスロープの壁に腕を乗せて、夜の街を眺める。アパートと、一軒家と、10階建てくらいのマンション。大きめのスーパーに、パチンコ屋。この景色のどこかに、母と自分の家がある。

 何があるわけでもないのに、何か愛おしかった。自分の人生を作り直していった記憶と結びついているからかもしれない。

 “力”を封印してから、家でも学校でも行儀良く振る舞い、母の仕事をたまに手伝い、勉学に励んだ。それで、母との関係も良くなったし、受験では結果を出せた。

 もちろん自分だって努力をした。でも努力だけでは、絶対にここまで来れなかった。自分の意思を超えた外的な要因が、どれか一つでも違っていたら、自分はここにいなかっただろう。

 今の生活は、分不相応な授かりものだという感覚が亜由美にはあった。でも、亜由美はそれを大切に思っているし、手放したくなかった。

 亜由美はもしものことを考える。

 もし“力”を使い続けたらどうなるか。答えは簡単で、もっと大勢が傷つく。

 “力”は他人を傷つける。今仲という男も他人を傷つけた。私も、ちょっと超能力を発動させただけで、6人の人間を傷つけた。身を守るために、そして相手との一切の関わりを断つために、身体と心の自由を奪い、記憶を壊した。そして――自分で認めるのは怖いが――暴力をふるった瞬間、どこかでスッとしていた。

 次は誰が傷つく? 私じゃない保証はどこにもない。私に何かあれば、一番に、母を悲しませることになる。

 いや、それは良くない――母を理由にするのは卑怯だ。

 私が失うことを恐れているんだ。自分や大切な人の命を。生活を。良心を。正気を。


「帰ろか」

 亜由美は“分身”に声をかける。

「うん」

 “分身”は姿を消し、亜由美の中に入る。


「なあ」

 亜由美は心の中で話す。

「ずっと眠ってたのって、嘘やろ?」

 沈黙が流れる。

「5年ぶりくらいに使ったのに、全然鈍ってる感じがしない。むしろ、性能が上がってる気がする。ずっと何をしてたん?」

「……考えてた」“分身”が言う。「あの時どうすればよかったか。どうすれば最小の被害で成果を達成できるか。それで、もっと“力”の性能を高めればいいのではと思った」

「そっか」亜由美は内心で呟く。

「ごめんなさい。私嘘ついてた。でも、あなたの前に現れないっていう約束は守ったよ」

「謝らなくていいよ」

 亜由美は、自分の中にいる“分身”を撫でてあげたくなった。

「じゃあ、私が経験したことも、全部一緒に経験してたん? 受験勉強も、母さんのお店手伝ったのも、おもんない元彼も。サラと会った時のことも」

「ううん。それをやると、あなたは気づくから」

「そっか。寂しかった?」

「わからない」

「そっか」

 亜由美は自動販売機の横にあるゴミ箱に、潰れた缶を捨てる。回収業者の人が指を切らないように、きちんと折りたたみ、ゴミ箱の奥に突っ込む。

「これからは一緒にいよう。あなたが私の一部だとして、あなたを存在しないことにしてたのは、やっぱり違ってたと思うし。こっちこそ、ごめんな」

「謝ることじゃない」

 “分身”は言う。


 亜由美は橋の真ん中に立ち、川を眺める。水面に反射した街灯の光がゆらめく。

「それにしても――私が“力”の封印を解くことを、予想してたん?」

 亜由美は“分身”に訊く。

「予想はしてない。準備してただけ――私の中の信念に従って」

「どんな信念?」

「“あなたを守る”って」

 亜由美は初めてそれを知った。自分の心の中に、別の“自我”があって、それに影響を与える“信念”があって……何とまあ複雑な。でも、まあ、人間は複雑だ。


「これで最後やで」

 亜由美は心の中でそう言い――周りに誰もいないのを確認してから――周囲の電子を〈制御〉する。

「別に手を動かさなくてもいけるんやな」

 手をスウェットのポケットに入れたまま、目の前の空間に、無数の“光の矢”を〈生成〉する。そして、夜空に向かって撃つ。

 一斉に飛び出した“矢”は、少しずつ空間に溶けていくように小さくなっていき、20メートルほど上空で消滅する。“矢”のエネルギーが空気中の原子を励起させたのか――原理はわからないけど――薄いベールのようなオーロラが、川にかかる。近くにいないと見えない、淡い、儚い光が、踊る精霊のドレスのように、闇の中に翻る。

 亜由美にしか見えない、絶景だった。

「どう思う?」

 亜由美が心の中で問う。

「……綺麗、だと思う」

 “分身”が答える。

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