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 2019年4月29日


 夜が佳境を迎えるが、日が昇るにはまだ早い時間。夜行性の人間が寝ぐらに戻り始め、昼行性の人間はまだ活動を開始していない、この街の一番静かな時間。

 奥まった道路に、背広を着た男が一人立っている。

 名前は石井将彦。警視庁捜査第一課4係長。役職は警部補だ。

 4月も終わろうという頃だが、明け方の時間はまだ肌寒い。石井はそれを意に介さずに、腕を組んで、道を見つめている。

 車のライトが道を染める。シルバーのホンダ・フィットだ。

 車は路肩にとまり、中から男が現れる。

 石井はこの男を待っていた。

「久しぶりだな、瀬崎」

 石井は声をかける。

 瀬崎賢司。元捜査一課。今は引退し、探偵業をやっている。瀬崎が現役の刑事だった頃、二人は何度も一緒に仕事をしていた。

 瀬崎は目立たない色の背広を着ているが、ネクタイはしていなかった。二人は同じくらい上背はあるが、石井は首も腕もがっしりとしているのに対して、瀬崎は細身で、どことなく鳥のような印象を受ける。

「こんな時間に呼び出してすまない」

「構わないよ」瀬崎が答える。「ここが言ってた現場か?」

「そうだ」

 石井は言い、再び道を見渡す。

 先刻まで、5人の男が倒れていた現場だ。


 事件の捜査に探偵が介入するなんてことは、本来小説やドラマの中でしかありえない。それでも石井が瀬崎を呼んだのは、警視庁の係長クラスで――決して外には出ない、内輪の話だが――こんな言い伝えがあったからだ。

 ――得体の知れない事件に遭遇したときは、瀬崎に相談してみろ。

 そして、この事件は得体が知れなかった。

 倒れていた5人は既に救急搬送され、現場にあったエルグランドも移動済み。現場検証も一段落した。現時点で判明している範囲で、被害者に外傷や身体的な異常(薬物反応も含める)はみられず、車にも、現場にも、証拠になりそうな物品は残っていない。

 あるのは謎だけだ。

 5人の男は改造スタンガンで武装していたのに、争った形跡がない。意識不明の状態なのに、その原因がない。

 普通、武装するって事は、戦う相手がいるということだ。一体こいつらは何と戦ったんだ? 何故、やられていたのに、怪我ひとつないんだ?

 もちろん、捜査の過程で原因が明らかになることも考えられる――というより、それが本来の捜査のあり方だ。

 だが、石井の勘は、これは正攻法では解決できないかもしれないと告げていた。

 それで、石井は瀬崎を呼んだ。ただ、呼んだら何が起こるかは、何も知らなかった。

 そもそも、何故瀬崎がこんな仕事を始めたかも石井は知らなかった。何かの政治闘争に巻き込まれて警察を去った、という噂は聞いたことがあるが、石井にはそれはどうでもよく、ただ仕事のできる同僚が一人減ったのが残念だった。


 車からもう一人降りてくる。

 紺のパンツスーツ姿の、眼鏡をかけた若い女性だ。

 石井のそばまで歩いてくると、頭を下げて挨拶する。

「伊関杏子です。よろしくお願いします」

「警視庁の石井です。こちらこそ、よろしく」

 石井は挨拶を返し、瀬崎に訊く。

「この方は、助手か?」

「いや、違う」瀬崎が答える。「ここでは彼女が主役だ」

 石井は耳を疑う。

 彼女が主役? 元とはいえ、捜査一課の刑事だった男を差し置いて?

「見ていればわかるさ。まずは、電話でも少し聞いたが、もう一度わかってることを教えてもらえないか」

 石井は瀬崎と、伊関と名乗った女性に、事件の経緯を伝える。

 話しながら女性の顔を見ると、視線は道路の路面を向いている。こちらの話を聞いているようで、全く別のものに注意を向けているようだった。そこにいるようで、いないような印象を受ける。

 説明を終えると、伊関は歩き出す。ちょうどミニバンが停車していたあたりで立ち止まると、そのまま動きを止める。道路に残った証拠を探そうともしない。まるで森林浴でもしているような、立ったまま瞑想しているような、そんな様子だ。

 不意に、伊関が声を発する。

「三人、ここにいました」

 それだけ言うと、また歩き出す。

「うん?」

 石井は瀬崎に説明を求める。

「いたって、誰がだよ」

「超能力者だよ」

 瀬崎の返答を聞いた石井は、まず最初に怒りを覚えた。

 ただでさえ、昨日から寝ずに捜査をしているのに。手がかりのつかめない事件の突破口を何とかして探したくて瀬崎を頼ったのに、“超能力者”だと? こいつ、気が触れて警察をクビになったのか?

「なあ瀬崎、俺は冗談に付き合ってる時間はないんだぜ?」

「冗談じゃないよ、ほら」

 瀬崎が指す方を見て、石井は目を疑う。

 さっきまで道路に立っていた伊関が、まさにビルの屋上にジャンプするところだった。

 石井は睡眠はとっていないが、頭はまだ冴えている。見間違いではない。

「あの子は……陸上選手か何かか?」

「どう思う?」瀬崎はにやりとする。

 石井にもわかっている。たとえ走り高跳びの金メダリストでも、壁を蹴って3階建てのビルの屋上に跳び乗る事はできないだろう。

「まだまだ、嫌というほど驚かされるぞ」

 瀬崎は言う。


 ビルの屋上から伊関がこちらを向いて、手を上げて合図をする。それから、肩越しに自身の後ろを指差す。

「何か見つけたらしい。行こう」

 瀬崎がそう言い、二人は伊関の指差した方に移動する。石井は体力に自信があるが、さすがにビルには登れないので、回り込んで狭い道を進んでいく。

 瀬崎は歩きながらも上空をこまめに見ている。伊関も地上の二人を確認していて、ジェスチャーで進む方向を合図する。声をあまり出さないのは、周囲の注意を引かないためだろうか。

 やがて、細い路地を抜けて、ガラクタと落書きに囲まれたスペースに出る。そこに伊関が音もなく着地する。石井は彼女が降りてきた方を見る。高さ10メートルはありそうだった。

「ここで感じるのか?」

 瀬崎が伊関に声をかける。

「はい。さっきと同じ感覚です」

 そういうと伊関は、さっきのように立ったまま何も言わなくなる。

 石井は改めて目の前の女性を見る。

 身の丈は160センチくらい。まだ若そうだが落ち着いた見た目で、高級ホテルの受付にいてもおかしくないような雰囲気だ。

 しかし――隙がない。

 すっと肩の力が抜けていて、まっすぐな姿勢。重心も安定している。リラックスして、周囲の全てに均等に注意を払っているようだ。

 石井は小さい頃から柔道をやっていて、インターハイに出たことも、国体選手に選ばれたこともある。段位は五段。警察学校に入ってから始めた剣道も四段を持っている。

 それでも、彼女を投げられる気がしないし、竹刀が手元にあったとして、打ち込める気がしなかった。

 さっき建物を昇り降りしたときもそうだ。余計な音を立てず、動きの無駄も最小限だった。

 こういった、卓越した武術家のような所作は、修行の賜物なのか? それとも、これも瀬崎のいう“超能力”とやらなのか?


「ここで終わっています」

 伊関が言った。

「何かしらの決着がついたんだと思います。ここで発生した事件について何か情報はお持ちですか?」

 不意に聞かれ、石井は返答に詰まった。我ながら迂闊だったと思うが、まさかいきなり質問されるとは思っていなかった。だが、そこは平静を装い、軽く咳払いをする。

「確認する」と言って、警察署に電話し、照会を依頼する。折り返し連絡するとのことで、一旦電話を切った。

「ここでどんなふうに決着がついたか、わかるのか?」

 瀬崎が尋ねる。

「推測ですが」伊関が答える。「ここと、さっきの5人倒された現場に、同じ強い“痕跡”が残っています。同じ超能力者が、同じ“力”を発動したと考えられます。そしてここに別の、抵抗した“痕跡”があり――断絶している。おそらく、ここで超能力者が一人、昏倒させられていたはずです」

 石井はそれを聞いて、頭がくらくらしてきた。

「ちょっと、理解が追いついていないんだが……じゃあ、あそこに倒れてた5人も、超能力とやらでやられたのか?」

「だと思います」と伊関は言う。「精神を操作する超能力でしょう」

「そんなのもあるのか……君も使えるのか?」

「ここで披露することはありませんが、多少は使えます」

 そう話していたときに、石井の携帯が鳴る。警察署からの電話だった。

 5人が発見された少し後に、ここで男が倒れているのが発見され、発見者が119番通報した後、現着した救急隊から警察に連絡が入っていたとのことだった。

 ――伊関の言った通りだった。

「じゃあ」瀬崎が状況を整理する。「3人の超能力者のうち、一人は5人の男と別の超能力者を倒し、一人は倒された。もう一人は何してたんだ?」

「ここで少し戦った“痕跡”がありますが、それだけです。おそらく、勝った方の超能力者の仲間ではないでしょうか。敵対していたら、もっと激しく戦った“痕跡”があるはずです」

 伊関は淡々と説明する。挨拶してからずっとこんな調子で、淡々としている。石井にとっては全くついていけない状況なのに、それが彼女にとっては日常の一風景のようだった。

「質問してもいいかな」

 石井が伊関に声をかける。伊関は石井を振り向く。

「疑ってるわけではないんだが……どうしてわかるんだ? 君には何が見えてるんだ?」

 伊関は腕を組み、しばし考えるそぶりを見せる。

「それは……とても説明が難しいです。種としての人間に、本来備わっていない感覚なので。比喩でいうと…………」

 そう言うと伊関は黙り込んでしまう。質問に答えようとして、自分自身その問いに嵌まり込んでしまっているようだ。

 石井が、もういいよ、と声をかけようとした時、伊関が話し始める。

「人間の五感に付け加わった別種の感覚というよりは、人間の感覚の種類それぞれが拡張したような、混ざったような、そんな感じです。なので、感じ方としては、“見える”のに似ているときもあれば、“匂う”のに似ているときも、“触れる”のに似ているときもあります。今回のような場合だと……そうですね……銃を撃った後の硝煙の臭いとか、焚き火を処理した後の地面に残る熱とかに、近いかもしれません。答えになっていますか?」

 伊関の説明に対して、「なるほどね」と石井は言う。言ったものの、自分が今の説明を聞いて想像したものと、実際に彼女が経験しているものは、全く違うのだろうなとも思う。


「さて」瀬崎が話題を変える。「これからどうするかだ」

「私は引き続き周囲を探ってみます」

 伊関が答える。

「それから、石井さんにお願いしたいことがあるのですが」

「おう、何だ」石井が答える。彼女に話しかけられると、知らず知らずのうちに背筋が伸びるのを感じる。

「ここで救急搬送された方の情報を、共有させてほしいんです。ここの1名と、さっきの場所の5名と。特に超能力者と考えられる1名は、重要な参考人になります。慎重な観察が必要です」

「わかった。他にすることはあるか?」

「私からは今は以上です。ありがとうございます」

 伊関は礼をする。

「それから」瀬崎が続けて話し始める。「警察の捜査は、今まで通りに進めてもらうのがいいと思う。この超能力の存在を知っているのは限られた人間だけでいい」

 そりゃそうだろうな、と石井は思う。この力の存在が広まると、世の中を混乱に陥れるだろう。


 今後の協力体制について確認してから、瀬崎と伊関は車に乗り、来た道を引き返して去っていった。

 石井は大きく溜息をついた。軽い眩暈と頭痛がまだ残っていた。さっきまでの時間を振り返っても、何だったのか把握しきれていない。ついていけないまま終わってしまった。

 自分も帰ろうと思ったその時――あっ、と声を上げた。

 しまった。状況に翻弄されて、肝心なことを全く話せていなかった。刑事として不甲斐ないほどに、聞き忘れていた。

 彼らの捜査と、“通常”の捜査の整合性を、どうやって確保していくんだ? 仮に捜査記録で“辻褄合わせ”が必要になるとすると、俺一人では到底無理だ。協力者が必要になるが――俺は誰と組めばいい? あの得体の知れない力の存在を、誰が、どこまで知ってるんだ? 

 そして、仮に捜査が進んだとする。何がどうなったら事件が解決したといえるんだ? 常識を超えた力を使う連中を相手に、いつも通りに逮捕して、起訴して、という流れが通用するのか? そもそも超人をどうやって逮捕するんだ?

 そうだ――あいつ、犯人の超能力者を見つけてからどうするつもりなんだ?

 伊関杏子。

 あんた、これからどう動くんだ?

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