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 亜由美は自宅のマンションに着くと、郵便受けを確認してから、オートロックのドアを開けて中に入り、エレベーターに乗る。エレベータの中で亜由美は帰宅してからのことを考える。夕食は賄い料理で済ませたので、あとはシャワーを浴びて、ピアノの練習をして、寝るだけだ。

 自分の部屋の階に到着すると、共用廊下を歩き、自分の部屋のドアの前に立つ。

 もう一度廊下全体を見渡す。誰もいない。

 それなのに、誰かいる気がする。


 解錠すると、ゆっくり、中を覗きながらドアを開ける。玄関には誰もいない。

 暗い中、空間記憶を頼りに手を伸ばして部屋の電気をつける。

 誰もいない。

 亜由美はその“誰か”が、自分の中にいることに気づく。


「出ておいで」


 部屋の中央、シーリングライトの真下に、影が生まれる。

 その影に濃淡が現れ、モノクロの炎のように揺らぐ。試行錯誤しながら何かを形作っているかのように。そして濃淡は像を結び、ただの不規則な模様から質感を伴うものになる。

 やがて、それは少女の姿になった。


「久しぶりやね」

 亜由美はそれに声をかける。

「“分身”ちゃん」


 “分身”と呼ばれた少女は、亜由美より少し背が低く、幼い容姿だが、目鼻立ちはよく似ている。髪は少しくせのあるサイドパートのミディアムヘアで、亜由美と同じ髪型だ。でも、亜由美の髪は色素が薄く、染めていなくても光の加減で茶髪に見えるのに対して、少女のそれは漆黒だった。服装は、亜由美なら決して選ばないであろう白のロングワンピースだ。


 亜由美と“分身”はお互いを見つめる。

 やがて、“分身”が口を開く。


「“力”を使ったんだね」


 亜由美は目を閉じ、頷く。

「うん。使った」



 あの瞬間――男の〈催眠〉能力が伝わってきた瞬間に、亜由美は封印していた超能力を発動させていた。

 そして、男に〈催眠〉をかけ返した。掴みかかってきた相手の力を利用して、逆に制圧するように。

 男の目は焦点を失ったが、顔にはニヤついた笑みが残っていた。自分がされている事に気づいていないようだった。

 亜由美は男に言った。

「そんなん使えるんやったら、お前、薬なんか飲ませんでもええやんけ」

 振り返ってみると、別に言わなくていいことだったようにも思うが、気になるとついツッコんでしまうのだった。

 〈催眠〉状態の男は正直に応答した。

「その方が〈催眠〉がよくかかるんだよ。すげえエロいことを命令しても、躊躇ったり抵抗したりしなくなる。例えば……」

「いや言わんでいい」

 亜由美は遮った。男は黙った。

「そうやな……」亜由美は男に下す命令を考えた。

「二度と《Footprints》に来るな。二度と酒に薬を入れるな。私と喋ったことは全部忘れなさい。それから……」

 思いつくままに言った。もっと命令しておいた方が良いことはありそうだった。

 サラの叫びが聞こえたのはその時だった。

「おい!! その人から離れろっ!!」

 一瞬自分が怒られているのかと思った――その瞬間だけ切り取れば、超能力で攻撃しているのは亜由美の方だった――が、サラは男の方を追いかけて、ビルの彼方に跳んでいった。



「あれが結局一番びっくりしたなあ」亜由美はふっと笑う。

「気づいてなかったの?」

「あの子が“力”を持ってることに? うん、気づいてなかった。あの男が超能力を使ってくるまで、完全に“オフ”にしてたから」


 亜由美はガラスのタンブラーを取り、氷で中を満たし、サントリー角瓶と炭酸水を1対1の割合で注ぐ。箸で軽くステアしてから口をつける。

「お酒、飲んでいいの?」“分身”が訊く。

「私、この4月で二十歳になってんで」

「そっか」


 亜由美がベッドに腰掛けると、“分身”もその隣に座る。いつもそうしていたかのように。

「じゃあ」亜由美が口を開く。「私が超能力の封印を解いて使ったから、あなたが目覚めた。そんな感じ?」

「うん。……ごめんなさい」

「何で謝るん?」

「あなたとの約束を破って、あなたの前に現れた」

「謝らんでいいよ」

「5年前。正確には4年と……」

「いいよ、その話は」


 超能力を封印する前、最後に使ったのがそれくらい前になる。

 その日、確かに亜由美は“分身”に言った――もう、この“力”は使わない。あなたにも会いたくない。もう私の前に現れないで、眠ってて欲しい。


 実際、その日以来一度たりとも超能力を使うことはなかった。今日、あのダメ男がちょっかいを出してくるまでは。

 力を使わずに逃れられるならそうしたかった。でも、向こうが〈催眠〉を使ってくるのなら――みすみす自分の人生をくれてやるわけにはいかなかった。


「これからどうするの?」

 “分身”が亜由美に訊く。

「シャワー浴びて、ピアノ弾いて、寝る」

「そうじゃなくて、超能力」

「使うつもりはないよ。また、あんな事になるの嫌やし」

「あれはあなたのせいじゃない」

「私はあれは私のせいやって思ってる」

 自分の放った言葉が脳内で反響する――あれは私のせい。あれは私のせい。あれは私のせい。

 亜由美は大きく息を吸って、吐く。

「とにかく……あいつはもう店には来ないし、いらんこともせんやろう。警察にも通報したし。もう私がすることはないよ」

 そうだ。もう、私がするべきことはやった。今回の話はこれにて終了。

 超能力者として生きてくつもりはない。

 強いて気になることがあるとすれば……。


「あの子が気になる?」“分身”が言う。「男の人を追いかけていった人」

「サラちゃんのこと?」

「サラさんって言うんだね」

「そうやで。……そっか、私があの子と喋ってたときは、あなたはまだ眠ってたんやな」

「うん」

「そっか。……そうねえ、ちょっとは気になるかな」

 あの感じを見るに、男に返り討ちにされることはなさそうに思えたが。ただ、男を殺したり大怪我させたりしても大問題になるし、他の人に目撃されて騒動になるかもしれない。まあ、いずれにせよ、亜由美にはどうすることもできない。

「あの子、あなたの“力”に気づいたかな」

「どうやろうね、男を追いかけるのに夢中って感じやったけど……まあ、訊かれたら、しらばっくれようかな」

 亜由美はそう言って笑った。“分身”も、少し表情を緩ませた。


「私はどうすればいい? また眠ればいい?」

 そう言う“分身”に、亜由美は少し考えてから答える。

「私と一緒におりたかったら、おってもええよ」



 気がつけば、ハイボールは空になっていた。

 それから亜由美は予定通り、シャワーを浴び、少しピアノの練習をしてから、ベッドに転がった。

 全く眠気が来なかったので、起き上がり、ベランダに出た。夜風が亜由美の顔と首を冷やす。

 久しぶりに“力”を使ったことで、気分が高揚しているのは確かだ。それもある。でもそれだけじゃない。

 超能力と一緒に封じ込めた記憶に触れたことに――そして、それが最悪な記憶なのに、どこか懐かしかった、その事にも――揺さぶられているのだ。

「あーあ」

 声が漏れた。

「やり直したいよ」

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