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 帰宅したサラとハンナは、学校の課題をこなしてから、自由な時間を過ごす。

 二人は対照的で、インドア派のハンナは専ら音楽を聴きながら小説を読むか、ネットフリックスで映画やドラマを鑑賞するのに対して、サラは外に出て体を動かすのが大好きだ。

「ちょっと走ってくる」サラは着替えながらハンナに言う。レギンスにスポーツブラ、上からTシャツを着て、ナイキのエアマックスを履く。

「気をつけて。危ないことしないでねー」ハンナが部屋の奥から返事をする。


 サラは夜の東京を駆ける。

 さっきは「ちょっと」走ると言ったが、それでも1、2時間は走るのが普通だ。サラの家は表参道周辺にあるマンションだが、そこから明治神宮を一周走ることもある。

 決まったコースはない。その時その時の気分で決める。何となく、街そのものに行き先を委ねるような感覚でいる。

 この街は夜になっても光が消えない。人の動きも無くならないし、中にはサラと同じように走っている人もいる。警察官を見ることも多い。何より銃を持った危険人物と出くわすことがない。気をつけていればトラブルに巻き込まれることはないだろうと、自分も家族も考えていた。

 走りながら周囲を感じる。街に溢れる文字、ひらがな、カタカナ、漢字、ローマ字に囲まれるたびに、サラは自分がこれまでと別の文化圏にいることを実感する。サラの生みの父親は日本人で、サラ自身も短期間日本に住んでいたことがあり、日常レベルの日本語は使える。ただ複雑な漢字は知らないので、何かの模様のように目に映る。時に破茶滅茶な英語を見て笑いそうになる。英語の単語を、完全に独自の意味で使っているとしか思えない。

 人に溢れる東京でも、人が少ない場所はある。そんなところを通るときは、走りの中に自由を取り入れる。

 歩道に沿うように並ぶガードパイプに向かって軽く助走をつけ、パイプに手をつき空中で体を回転させ、リバースヴォルトを決める。公園にあるベンチと一体になったテーブルを、ダブルコングヴォルトで飛び越す。登れそうな壁はウォールランで登ってみる。階段の手すりから手すりにプレシジョンジャンプをする。壁に阻まれたときは、ウォールフリップしてから方向転換する。

 どう移動すればいいか、どう障害物を乗り越えればいいかを、街に教えてもらっているような感覚。それをサラはパルクールをやりながら味わう。

 サラの中ではこれは「危ないこと」のカテゴリーに入っていなかった。怪我しない、させないことにはもちろん、補導されないことにも十分注意をしている。


 走っているうちに、夕食をとったエリアに近づいてきたことにふと気がつく。

 サラが嫌な“気配”を感じ取ったのは、その時だった。

 この感覚をサラは覚えている。存在を捉えられない何者かが、何かを成し遂げようと意思を固める、その決意や覚悟が伝わってくるような感覚。忘れもしない。

 その“何か”が実行に移されると、恐ろしい暴力が出現し、巻き込まれた人間は死ぬか、ひどく傷つくか、いずれにせよ元には戻れない状態になるのだ。

 そこに行かなければならないような気がした。

 その“気配”が強い方に向かって駆け出した。



 亜由美は23時にシフトを終え、《Footprints》を出る。

 店は大通りから路地に入り、いくつか角を曲がったところにある。この時間になると、通行人もほとんど見かけなくなる。

 亜由美は建物の影に、男が壁にもたれながら立っているのを見た。さっき、店で女性に薬を盛ろうとした若い男だった。見渡すと、その男以外には人はいなかった。

 男の視線を感じる。それにはなるべく反応しないようにしながら、人通りの多い道に向かう。

「無視しないでよ、ねえ」

 男が亜由美に声をかける。

 亜由美は少し逡巡した後、男に視線を向ける。

「君さあ、さっき俺のことチクった?」亜由美に向かって歩きながら、男が訊く。

 亜由美は男との距離を測る。一歩踏み込んでも手が届かない間合いを保つ。ゆっくり歩きながら、脳内で大通りまで全力疾走するシミュレーションを行う。ポケットの中で、iPhoneのサイドボタンと音量ボタンに手をかける。緊急SOSと同時に、警告音が鳴るようになっている。

「何のことですか?」亜由美は話をはぐらかすことにする。

「わかってるでしょ?」男が一歩近づく。

「そういうの、やめて下さい」亜由美は一歩下がりながら、大通り側に回り込む。

「てか俺は、君と駆け引きしに来たんじゃないんだ。君は俺の命令を聞かなきゃならなくなる」

「あんまりしつこいと、警察呼びますよ」

「いや、君にはもう何もできない」男が笑う。

「だって君は、俺の目を見てるだろ?」

 男は〈催眠〉を発動させる。



 サラは“気配”の震源に辿り着く。

 建物の影から覗き込むと、人のいない路地の真ん中で向かい合う男女を見つける。男は小柄で、日本のファッション誌に出てきそうな服装をしている。

 女の方を見て、サラは息を呑んだ。アユミだ。さっきのお店のバーテンダー。

 “気配”は二人の立つ場所から感じる。あれはただ向かい合ってるだけじゃない。通常の自然現象を超えた“力”が働いてる。そうサラは思った。

 なぜそうだとわかるか。それは、自分にも、“力”があるからだ。

 二人は一歩も動かないが、二人の間を接続する“何か”の存在を感じた。それは男からアユミに伸びているようだった。

 男が“力”を持っていて、アユミに何かしようとしているんだ。それも、とても良くないことを。

 許されることじゃない。

 サラはアユミを助けるために建物の影から飛び出す。

「おい!!」

 日本語で叫ぶ。

「その人から離れろっ!!」



 今仲は突然の怒鳴り声で心臓が止まりそうになった。

 声のする方を見ると、背の高い人影が目に入る。

 街灯の光の当たり方のせいで、顔や表情は見えなかったが、喰い殺さんばかりの殺気が伝わってくる。

 そんなことより最悪なのは、そいつから自分と同じ超能力者の匂いがすることだ。チート使いは現実世界で無双できるが、相手もチート使いなら話は変わってくる。

 影がこちらに向かって駆け出す。

 弾かれたように、今仲は逃げ出す。



「大丈夫!?」

 サラはアユミの両肩を掴んで声をかける。

「大丈夫、だけど……え、何?」

 アユミは戸惑いの表情を浮かべる。

「なら良かった」

 サラは逃げ出した男を目で追う。

 男は3階建てのビルを登っていた――普通の人には届かない場所に手と足をかけ、普通の人には届かない間隔を飛び移って。

 あいつ、身体を〈強化〉できるんだ。サラは男を睨む。

 でもそれなら私だってできる――というか、私の方が上だ。

「行かないと」

 アユミにそう言うと、サラは駆け出す。

 同時に自分の〈身体強化〉を発動する。

 全身の肌と筋肉が、より高性能な物質に置き換わるような感覚を味わう。アイアンマンのスーツを着たら、完全一致ではないにしても近い感じを味わえるんじゃないかと思う。

 離陸寸前のジェット機の中にいるような加速度と高揚感が全身を駆け巡る。

 男の登ったビルとその隣のビルとの距離や空間配置を測りながら助走をつけ、地面を蹴る。ビルの間で、2回壁を蹴って、3階建てのビルの屋上に到達する。

 男は屋根伝いに隣のビルに移っていて、そのもう一つ先のビルに跳ぼうとしていた。

 サラは屋上の柵を蹴って宙に躍り出る。

 眼下の路上が店の明かりに照らされ淡く色付いているのが見える。

 隣の屋上の柵を両手で掴み、跳び箱を跳ぶときのように前に身体を押し出す。その推進力で屋上をひとっ飛びし、反対側の柵でも同じことをやる。手を2回ついただけで、ビル一つを飛び越したことになる。

 このダブルコング・超能力バージョンを使うと、目の前に男の背中が見えてくる。



 も、も、もう追いつかれそうなんだが!?

 今仲は泣き出しそうになっていた。あいつは俺よりも身体性能が高い。俺よりも強い。

 やばい、やばい、やばい。

 後ろに気配を感じる。

 死に物狂いで走る。

 自分がどこを走っているかもわからない。

 ひたすらにビルとビルの間を飛び越し、屋上の障害物を躱し、空調設備を乗り越える。

 気づくと背後の気配が消えている。振り返ると誰もいない。

 撒いたか?……そう思って正面を向くと、目の前に影が回転しながら着地した。今仲は自分が撒いたのではなく回り込まれたのだと悟った。足が震え、股間が熱くなる。

 正面の影と目が合う。こうなったら、一か八かだ。


「止まれ!」


 影の動きが一瞬止まった。

 その隙をついて、今仲はビルから路地裏に飛び降りる。そのまま走って大通りに出てみると、天の恵みか、地下鉄の駅の入り口が見える。階段を駆け下り、改札を通り、電車に駆け込む。電車のドアが閉まってから、同じ電車に奴が乗り込んでいないか確認する。

 安全だと分かると、今仲はへなへなと床に座り込んだ。助かった。



「くそっ!」サラは声に出して叫ぶ。

 くそっ、くそっ。何だ、さっきのは。

 “止まれ”という観念がいきなり脳内に侵入して、まるで私の意思のように振る舞い、それに従わざるをえなくなった。身体の芯からぞっとする感覚だった。

 数秒で振り払うことができたが、その数秒のせいであいつを取り逃した。屋上から下を見下ろしたときには、人混みの中からあいつを探し出すのは不可能になっていた。

 さすがに息が切れた。深呼吸し、呼吸と心拍を回復する。Tシャツを捲り上げて、顔と首の汗を拭く。

 今日は仕方がない。家に帰らないと。

 ――そうだ、アユミは?

 元いた場所に戻ると、アユミはいなかった。無関係な歩行者が数人歩いているだけだった。

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