第4章「幻想」②

 リンダに付き添った医務局勤務の男からリンダが目を覚ました旨の連絡を受けた後、五人はぞろぞろと連れ立って通路を移動した。事故を知らされていない連中は顔を見ればすぐに分かるわね、とやけくそ気味にハンナは胸の中につぶやく。何しろ、ヘンリーとダグラスが連れ立って歩いているのだ。残るメンバーも若い准尉に技術補佐官、それに医師。多くの者が顔見知り以上の関係にある同士の小さな都市のことだもの、これだけそろって注目されない方がおかしい。

 部屋にたどり着く頃には、五人中四人がそれとなしに歩調を緩め、部屋にはヘンリーが先頭に立って入ることになった。扉が開くが早いか、ベッドの側に腰をかがめていた白衣の男が背後を振り返る。

「大佐」

 短く声を落とした後、白衣の男は姿勢を正し、ヘンリーに場所を譲った。遅れて部屋に入ったバトラーに続いて部屋に入るが早いか、ハロルドはたっと駆け出してベッドの側に立つ。続いてダグラス、ハンナが部屋に入ると、扉は平常どおり軽く風を切るような音を立てて閉まった。部屋の中に、それ以外の音はない。

 リンダはベッドの上に上半身を起こし、マグカップを持たされた両手を足の上に置いていた。半眼とはいかぬまでも、わずかに伏せられた目はどこを見ているとも知れない。

「ラードロフ……」

 ややあって、ヘンリーが遠慮がちに声をかけた。普段しゃべる時とはまるで違う、ささやくような抑え目の声だ。

 リンダはぴくりと片腕を動かしたものの、それ以外には何も反応しなかった。

「リンダさん──あの……」

 誰が声をかけたところで、今しばらくの間は同じだろうか。どんな反応も覚悟の上で、ハロルドは恐る恐る声をかける。ヘンリーににらまれるかもしれないとちらりと思ったが、今はそんなことはどうだっていい。

 眠る時のように瞼をそっと伏せた後、リンダはゆっくりと瞬いた。二度、三度と瞬きを繰り返し、何度目かの瞬きの後でそっと顔を横へ動かす。

「ハロル……」

 名前を呼びかけたところで動きを止め、リンダはわずかに顎を上向けた。開いたままの唇がかすかに震えている。

 喉の奥で咳払いをして、ヘンリーがすっと身を引いた。とまどいながらハロルドは移動し、上半身を起こしているリンダのほぼ真横に立って腰をかがめる。

「ハロルド……あの……あの人……」

 聞きようによっては独白にも聞こえる小さな小さな声を落としながら、リンダはうつむき緩く首を振った。遠慮がちに手を伸ばし、ハロルドはリンダの左上腕部に手を添える。

 腕の裏側にハロルドの手が触れると、瞼を伏せてリンダは首をそちらに伸ばした。左腕を後方に引き、上半身をひねってハロルドの腕にもたれかかるような姿勢をとる。マグカップは右手に持ったままだ。

「どうして……あの人、どうして……わたし……」

 リンダがこぼすことばのひとつひとつは文章としてのまとまった形にはならず、ハロルドは口を固く結んでわずかに頭を振った。ためらいながら左手を伸ばし、ベッドの側に片膝をついて、うつむいたリンダを抱き支えるような姿勢を作る。

 リンダは瞼をきつく閉じ、うつむいた状態のままで肩を震わせていた。唇が、わなないている。引きつれたような声が喉の奥から漏れ、すすり泣きへと変わっていく。

 シャツの上腕部をつかむ、リンダの両手が重かった。抑えた悲痛にかけられることばが見つからない。リンダの手を離れ、不安定なマグカップを左手でそっと支えてハロルドは瞼を伏せた。階段を駆け上がるリンダの足音が、荒い呼吸が耳の奥によみがえるようだ。

 ハロルドの背後でヘンリーは足音を殺して後退し、左肘でハンナをつついた。

「なんでもいいから落ち着かせて、話を聞くことはできんのかね」

 小声でぼそぼそと無理難題を吹っかける。

 胸の奥に空気をため、ハンナは長く吐息を吐いた。馬鹿なことを。瞼を伏せ、首を振る。

「急ぐだけ無駄です。今はとにかく、気持ちを落ち着けて──必要なら、向精神薬を」

 なるべく声を立てないように、ぽそぽそと舌先でささやくようにハンナは応じた。ちらりとヘンリーに向けた視線に、嫌悪の念が過ぎていく。

「リンダ?」

 ハロルドの声が、名前を呼んだ。彼には珍しく、呼び捨てにしたようだ。

 声に誘われたようにして、四人とその場に残っていた白衣の男はハロルドの背を見る。ハロルドは両膝をついた姿勢からリンダを支え、リンダはハロルドにつかまった姿勢でうつむいていた。

「リンダさん? どう……」

 すすり泣く声が不意に途切れたことをいぶかって、ハロルドはそっとリンダをのぞき込もうとする。

 リンダは下向きに呆然と開いていた目をぱち、ぱちと瞬き、そしてゆっくりと顔を上げた。見てはならないものを見る時のように、そっと。

 焦点が、合った。そして目が。反射的にハンナはすうっと息を吸い、そして止める。

「……い」

 リンダは喉の奥から声をしぼり出し、大きく口を開いた。唇が、頭が奇妙なリズムで震えている。

 やがてそれは、頭を振る動作に変わった。眉が寄り、瞼が伏せられ、横に引っ張られるように唇が開く。

「いやっ……」

 かすれるような声が、その喉から飛び出した。唇に力を入れ、ハンナはこくっと唾を飲む。リンダは再びハロルドの腕の中に顔を伏せ、激しく首を振っていた。ハロルドの片手では支えきれなかったのか、ベッドの上にマグカップの中身が飛び散る。

「……出るわ。誰か代わりを呼ぶから」

 感情を押し殺した声で早口に言い捨てると、さっとハンナは身をひるがえした。ここにはいない方がいい。あたしはいない方がいい。

「ドク……!」

 開いた扉を抜け、すたすたと歩き出したハンナの後をあわててダグラスが追ってきた。バトラーは自分も追うべきかと扉とベッドの間に忙しく顔を行き来させ、扉が閉まったところで断念する。

 ヘンリーはしかめ面を作り、苛立ちをぶつけるようにぎっとバトラーをにらみつけた。バトラーはわずかに身を引くが、ふたりを追うタイミングを逃してしまった以上、他に逃げ出す理由がない。

「他に代わりをとおっしゃいましたが」

 残っていた白衣の男がヘンリーの側に寄り、小声で言った。

「しばらくの間なら、私が側にいられます。常時誰かが側にいられるように手配しましょう。今のところは、これで」

 両手の掌をヘンリーの前に上げ、男は退出をうながすようなしぐさをする。

 ヘンリーとバトラーは顔を合わせ、ともに一旦ベッドを見やってから、促されるままに部屋を出た。


 数分後、人の出入りを自動的に感知して明るくなる部屋の照明を忌々しげににらみ、重いため息をこらえてダグラスは壁際に立ち尽くしていた。部屋を駆け出したハンナに追いついた後、とにかく落ち着きましょうと声をかけ、今いる場所は医療フロアの空いた一室である。

 部屋の壁際に寄せた長い机の脇にハンナは立ち止まり、口もとを抑えたまま沈黙していた。さすがに動揺しているようだ。

 誰かひとり、自分以外に動揺した者が身近にいると、反比例するように心は奇妙な落ち着きを得るものなのだろうか。ダグラスは苦々しげにそんなことを思った。事故を目の当たりにしていないせいかもしれないが、自分にしてはやけに落ち着いているようだ。人がひとり、まだつい先ほど死んだというのに。

「……のが午前中で」

 独白のようにこぼれたハンナの声に気づいて顔を上げると、ハンナは瞼を伏せて状況を整理しようとしているようだった。両手の指先をこめかみに当てている。冷静さをとり戻そうと必死になっているのかもしれなかった。

「その時はどんなようすだったの。お昼には催眠剤を飲んでいたと言うのなら」

 いつにない弱々しげな視線をダグラスに投げかけ、ハンナは問う。ダグラスは返答に迷って、すぐに口を開く代わりに首を軽く振った。

「──ようすが」

 ややあってダグラスが口を開くと、ハンナはダグラスの正面に向き直る。

「彼を、コウ・アローをカメラで見た時、ようすがおかしかったことは確かです。確か──ありえない、と。彼がコウ・アローであるはずがない、と……」

「ありえない?」

 ハンナは眉をひそめたまま、早口に問い返した。ひどく不自然な言い回しのように聞こえる。

「その後で、再報告には時間が必要だと言ったんです。彼のことを思い出さなければと……思い出す?」

 昨日の午前中の状況を思い出しながら説明するうちに、自身の放ったせりふに疑問を抱いたようにダグラスはことばを切った。そうだ、アンディは確かに「思い出さなければ」と言った。見知らぬ人物であるはずの少年をとらえて言うせりふではない。

「……夢の中に。セトアの夢の中に」

 合点がいったようにハンナは口を開き、ことばを確かめるように繰り返した。

「夢の中に──いたんじゃないの? あの子──あの子の幻影が──そう、街の人たちの投影として……?」

 ハンナ自身、たどり着いた答えを口にすることで確認しているようだ。呆然としたハンナの目を同じように呆然とした目でダグラスは見返し、やがて目に乾きを感じてぱちぱちと瞬いた。無意識は時に、細やかなことばの変化によって個体の外へと放たれる。あの場に落としたつぶやきは、アンディ自身思いも寄らない場所からやってきたものだったのかもしれない。

「……記録の再現を! その時の状況は録音されている? それにそう、アンディが出した報告とユウリとの引き継ぎ! 何か分かるかもしれないわ」

 たとえそう、アンディを助けるには何もかもが手遅れだったとしても。

 セトアの夢には、まだユウリとウォルターがいる。

「アンディのことをどうこう言ったって、もう彼は帰ってきやしないわ。せめて──」

 自分に言い聞かせるようにハンナは強く言い放った。平常の調子に近づいた口調とは裏腹に、表情は沈痛に歪んでいる。だが、気丈であらねば。

 悔いても、届くわけではない。それよりも彼のために、手を差し伸べられなかった代わりにできることがあるはずだ。

 目前に歩むべき道を見つけたように、ダグラスはたっと駆け部屋にある端末の前に立った。自身のパスを使えば、この場所からでも記録の再現は可能なはずだ。

 ハンナに顔を向けたダグラスが唇を結んでうなずくと、ハンナはゆっくりとうなずき返して腕を下ろした。足もとを確かめるようにして、慎重に一歩を踏み出す。

 唇を舐めると、ダグラスは手馴れた動作で端末の操作を開始した。ハンナはその斜め背後に立ち、ダグラスの手もとに視線を注ぐ。

 己の手もとを見守るハンナの視線を、重圧ではなく強く背を押す原動力のようにダグラスは感じていた。


 アンディとセトアの夢に関する記録の再現にはかなりの時間を要したが、集中した意識には時間の経過など意味のないようなものだった。内密の話として守られるはずだったアルフレッドの部屋でのやりとりを含め、記録は確かな足どりをダグラスとハンナの内側に刻んでいく。

「彼がコウ・アロー? ありえません。絶対にありえない!」

 言い放ったアンディの声音には、確かに動揺の影がある。今となっては、心の叫びにさえ聞こえる声。

「報告は、少し待ってください。彼のことを思い出さなきゃ」

「この時に」

 端末に接続されたスピーカーから発せられるアンディの声のおしまいに、ダグラスの声がそっと重なる。

「おかしいなとは思ったんです。彼が妙に……その、焦っているような感じで。そりゃ、我々もコウ・アローの生存には驚きましたが、それとはまた異質な何かが……」

 言いながらダグラスは顔を上向け、右手を持ち上げて額に当てた。ため息をついて頭を振る。

「──違う。今だからそう思うのか……分かりません。ただ、違和感があったことは確かだ」

「でも報告の中に、それらしい人物のことは書かれていなかったでしょう?」

 スピーカーから放たれるアルフレッド、ヘンリー、ダグラスそれぞれの声を遮り、ハンナは端末の端に両手をかけた。口もとに手をやって考え込むダグラスの顔を下方からのぞくように首を左にひねる。

 ダグラスもハンナも、ウォルターとアンディが提出した報告書にはきっちりと目を通していた。セトアの夢にユウリを派遣することが決定した後、何か手助けのできることがあれば、とそれぞれに同じことを考えていたのである。

「ええ。それから、ユウリとの引き継ぎが……」

 アルフレッドの部屋の記録の再現が終わるが早いか、ダグラスは再び端末の操作を開始した。口頭による引き継ぎが行われたのは二回、一月三十日と二月二日だ。

 手早くデータを呼び出すと、ダグラスは唇を噛んでスピーカーから発せられる音に耳を傾けた。一月三十日の記録は午前九時五十八分から始まっている。

 その日アンディとユウリが部屋を訪れたのは、ほとんど同時のようだった。引き継ぎは他愛もない雑談で始まり、ふたりはアンディの報告の要旨をひとつひとつ丁寧になぞっている。

「生活力がないように見えるのは、睡眠前の生活をそのまま反映しているのかもしれないね。機械化が進んで、──貨幣のやりとりがないということは、金銭感覚と同時に生活の感覚を鈍らせるから」

「ある部分では、ここの生活に似てもいますよ。睡眠前も、人々がドームの外に出ることは少なかったのでしょうし……」

 ふたりの声の合間には、互いに向ける相槌の他、時折笑い声のようなものが混じっていた。

「……あとはね、生死が明らかでない人の幻覚についてなんだけれど、最初に気がついたのはいつ頃?」

 しばらく進んだ先の会話に、ダグラスとハンナはそれぞれに喉を鳴らす。ここから始まる会話の中に、何かヒントが転がってはいないか。

「同調からそんなに間もない頃ですよ。年少の──十二、三歳かな、適用年齢以下に思われる女の子を見かけたんです。それでウォルターと別れて、見逃さないように左右両方から後を追ったんですが」

 容姿の説明がないことに、ダグラスは小さくため息をついた。十二、三歳の少女と聞いて真っ先に思い出すのは、あの美しい少女のことだ。もっとも、アンディの口調と話の流れから判断するに、ここで取り沙汰されている「女の子」というのは彼女とは別の存在だろう。

「尾行されていることには気づいていなかったと思います。ですが気がついた時には姿を見失っていました。状況を整理してウォルターと突き合わせてみたんですが、人が入り込むような場所は近くに見当たらなくて」

「うん……他にはどう」

「同様のケースの他、純粋に見失ったと思われることもありました。また、年齢性別は千差万別で、睡眠法の適用を受けるとは思えない高齢の男性の姿も何度か確認されました。外見年齢は……六十代後半、おそらくそれくらいで、ややもすると病的な」

 スピーカーの向こうで、ユウリはふんふんとうなずいているようだった。

「実際の年齢と一致しないことはあっても、極端に老いて見えるケースは確かに少ないよね。うん、分かった。じゃあ次に……」

 生死の定かでない人々の徘徊に関する話題は、それだけで終わったようだ。ダグラスとハンナは顔を見合わせ、互いに首を傾げた。

「触れていないわね」

「触れていませんね」

 確認し合うように声を発する。

「まずは一通り聞いてみましょう。二月二日の分もありますし」

 そういってふたりがうなずき合い、再びスピーカーの音声に耳を傾けかけた時、しゅっと音を立てて扉が開いた。ふたりはともに扉を向く。

 扉の向こうにはバトラーが立っていた。

「失礼します。あの、リンダさんなんですが」

 軽く頭を下げて部屋に入ってきた後、バトラーはなんの説明もなしに本題に入る。表情と声音に、焦りがちらついていた。

「ハロルドさんと医師がついているんですが、多少は落ち着かれたようです。それで彼、コウ・アローについてなんですが」

 ことばを切り、息をつなぐとすぐにバトラーは続ける。

「アンディさんのお話としてですが、セトアの夢の中に彼と同一人物と思われる少年がいたようです。ただ、アンディさんはその少年は生きているに違いないと判断してらっしゃったそうで、特に問題視はされていなかったとか──」

 バトラーのせりふの中ほどで、ダグラスとハンナは互いに顔を見合わせた。やはり。

「どうしてそんな判断に?」

 ハンナの問いに、バトラーは口を閉ざして頭を振る。視線は、しっかりとふたりに固定されていた。

「そのあたりのことは、まだ分かりません。先ほどボウさんがいらっしゃって、ハロルドさんと一緒に話を聞くと」

「そうか、分かった。ありがとう」

 ダグラスはうなずき、記録の再現を中断させた。バトラーが部屋を訪れた後、聞き流していた部分を再度呼び出して再生する。

「また何か分かりしだいお知らせします」

 挨拶の代わりにそう言って、バトラーは部屋を退出した。扉が閉まる音にかぶさるように、スピーカーからユウリの声が流れ出す。

 ボウは初期段階から二十年以上夢の世界の解析にかかわってきただけあり、負担をかけずに人の心に踏み込むことに関しては熟練者だ。リンダのことは彼に任せ、自分たちは自分たちで考えられる限りのことをしよう。

 思いを新たに、ふたりは記録の再現に臨むことになった。


 時間を追うにつれ、多少とは言え落ち着きをとり戻しつつあったリンダの側には、ハロルドとボウの姿があった。ともにベッドの側にいすを寄せ、リンダのようすを見守りながら話を聞いている。

 ベッドから離れた位置には、常に医務局に勤務する者が待機していた。あちこちに顔を出す上に口の悪いハンナとは違って、目立たないが着実に仕事をこなしている医師補佐のひとりである。同性であることからユウリに関する仕事はすべてハンナが受け持っていたが、残る仕事については適宜分担されており、医務局には現在四人の医師補佐が勤務しハンナを補佐していた。それぞれの下には、さらに十人前後の補佐がついている。そのうちのひとりふたりがリンダに付き添っていることは可能だった。

「彼は生きているはずだと言ったんです、あの人。最初……最初は幻覚だと思ったようですが、後になって考えを改めたようで」

 ぽつりぽつりとリンダがしゃべる時、ボウは相槌を打つだけで質問を投げかけることは少なかった。第三者からの冷静な問いが、時に主観と感情にもたらす負担を承知しているためだ。

 心に余裕がある時ならともかく、客観的な視点はこういう場合には邪魔なものでしかなかった。主観的でいい、視点の偏りはその気になれば後から排除することができる。

「でもわたし……わたし、あの人がそんなふうに感じた理由を聞くはずで……っ」

 後半を一息に言い切ると、リンダは親指のつけ根で涙をぬぐった。リンダを驚かせないようにボウはそっと手を伸ばし、あやすようにぽん、ぽんと背を叩く。

 両手で顔を覆ったリンダを心配そうに見守るハロルドを見やり、何も言うな、とボウは視線にことばをこめた。ボウの視線に気づき、ハロルドはふたりから顔をそらして小さくうなずく。

 ひっく、とリンダが喉を鳴らす音がやけに部屋に響く気がしていた。ボウはわずかに目を細め、リンダの背に置いた手で時折背中を叩いている。

 堤防裏とコウが呼んだ場所についてひとつでも多く情報を得たいと思ったが、マルコフに再報告を求めたことがまさかこんな結果を導き出してしまうとは。あの街にはどうやら、思いもかけなかった問題がひそんでいるようだ、とボウは胸の奥につぶやいた。

「あの……あの子が言ったんです。わたし……」

 すすり泣く中に、再びリンダはぽつぽつとことばをつなぐ。しゃべらなくては、と思って口を開くのではなくて、涙があふれるのと同様、ことばが勝手に喉を上がってくるようだ。聞いてほしい、ただ聞いてほしい。わたしは気づいてやれなかった。

「眠りに入る少し前に……あの人、あの街に憧れていたって。何か憧れに近い感情があって、あの……あの人、セトアの空はとてもきれいだと」

 うん、うんと喉の奥から相槌を打つ他は、ボウは黙ってリンダの声を聞いていた。夢の世界への憧れは、夢に同調する者なら持っていて当然だ。はっきりした自覚はなくとも、あるいは本人がいかに否定しようとも、ともに在れない世界には誰もが憧れる。憧れるからこそ、その世界の闇に近づく。闇とはすなわち心の奥、無意識という永遠の空間を支配するあらゆる存在だ。人は夢に、己を放つ。

 自覚の有無、そして望むと望まざるとにかかわらず、己の内にあるすべてが投影される無限世界。それこそが共通する夢だった。憧憬する自我を確立できて初めて、人は解析者としてあの世界に臨むことができる。

 マルコフには思わぬ負担を強いてしまったな、とボウは閉じた瞼の裏に思いを流した。彼の存在、あるいは侵入者の正体を告げさえしなければ、マルコフは心の蓋を開けずにすんだかもしれない。憧憬に鍵をかったまま、別の新たな任務に向かえたかもしれない。セトアの夢を最後に夢の世界に臨むことはなくとも、せめてリンダの側にはいられたかもしれない……。

 ──残る情報源は、彼だけか。

 リンダの側で嘆きを受け止めるのとは別の次元で、耳になじんだ己の声が響いた。


 ハンナとともに進めていた記録の再現が終わりに近づいた頃、ヘンリーに命じられてダグラスは再びコウと面談をすることになった。目撃者のひとりには違いないのだから、何か有益な情報があるかもしれない、とヘンリーがバトラーを通じて命令をよこしたためである。

 こちらこそ、何か少しでも分かることがあればと再現に意識を集中していたというのに、そんなものは後でもいいだと? 余計なお世話だ。ダグラスは心中に毒づいていた。

 真意を尋ねに行ってやったら、とにかく目撃者の話を聞けとヘンリーは再三繰り返したが、そもそもコウは政府側の人間ではない。彼の話ならそれこそ後でいくらでも聞けるだろう、と正直なところダグラスは考えていた。それに、どこをどうつついたら彼が素直に協力してくれると言うのか。

 第一、彼から話を聞きたいと思うなら、自分で面談すればいいじゃないか。声には出さずぶつつくダグラスの向かいで、コウはそ知らぬ顔をしていた。

 場所は、最初にダグラスとコウと面談したのと同じような部屋で、机はやはり大きな四角形を描いていた。もっとも、今回は部屋の中で警戒に当たる者はいない。昨日、ボウがコウからセトアの情報を引き出そうとした際にはコウは素直に応じたんだそうで、それならば見張りなど必要ないだろうというのが理由らしい。

 最初に私に彼を押しつけた時といい今回といい、半分以上は嫌がらせに違いないとダグラスは思っていた。まったく、何故私ばかりが。

「何がなんだか知らねぇけど、大変そうだな? ご苦労様」

 黙っていても退屈なだけだったので、コウは顎をしゃくってダグラスをからかってみた。両足を机の上に上げ、手錠をかけられたままの手は頭の後ろで組んでいる。

 非協力的であるだけでなく見るからに腹の立つ姿勢だが、ダグラスには姿勢を正せと言う気力もなかった。

「茶化すな」

 かけられた声を無視するのはさすがに気が引けて、ダグラスは不機嫌に言い放つ。ヘンリーの命令に従い、話を聞く気には到底なれなかった。

「なんで? 不機嫌そうだな、おい。こないだと大違いじゃん、あん時ゃ少しは冷静だったのに」

 平然とした顔で、コウはさらに声をかけてくる。

 苛立ちを抑えるように息を吸い込んで一旦口を閉じた後、ダグラスは低く抑えた声を発した。

「人がひとり、死んだんだ。ふざけるな」

「人がひとり?」

 後頭部から手を浮かして首をそらし、コウは下方に向けた視界にダグラスの姿を収める。じゃら、と音を立てて手を体の前に戻すと、コウはゆっくりと首を回した。

「ああ、そうだ」

 不機嫌極まりない声を発し、コウから顔をそらしてダグラスは頬杖をつく。

「人が、ひとり。へえ」

 眉を上げ、コウは言った。黒灰色の瞳でダグラスをねめつけたまま、机の上に上げていた足を下ろす。尻の位置をわずかにずらし、両肘を机の上に置く。

「ひとりね。笑わせるんじゃねぇよ」

 押し殺した声にある特有の暗さに、ダグラスはぱちりと瞬いた。聞き覚えのあるこの声──最初に面談した際に、聞いた音質。

「笑わせるんじゃねぇよ! ぬくぬくとぬるま湯にひたりやがって。それがいったいどうしたって言うんだ? その程度のことが!」

 机に乗せた両肘に力を入れ、その勢いで立ち上がると、コウは勢いよく言い放った。掌から頬を浮かし、ダグラスは顔の向きをコウに向ける。

「死んだったって、あんなもん自殺だろう? 死にたい奴は死なせてやれよ! それでいいじゃないか!」

「──いいかげんにしないかっ」

 バンッ、と両手で机を叩き、コウに対抗するようにダグラスも身を乗り出した。

「部外者でも言っていいことと悪いことがあるだろう! どれほど厳しい生活を送ってきたか知らんが──」

「なんでもかんでもひとくくりにして分かったような気になってんじゃねぇっ!」

「私がいつそんなことを言った!」

「たった今言っただろっ! おまえとおれとじゃ、厳しさの感覚が違うんだよッ」

 互いに感情的になり、机を挟んでダグラスとコウはにらみ合っている。

「感覚の違いなど関係あるかっ。だいたいおまえさえここに来なければ、こんなことにはならなかったんだ!」

「なんでそれがおれのせいになるんだ! 顔も知らねぇ奴が死んだからってどうしろって言うんだよっ? そもそもおれはおれの用事があって来ただけだろ!」

「だったらその用事はなんだと言うんだ! 免罪だと? ふざけるのもいいかげんにしろっ」

「誰がふざけてるって? 言っとくがな、おれは──」

 おれは命がけでここに来たんだ、と続けて怒鳴りかけたところで後ろ襟をぐいっとつかまれ、コウは続く声を呑み込んだ。右側を見やる。ボウだった。

 右手をふと見れば、ボウの背後の扉は開きっぱなしになっている。その向こうからのぞいていた見張りらしい男は、コウと目が合うとぱっと壁の向こうに隠れた。

「ダグラス。いいかげんにしないか」

 ふたりが声を荒げている間に入ってきたのだろう、コウを無理やりいすに座らせ、ボウはダグラスに静かな声を向ける。コウは憮然とした表情でボウを見上げた。

「突っかかられていちいち反応するんじゃない、扉が開いたことにも気がつかなかったのか? それにコウ、君も君だ。口が過ぎる」

「なんだっておれがおまえらに遠慮しなくちゃなんねぇんだよ。関係ねぇだろ!」

「関係があるかどうかは別にしてだ!」

 いつになく早口にボウは言い捨て、再びダグラスに顔を向けた。

「いいかダグラス、おまえも少し落ち着くんだ。昔に比べれば最近は格段に事故は減っている、だがいいか。これは決して珍しい事故じゃないんだ。昔の話ばかりを持ち出す気はないが」

「だから事故じゃねぇだろって言ってんのに。てめぇから転がり落ちたんじゃねぇか」

「君は黙っていなさい」

 見下ろされ、コウはわざとらしく長いため息を吐いた。

 ダグラスはすでに席に座り直し、ふてくされた顔で沈黙している。弁解をしようともしなかった。

「モルガンに命じられたそうだが、これはなんのための面談だ、ダグラス? ついさっきまで、ガーネットと一緒にマルコフの記録をたどっていたそうだな。それはなんのための行動だ?」

 体の両側に腕をだらりと落としてダグラスはちらりとボウを見、また視線を落とす。叱られている子どものようだという自覚はない。

「マルコフを理解するためか。それともカッツとユウリを助けるためか? 月末のカッツの覚醒を待って」

 問われた後、ダグラスは大きく開いた目をボウに向けた。言われた内容を即座に理解できなかったような、呆けた顔だ。

「……分かりませんよ!」

 ボウから目をそらし、わずかに間を置いた後、だん、と机に両腕を叩きつけ、ダグラスはその上に顔を伏せた。そのまま頭を左右に振って、声にならない返事にもごもごと口を動かす。

 交わされる人名に心当たりのないコウは、ダグラスの行動にわずかに表情を動かしつつ沈黙を保っていた。ボウはただじっとダグラスを見つめている。

「分かりません。ただ──ただ、何かできることがないかと。それだけで……」

 語尾は、かすかに震えていた。

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