第3話 阿部美穂は勉強が上手くできない①
このカウンセリングルームは俺が学園の理事長に恩を売ったがゆえに手に入ったものだ。フルタイム、正職員勤務、給与は安いがカウンセラーとして恵まれている。
世のカウンセラーの多くは非常勤勤務で、週に一、二度カウンセリングルームに入るのが普通で、仕事は掛け持ちが基本だ。だから正職員で独立した部屋まで与えられている環境は極めてまれだ。俺はそれに加えてそれほど懸命に働く必要もない。理事長が俺の後援者であることは学園内で誰もが知っていることであり、ゆえに教師も職員も俺に何か言って来るということはない。つまり俺のカウンセリングルームは独立空間と言って良い。
その独立空間である俺のカウンセリングルームは、俺のデスクの他に、極めて座り心地の良い3人掛けソファがガラステーブルを挟んで向き合って置かれている。
1学期の期末テストが終わった三日、答案返却のあった翌日、俺はそのソファに座り、三人の生徒と向き合った。川中聡美が新たな相談者を連れてきたのだ。
俺の正面左手にチーカマこと鎌田千秋、真ん中に相談者阿川恵美、そして右手に川中聡美が座っている。本来カウンセリングは当時者とカウンセラーの二人のみで行われるものだが、チーカマも川中もカウンセリングルームの守秘義務に関しては意に介していない。チーカマに至っては、興味津々という顔をしている。
俺がとまどったのは、相談があると切り出したのが川中で、当の阿部恵美がきょとんとしている、その様子だった。相談者という自覚がない。
川中の暴走の可能性を感じる。いわゆる余計なお世話だ。
「山﨑先生、こちらの阿部恵美さんの悩みに乗ってあげてください!」
「ちょっとサトミ、何悩みって!」
「だって昨日泣いてたじゃん…」
「それはそうだけど、カウンセリングルームって何よ!」
「阿部ちゃん、この山﨑先生は、高名な心理探偵にして、凄腕のカウンセラーなのよ。私の家の問題も先生のアドバイス通り動いたら、とっても上手くいっているの。だから阿部ちゃんも心理探偵に悩みを言うといいよ!絶対に解決するから!」
「そんな…チーカマ、あなた関係ないじゃん」
「ア・ベ・チャン!私はこの心理探偵山﨑先生の助手だから、遠慮なく悩みをぶつけて大丈夫!」
「チーカマ…助手なの??いや、大丈夫じゃないし…」
勝手な会話を重ねる鎌田と阿部恵美に俺も黙ってはいられなくなった。
「鎌田君、勝手に助手を名乗らないように…そもそも同席は守秘義務違反なんだぞ…二人ともだ!」
「そもそもカウンセリングルームに聡美を連れてきたのはわ・た・し…で、その聡美が阿部さんを連れてきたわけでしょ…カウンセリングルームの営業してるの私じゃない!だから立派な助手でしょう」
「全く、ここはお前たちの時間潰しのための部屋ではないんだがな」
「さあさあ先生!サトミにやったみたいに心理探偵発動してよ」
鎌田が俺を促す。
「楽しみ!」
川中聡美も目を輝かせている。完全な野次馬だ。
「いや、だからいいのか阿部君…二人が同席しても…」
阿部恵美だけ事態が分かっていない状況だった。
「何だか分からないですけど、二人が居てくれた方がいいです…」
「まあ君が構わないならいいけれど…」
俺はこの阿部恵美が何を抱え何を悩んでいるか、すでにあらかた読み取っていた。解決も難しいことではない。手を貸すことは簡単だ。俺も鎌田や川中の煽りに乗る気持ちにいつしかなっていた。阿部恵美の気持ちを心理分析でまず奪い、その後、然るべきカウンセリングを行うことを俺は早々に決めた。
俺は阿部恵美の顔を見て告げた。
「さて阿部さん、阿部恵美さんだね…君の悩みはずばり勉強だ。受験生として勉強が上手く行っていない、そうだろう」
「な・な・なんでそれが分かるんですか…」
阿部恵美は驚いた表情を浮かべ、チーカマと川中は得意げな顔をしている。二人はやはりカウンセリングルームのスタッフのようだ。
「つまり阿部さん、君は今高校3年生受験生で、極めて高いレベルの大学を狙っている…国立大学、うーん一橋大学か…あるいは早稲田か慶應か…でもそんな大学に入れる学力では到底ない…最近模試が返ってきて全部E判定…予備校の夏期講習を山盛り受講して、夏だけでそうだなあ40万くらい投資するんじゃないか…まあ判定やお金の話はさておき、最も問題なのは勉強していても充実感がない…テンポが悪い…学力が伸びている実感がない…そんなところだね」
阿部恵美の顔から色が抜ける。心理探偵はチーカマが名付けた異名だが、探偵なのかどうかはさておき、自分の洞察が的中すると相談者の顔から色が落ちることがよくある。唖然とするのか、呆然とするのか、カウンセリングを見くびっている者の方が返ってはっきりと色が落ちる。
「さて、どうすればいいか聞きたい?」
俺の問いかけに阿部恵美は頷いた。それは阿部恵美の意志とは関係がない無意識の反応に見えた。
「まずお姉さんのアドバイスは全部捨てた方がいい」
これにさらに阿部恵美は驚いて見せた。
「なぜ姉がいることを…」
「見えるんだよ…僕には…」
「怖いんだけど…サトミ何か事前に教えたでしょ、先生に」
チーカマも川中もにんまりしている。
「全然!」
川中が答える。
「まあなぜ分かったかはどうでもいい…メモを取る?スマートフォンで録音してもいいよ…いくよ阿部さん、あなたを幸せにするアドバイスだ」
阿部恵美は魅入られたようにスマートフォンの録音アプリを起動させた。
「心理探偵!種明かし!」
チーカマの声に、川中と阿部が子犬のように盛んに頷く。
「まず泣いたのが昨日…期末テストの答案返却日で阿部さんは泣いた。それで川中さんがカウンセリングルームに連れてきた。ということは期末テスト、成績、そういったことに関係のある悩みということだ。さらに、阿部さんの指定リュック、目一杯物が入ってるね。昨日が答案返却日で荷物は昨日持って帰ったはず。ならば今日のリュックの中身全て勉強関連…みんな受験生だからね。でも指定校推薦や総合型を狙っている鎌田さんと川中さんは鞄が薄い…対して阿部さん、君のリュックには参考書、問題集、予備校のテキストそんなもので一杯なんだろう…つまり狙いは一般入試…これから後も予備校で、悩みは勉強や期末試験のことではなく、ずばり偏差値…ここまで完璧のはず」
チーカマと川中聡美が揃って阿部恵美を見る。
「ま…まちがいありません…」
「それでだ…期末テストがふるわず、期末テストごときで点数が取れないならば偏差値上げるなんて無理だ…そんな心境だったと思うよ。でも、だ…偏差値が上がらない、で泣くなんて大げさではないか」
チーカマが頷く。
「つまり偏差値を上げるということに切実な意味があるということだ。もっと言えば自分の存在意義を偏差値と連動させてしまっているんだ。高校生は成績が上がらないという事実だけで泣きはしないんだよ」
阿部美穂の顔が冷たくなる。
「偏差値というのは、他者との比較でしか成立しないものだ、偏差値を上げるなんて簡単なことだ、母集団の甘い集団でテストを受ければいいんだから。君たちが小学校3年生の世界に転生して試験を受ければ、偏差値80取ったとしても不思議ではないよね。ということは偏差値を気にして泣くということは、学力そのものとは関係ないところで起こる別の心の問題なんだ」
阿部美穂が俺の言葉に心を奪われ始めたことが見て取れる。
「つまり比較だ。誰かと比較しているからこそ偏差値から生じた心の問題は根深い…次の思考は阿部さんが一体誰と比べているかということだ。母親が勉強を無理強いしているかもしれない。あるいは父親が勉強できないことをバカにしているかもしれない。でもこんな親からの暴力は、高校1年生ならば泣いて落ち込むだろうが、高校3年生にもなれば反抗して暴れて、泣いて落ち込むということはまあない。ということは泣くという行為は親との関係性によって起こることではない。ズバリ言おう…兄弟姉妹との比較だ。ここに阿部さんの苦しみの根源がある」
阿部恵美の顔はすでに驚きの表情が張り付いたままとなっている。俺は構わず続ける。このカウンセリングは必ず上手くいく…
「苦しみの根源が兄弟姉妹として、具体的に対象は兄、姉、弟、妹のどれだろうか…これも端的に言えばそれは姉だな…例えば一般的に異性の兄弟との比較では実は人はそれほど苦しまないんだ。出来の言い兄が居るとして、その比較に苦しんで阿部さんが悩む…これは想像しにくい。男尊女卑の日本では、出来のいい兄を持った妹の内面は、自慢、の一言だ。できる兄を誇らしく思う、これが日本の妹の一般的な心性だ。同様に妹、弟も対象から外れる。妹や弟が出来がいいとしても、まだ偏差値競争、学歴競争の結果が出ているわけではない。これから追いかけてくる者には、まだ年長者としての余裕があるものだ。これも苦しみの原因にはなりにくい。となれば同性の姉、これとの比較だ。つまり阿部さん、あなたのお姉さん、どっかすごい大学に行ったんじゃないか…」
気付けば阿部恵美は泣いていた。ぽろぽろと涙をこぼしている。
「うん、泣いた方がいいね。泣くと生まれ変わることができるから…」
川中聡美が阿部恵美にハンカチを渡す。俺はかまわず続ける。
「通った高校もお姉さんの方が偏差値が高い。大学はそうだね慶應か上智の外国語、そんな辺り?」
「慶應の経済です」
「じゃあお姉さん、途中まで東大志望だったんじゃない」
「そうです!そうなんです。通った高校も…」
阿部恵美が挙げた高校は受験女子校御三家に入る学校だった。
さすがにこの的中にチーカマも川中聡美も唖然としている。
「まあ阿部さんの偏差値は、英語国語社会通じて45くらい?」
「…」
「まあ50はないよね」
「はい…」
「で、お姉ちゃんがいろいろいアドバイスしてくる、と」
「そうです」
「お母さんは子供の頃から勉強にうるさくて、それがうざかった…」
「そうです…」
「典型的だね。でもね阿部さん、これは誰が悪いかと言えば、実はお母さんなんだ」
「母が…」
「そう…あなたのお母さんは愛情の分配が余りに下手だ」
「…」
「肯定も否定もしなくていい。ただね、お母さんも何か勉強にわだかまりを抱えているね。お父さんが高学歴で、姑から子供の教育に関してプレッシャーかけられてるとか…あるいは教師か高級公務員でこどもの出来の良さが自身の評価につながる職場で働いてるとか…」
「両方です…私はおばあちゃん好きだけど、おばあちゃん、母に対して当たりが強くて…それに仕事は公務員でまじめな人なんです…」
「嫁と姑の関係に姉妹が巻き込まれているということなんだよ。あなたのお母さんは子供の頃から勉強ができるという側面だけを褒めの対象としてきて、その褒めがが勉強のできるお姉ちゃんの方に偏った…」
阿部美穂の涙が止まらない。川中聡美が阿部の肩を抱く
「阿部さん、君は行きたい大学に合格するために勉強しているのではなく、お母さんに褒められるために勉強してる…それが伸び悩みの原因だ」
「どういうことですか」
川中聡美が横から問を入れる。
「いい大学に行きたい、とにかくいい大学に行きたい…いい大学に行かないと姉のように母親から愛されない…こんな風に目標を定めることは悪い事ではないけど、そもそもの自分に対する現状分析がそこにはない…」
「自分がない…」
チーカマが思いに沈んでつぶやく。
「そう目標にふりまわされて、出発点である自分が全く見えていない。これで勉強がうまくいくはずがない。それにねえ、こういうメンタルはね、予備校の格好の養分になるわけだよ」
「養分…」
ここで阿部恵美が激しく反応した。
「そう養分だ…君は目標とする志望大学を通っている予備校のスタッフに明確に言ったはずだ。それも焦りに焦ってすがるようにアドバイスを求めたはずだ」
「そう言われれば、そうです…」
「となれば君は予備校のためにいくらでもお金を落とす養分として位置づけられる。予備校のスタッフは営利で、本部から売り上げ目標がきちんと設定されている明確なビジネスだ…で、予備校は東大に合格しそうな奴を養分にはしない。むしろそういった者から正規の授業料すら取らない。特待生、特別枠、そういった勧誘をしている。まあ誰もが知っていることだ。だったら売り上げは誰から取る?それが養分だ。阿部さんみたいに成績が悪くて、志望校を高望みしている、そんな生徒には容赦なく請求書を発行する…その生徒が消化できるかとか、その講義が有効かということは関係ないんだ。何しろ養分だからね…」
阿部美穂の顔が驚きから沈痛に変化する。
「阿部さん、君の志望大学は早稲田で、自分では無理かなと思いながら、この出鱈目な競争から降りられない…それで予備校から去年までの合格者はこれを受講してた、あれを受講してた、そんな風に言われて、どんどん講習代金がふくらんでいった…阿部さん、それで早稲田合格すると思う?」
「無理…なんでしょうね…」
「阿部さん、そう答えられる聡明さはあるんだね。そう無理なんだよ、このままでは…君が受験で成功するためのステップ1はまず予備校の夏期講習を極限まで削って自分で考えて自分で手を動かす時間を増やすことだ」
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