ひだまりカフェ
れむ
第1話 まよいびと
いつも終電ギリギリだったが、今夜はついに終電を逃してしまった。
こんな中途半端に都会と住宅街な辺鄙な場所に遅くまで受付しているホテルなどない。かといって、タクシーを気軽に使える金もない。
上を見上げれば、今にも振り出しそうな雨雲が立ち込めていて既に遠くの方では雷の音すら聞こえる気がする。
下を向けば、手元のスマホの充電は5%以下ときた。
何もかもがついていない。最悪だ。
俺はいつだってそう。
(ああ…もうなんだか…………)
口にしてはいけない考えが脳裏にふとよぎる。
死にかけのスマホで必死で近くのホテルを探していると、ふと明るい光に照らされて顔をあげると、そこには2F建てだろうか?カフェにしては大きめな立派な建物があった。
(こんなところに新しいカフェなんかあったか…………?)
それに時間は当に真夜中の1時を過ぎている。
とてもバーにも見えないこの喫茶店のようなカフェがこんな時間に営業しているなんてあるだろうか。
だが、もう今はなにもかもがどうでもいい。
願わくば、やがてくるであろう雨宿りだけできればそれでよかった。
おそるおそる木製の扉を押し開ける。
ギッという鈍い音とともに、ドアにかかっていた来店ベルが店内に響き渡る。
扉を開くと、コーヒーの落ち着いた香りが鼻をくすぐる。
「い、いらっしゃいませっ!」
慌てた声と共に奥から駆けてきたのは幼い少女だ。
「あの……ここはカフェ……でよかったでしょうか?」
ふんわりとウェーブのかかった茶髪の髪の毛を風にふわりと揺らせながらにこやかにほほ笑む。
「当店は癒しとひだまりを提供するカフェホテルとなっていて、カフェでありあなたが回復するまでのホテルでもあります。本日はいかがなさいますか?」
そういうと少女は、すっとメニュー表を提示してきた。
提示されたメニュー表は、飲食のメニューではなく、サービス内容のメニュー表のようで、「カフェのみの利用」「カフェホテルの利用」と詳細内容が記載されている。
どうせもう電車もなければ明日もやることもないので泊ってもいいが、料金の記載もないし、どうしようかと悩んでいると少しの沈黙ののち、少女は心配そうに俺の顔を覗き込む。
「……だいぶお疲れのようですね」
「え…………?そう、ですかね…?別にいつも通りですよ」
そう、いつも通り。
出来が悪い俺が悪いのだ。睡眠時間を削ってでも納期を守るために無茶ぶりに応えることも、社会人としては当然でのことである。
「ひとまずカフェホテルのフロアでおやすみになりませんか?宿泊するかどうかはさておき、仮眠程度でもおやすみいただけますので。ご案内いたしますね」
そういって少女は俺の回答も待たずに優しく微笑み、暗がりへとつづく階段の入り口にあるランプを手に取った。
ランプをもって螺旋階段をくだっていく少女の後ろを俺は、おそるおそるついていく。
静かな空間の中に、響くのは二人分の足音だけ。
やがて、少しずつ珈琲の香りとは違う香りが漂ってくる。
なんという香りかは知らないが、広い海を思わせるような穏やかで落ち着く優しい香りだ。
うっとりと香りに思いを馳せていると、地下フロアに到着したようだ。
「本日のお部屋、こちらになります。」
開かれた扉の先には壁一面、大きな水槽があり、その向こうではゆうゆうと魚たちが泳いでいる。
部屋の中は雲のようにふかふかしていそうな大きめなダブルベットがひとつと、壁を星灯りのように小さな灯りで彩るイルミネーションのような灯り。
そして部屋の中央には本物の満月のようなペンダントライトがひとつさがっている。
「す、すごいですね……」
「ふふ、当店の自慢のお部屋となっております。料金ですが、今夜は部屋も余っていますし、仮眠なら『宿泊』にはなりませんので。必要なものは一通りフロア内か、お部屋にご用意しておりますが、もしなにかございましたら枕元のベルを鳴らしてください」
「それでは私はこちらで失礼いたします。ごゆっくりお過ごしくださいませ、よい夜を」
こんないい部屋、きっと高いのではないだろうか。
スーツであることも構わず、倒れこんだベッドはマシュマロのように深く沈みこみ、もちもちとした肌触りが心地よい。
少し下に目線をおろすと、壁一面の水槽を一望できる。
仮眠のつもりだったが、起きられるかどうか心配になるほど心地よい。
騙されたかもしれない。
そうも思ったが、もうどうでもよかった。
この疲労を抱えて、この空間の中で理性はそう勝てない。
明日になったら腹をくくって支払うのなら、もう寝てしまおう。
車の音も、電車の音も何一つ聞こえない。
人の声も聞こえない。
意識の遠くで、どこからかコポポ…という水の中で気泡が発生したような音がする気がする。
(静か、だ………………)
この夜、これは深い深い、海に沈むように深い眠りに落ちたのだった。
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