第32話『月夜の逢瀬』②**


「……ん…っ」


 レオナルドの苦しそうな、それでいて甘く聞こえる声が、ウィリアムの耳を刺激した。

 何度ウィリアムが懇願しても、頑固に見惚れたと言ったことをうやむやにしようとするレオナルドに意地悪をするように、ウィリアムが不意をついて口付けたのだ。


 最初は抵抗していたレオナルドも、しばらくすると大人しくなって、ウィリアムに取り縋りながら暖かい抱擁とキスを素直に受けていた。

 ウィリアムはそんなレオナルドに理性が飛びそうになりながらも、頑固なレオナルドに少し勝ったような気分になり、少し唇を離して、


「…見惚れた…?」


 と、囁くように聞いた。

 レオナルドはゆっくり目を開けて、その虚ろな目を数回瞬きしてから呼吸を整えるようにひとつため息をついて、ウィリアムを上目で睨み、


「…見惚れて、ない…」

 と呟いた。


 ウィリアムはやれやれというような顔をして、抱きしめたままレオナルドの額に自分の額を押し当てた。


「頑固だな…」

「…お前こそ…」

「でも、俺はそんなお前が好きだぞ。お前は?」

「…」


 レオナルドは至近距離でそんなことを聞いてくるウィリアムを無言で睨んだ。

 顔に血が上って赤くなっているのが自分でも判り、逃げたい衝動に駆られ、ウィリアムに怒りすら覚えてきた。


「恥ずかしい男だな貴様は…! そんなことを軽々しく口に出すな…!」

「軽々しく言ってはない。本気だから口に出すんだ。…今、言うのがまずいのか? 前にベッドで言ったときにはお前は怒らなかったが……」

「だから! そういうのが軽々しいというのだ! それ以上口を開くと許さんぞグレイ!」


 真っ赤になって叫んだレオナルドは、その勢いで抱きしめているウィリアムの腕を振り払ったが、先ほどのキスで足腰の力が予想以上に抜けていたようで、ウィリアムから離れた瞬間にレオナルドの体はふらりと傾き、倒れそうになった。


「…あ…っ」

「レオ?!」


 驚いたウィリアムはとっさにレオナルドを抱きかかえた。そして心配そうにレオナルドを覗き込んで言った。


「大丈夫か、レオ?」

「あ、ああ… すまない。情けないところを見せてしまったな…」

「何を言ってる。…すまん。俺の配慮が足りなかった」

「……?」

「俺の都合で夜会を抜け出させて、こんな所まで引っ張りまわしてしまったんだ。疲れていたんだろう? 早く休ませてやるべきだったな」

「…え、グレイ?!」


 ウィリアムはレオナルドを軽々と抱き上げ、甲板を歩き出した。

 突然のウィリアムの行動にレオナルドは驚き、身を強張らせる。

 優しく抱き上げるその仕草が、以前そうやってベッドに運ばれたそれと重なり、レオナルドは激しく動揺した。


 …そういえば、忘れていた。今日交わしたあの、夜の約束を…。

 グレイは、まさかそのつもりで、今、これから私を…?

 ここで?! ここでか?!


 レオナルドは早鐘を打つ胸を抑えた。

 約束を違えるつもりはないが、あまりに我慢がきかず性急に事を始めようとするならグレイに叱責せねばと思い、たどたどしく訊ねる。


「グ…グレイ…っ 休む…って…」

「ああ。ここから港のお前の屋敷はすぐだ。夜道を馬で帰るのは疲れるだろうから、馬車を用意するよ。着いたらすぐに休むといい」


 そう言ってウィリアムは、抱き上げたレオナルドを甲板の隅に置いてあった椅子の上にそっと乗せ、安静にしてろと言う様に肩を撫でた。


「………」


 レオナルドは少しの間拍子抜けしたような顔をしていたが、それはやがて怒りの表情へと変わっていった。


 グレイに悪意がないのは分かっている。だが、グレイの言動にいちいち翻弄されてしまっている己が居るのは確かである。

 最初は、グレイに対して嫉妬や羨望を感じ、己を卑屈に感じた。次に彼に対する独占欲を抱いた。そして、彼に好きだと言われて、多少なりとも、浮かれた。


 …愚かしい…


 以前のレオナルドはここまで己の感情に惑わされたりはしなかった。だがウィリアムを知ってしまった今は、すべての感情が彼に向けられているようで、自制が効かないのが分かる。


 …恋心とは、ここまで心身を堕落させるものなのか…


 レオナルドはそう思ったが、すぐにその考えを否定した。

 堕落する愛もある。だが、そうでない愛もある。


 私は堕落などしない。

 セオ島にまた来る時に決意したのだ。グレイから学び、グレイの道標を頼りとして己の道を見つける。そして、私はグレイと共に切磋琢磨し得る存在でありたい。グレイも私も、大切なものを見失ってはならない。

 互いの間にあるのは、安い恋愛感情などであってはならない。

 …それを、決して忘れてはならない…

 そう、思いながら、「…でも、今は…」と呟き、レオナルドは睨むようにウィリアムを見上げた。


 …この男を私と同じくらい翻弄させてやりたい…


「…? 何か言ったか?レオ」

「なんでもない。 折角の好意だがな、グレイ。これから馬車に揺られるのも億劫だ。私は船で寝るのは慣れているから、ここで休ませてもらう。お前も付き合え」


「え… お、おい! レオ?!」


 そう言いながら身を翻して早足で船内に入っていくレオナルドを、少し遅れてウィリアムは追った。

 一度見て回った船内を記憶してしまっているレオナルドは、暗がりの中を颯爽と進み、ランプを持って追ってくるウィリアムと少し距離を離したまま、ひとつの部屋に入っていった。

 その部屋を目視したウィリアムは、一瞬足を止め、驚きの表情を表した。

 そして、わずかに動揺しながらゆっくりと歩み、レオナルドが入っていった部屋である、船長室の扉を開いて中に入った。


「…レオ?」


 レオナルドは扉の対角にある窓際にもたれかかり、入ってくるウィリアムをじっと見ていた。

 灯が入っていないため、部屋は暗かったが、レオナルドの背後にある窓から月明かりが差し込み、レオナルドと部屋を青白く照らしていた。

 レオナルドはゆっくりと口を開いた。


「この部屋で、休む」

「…だが……俺のベッド…しかないぞ…?」


 ひどく動揺しているのか、震える声で分かりきったことを呟くウィリアムに、レオナルドは愉快そうに笑って言った。


「ここまできて解らないのか、グレイ?」

「…なにがだ…?」


 レオナルドは口の端で笑いながらフロックコートを脱ぎ、ウィリアムに見せ付けるように傍のソファに投げて、


「私は、お前を誘ってるんだ」


と言った。


「…レ オ …」

 ウィリアムは激しい動悸に襲われ、息が上がり咽がカラカラになってきた。


 からかわれているのだろうか…


 だとしたら困る。乱暴を働く気はないが、…責任が持てなくなるような挑発をされているのだ。


 ウィリアムは目の前でウエストコートを脱ぎ終え胸のリボンに手を掛けたレオナルドに、怒ったような声で言った。


「…レオ…。買いかぶるな。お前のそんな誘惑を受けて…紳士でいられる程、俺は…できた人間ではないぞ」

「……」


 レオナルドはリボンを解く手を一瞬止めて、ウィリアムを見た。

 だがまたすぐに、無意識に微かに震える手でリボンを首元からするりと解いて、言った。


「…お前は、知れば知るほど海賊らしくない。…優しく、謙虚で、私に対しても常に、紳士だ…」

「買いかぶるなと…」

「買いかぶってなどいない。…今の、そんなお前に、紳士であることなど求めはしない。 …なあ、グレイ。お前も仮にとはいえ海賊の名を語るなら、それらしい行動を起こせばいいではないか…」

「…」


 レオナルドはシャツのボタンを外しながら言い、自ら左手をシャツの中に差し入れ、右肩を脱いだ。

 レオナルドの滑らかな肩から、絹のシャツがすべるように落ち、青い月明かりに照らされて、レオナルドの白い肌が艶めかしく露になった。

 その美しさと妖艶さに、ウィリアムは一瞬息を呑んだ。

 同時に、レオナルドが口を開いた。


「目の前に、欲しいものがあるのだろう? 海賊の頭領として、どうするのだ?…グレイ」

「…当然…、奪うさ…!」


 ウィリアムは、そう答えるが早いか、次の瞬間にはレオナルドに貪り食うように口付けていた。

 窓ガラスに押し付けられ、嵐のような口付けと、荒々しく体に触れ、求めるウィリアムの手を、レオナルドは必死で受け止めていた。


「レオ…っ!」


 唇が解放され、ウィリアムの唇がレオナルドの体を求め、首筋から胸元へと下りていく。


「…あ…っ…」


 レオナルドはびくっと体を震わせ喉の奥で短い悲鳴を上げると、首を上へ傾け、きつく閉じていた両目をうっすらと開けた。


 月が、見ていた。


「………」


 グレイを求めるのは、月を欲するようなものだ、と、レオナルドは思った。


 万人を差別無く優しく照らす、不安な闇に輝く光明…。


 …解かっている。グレイは、私のものにはならない…。

 グレイは、私などよりも大切な物を抱えている。

 ましてや海軍と海賊。

 この一時的な依頼が戦争終結によって反古となれば、もうグレイに会うこともできまい。…悪くすればまた敵同士となろう。


 決して手に入らぬ者。叶わぬ想い。


 …だからこそ。

 だからこそ、今だけ、限られた此の時だけ、私がグレイを求めて何が悪い…!



 レオナルドは切なそうに顔を歪ませ、月を仰ぎ見た。


 …見るがいい…。

 今この瞬間だけ、私はグレイに狂い溺れるのだ。

 今この瞬間だけ、グレイは、私のものだ…!


「…グレイ…っ」


 レオナルドの、悲鳴にも似た嬌声が響いた。




 月だけが、それを見ていた。





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