翠眸秘恋

ハル

第一話 市場

 むかしむかし、ある大陸の西寄りに、光に満ちあふれ、乾いた風の吹く国がありました。


 その国に、ファリドという年若い騎士がおりました。


 一日に万の敵兵をほふっただの、素手で獅子を殴り殺しただの、大蛇をくびり殺しただの、その武勇を讃える逸話には事欠かず――むろんその多くは、東の大国で愛玩されている金魚とやらのように大きな尾鰭のついたものでしたが、ファリドが国で五本の指に入る武芸の達人であることにまちがいはありませんでした。


 ある日、ファリドは供も連れずに市場をぶらぶらしていました。


 王宮にも出入りしているファリドでしたが、きらびやかで気の張る王宮よりも、雑然としていて肩の凝らない町のほうがずっと好きだったのです。


 炙り肉や揚げ菓子を売る店。

 

 干した棗椰子なつめやし柘榴ざくろの実や無花果いちじくを売る店。


 葡萄や麦からこしらえた酒を売る店。


 派手派手しい衣装や、まがいものの金銀や宝石を用いた首輪や腕輪を売る店。


 品物の素晴らしさや安さや珍しさを、声を大にして訴える店のひとびと。


 品物に見とれたり、めつすがめつながめたり、値切ったりする客たち。


 生き生きとした市場の様子を楽しんでいたファリドでしたが、ふとその目に、奴隷商人と奴隷たちの姿が留まりました。


 町のいとなみの中でも、ファリドは奴隷の売り買いだけは好きになれませんでした。――いいえ、はっきりと嫌っていました。人間が人間をものとしてあつかうことに、どうしても強烈な忌避感を覚えてしまうのです。騎士仲間には考えすぎだと笑われるのですが――。


 ですが、そのときファリドが彼らに目を留めたのは、忌避感のためばかりではありませんでした。


 ――奴隷たちの中に、並外れて美しい少年がいたのです。


 北西の国の出身なのでしょう。秋の朝の光のような淡い金色の髪に、極上の翠玉エメラルドのようなひとみに、搾りたての乳のような色の肌をしています。胸があらわになっていなければ少女だと思ったにちがいありません。


 ですが、いまはその髪には艶も張りもなく、眸も深淵を覗いているように翳っていました。肌も痣や蚯蚓みみず腫れや火傷の痕に覆われ、あばら骨が浮き出るほど痩せ細っており、どのようなあつかいを受けてきたのか一目でわかります。


 ファリドが吸い寄せられるように近づいていくと、少年は身をこわばらせてぎゅっと目を瞑りました。まなじりに涙が滲み、唇のあいだから嗚咽が漏れ、足が震えて鎖がカチャカチャと鳴ります。


 ――どうしても、この子を救いたい。


 生まれて初めて、ファリドは「強くなりたい」という願い以外の、切実な願いをいだきました。


 どれほど奴隷の売り買いが嫌いでも、少年を救うには買うほかありません。まさかさらうわけにはいかないのですから。


 ファリドは商人の言い値どおりの金を払い、少年の足の鎖を外させました。腰を屈めて少年と目の高さを合わせ、


「安心しろ。おれはおまえを殴ったり蹴ったり鎖でつないだりしない」


 できるかぎり優しく言い聞かせます。


「はい……」


 まだ怯えきった顔で、それでも少年は頷きました。


「腕に触れてもいいか?」


「は、はい……」


 少年の声に戸惑いが混じります。奴隷の身に堕ちてからの少年に、許可を求める者などいなかったのでしょう。


 ファリドが肩を貸そうとすると、


「ひとりで歩けますし、わたくしはこのように汚れておりますゆえ……!」


 少年は狼狽うろたえて拒みました。


「汚れるのを厭うていて騎士がつとまるものか」


 ファリドはそんなふうになだめて肩に手を回させてみましたが、背丈がちがいすぎてうまくいきません。


「そ、その……抱き上げてもよいだろうか」


 許可を求めるにしてもひかえめすぎる口調でファリドが言うと、


「ほ、ほんとうにお気遣いなく……!」


 少年はふるふるとかぶりを振ります。


「おまえこそ気を遣うな。おれはおまえが百人いても軽々と持ち上げられるぞ」


 ファリドがおどけた口調で言って、左腕で力こぶを作って右手で叩いてみせると、少年はゆっくりと目をしばたたきました。

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