第39話 平成終幕

平成31年4月30日――平成最後の日。街中のテレビ画面には改元を迎える特番が映し出され、時代の変わり目を祝う雰囲気が漂っていた。多くの人が新しい時代に希望を抱きながら、平成の思い出を語り合う。家族や友人と笑顔でその瞬間を迎える人もいれば、一人静かに振り返る人もいる。平成は、様々な形で人々の心に刻まれた時代だった。


***


独りで暮らす老人・正一もまた、自宅で平成最後の日を迎えようとしていた。古びたテレビの画面には、明るい司会者が笑顔でカウントダウンを予告する様子が映し出されている。


「平成も終わりか……あっという間だったな。」


正一は薄暗い部屋の中、湯呑みを片手にぼんやりと呟いた。妻を亡くしてから早10年、子どもたちもそれぞれの生活に忙しく、帰ってくることはほとんどなかった。いつからか正一は、一人で静かに過ごす日々に慣れてしまっていた。


テレビの画面が切り替わり、平成を振り返る映像が流れ始めた。バブルの熱狂、阪神淡路大震災、インターネットの普及――昭和から引き継がれた価値観が変化し、新しい文化が花開いた30年。正一はその映像を見ながら、しばし自分の人生を振り返っていた。


「俺の人生も、いろいろあったけど……結局、ひとりか。」


静かな笑いを漏らしながら、正一は立ち上がり、棚の奥から古いアルバムを取り出した。そこには、若かりし頃の彼と妻、そしてまだ幼かった子どもたちが笑顔で写る写真が収められていた。


「美佐子……お前がいれば、もう少し楽しい平成の終わりを迎えられたのにな。」


妻の名前を呼びながら写真を眺めていたその時、不意に背後から微かな音が聞こえた。振り返ると、薄暗い部屋の奥に誰かが立っていた。


「美佐子……?」


正一は目を疑った。そこに立っていたのは、確かに亡くなったはずの妻、美佐子だった。彼女は正一が覚えている頃の姿のままで、微笑みながら静かに彼を見つめている。


「お前……本当に美佐子なのか?」


美佐子は何も言わず、ただ頷いた。その柔らかな微笑みが、正一の記憶の中にあった妻そのものだった。


「お別れを言いに来たの。」


その一言に正一は声を失った。足が震え、湯呑みを持つ手から熱が逃げていくような感覚がした。


「お別れ……って、どういうことだ?」


正一が問いかけると、背後から別の声が聞こえた。


「正一、元気そうだな。」


振り向くと、そこには正一の幼馴染だった吉村の姿があった。吉村もまた、10年以上前に亡くなったはずの人物だった。


「おい、どうなってるんだ……お前ら、みんな死んだはずだろう?」


部屋の中には次々と懐かしい顔が現れ始めた。かつての友人、隣人、職場の同僚たち――すべて、すでに亡くなった人々ばかりだ。彼らはみな、穏やかな笑顔を浮かべながら正一に近づいてくる。


「お別れを言いに来たんだよ、正一。」


正一は困惑しながらも、どこか安堵するような気持ちが混じるのを感じた。


「そうか……平成も終わるし、お前らも来てくれたのか。」


正一は静かに微笑んだ。


「お前たちが来てくれるなんて、夢にも思わなかったよ。」


正一の言葉に、美佐子は頷きながら優しく手を差し伸べた。その手はほんのりと淡い光をまとっており、どこか現実のものとは違うように感じられたが、正一にとっては何よりも懐かしい手だった。


「正一さん、ずっと一人で寂しかったでしょう? でももう大丈夫。一緒に行きましょう。」


正一はその手をじっと見つめた。亡くなった妻の優しい声が、まるで遠い記憶の中から響いてくるようだ。


「……一緒に行く?」


後ろを振り返ると、吉村や他の友人たちもまた微笑みながら手を差し出していた。それはどれも懐かしい顔であり、どの声も正一の中で今も鮮明に残っている人たちだった。


「正一、もう一度みんなで集まろうじゃないか。平成が終わるからこそ、こうして会えたんだ。」


「そうだな……」


正一はゆっくりと目を閉じた。平成の記憶が頭の中を駆け巡る。美佐子と二人で子どもたちを育てた日々、吉村と過ごした若い頃の無鉄砲な冒険、会社で苦労しながらも同僚たちと助け合った記憶。全てが鮮やかで、胸を温かくする思い出ばかりだった。


そして、平成という時代の中で確かに感じたもの――人とのつながりや別れ、喜びや悲しみ――そのすべてが、正一にとってかけがえのないものだった。


「平成は、いい時代だったな。」


呟くように言うと、美佐子がもう一度微笑みながら手を差し出した。


「それなら、これからも一緒に生きましょう。平成の中で。」


その言葉に、正一の胸の奥がじんわりと温かくなった。一瞬、逡巡するようにその手を見つめていたが、次の瞬間、彼は静かに手を伸ばした。


「そうだな。もう一度みんなで……平成を生きるのも悪くない。」


正一の手が美佐子の手に触れた瞬間、部屋の景色がふわりと揺れた。テレビの明かりも、古びた家具も、まるで朝霧の中に溶け込むように薄れていく。その代わりに、正一の周りには若かりし頃の懐かしい景色が広がっていった。


にぎやかな宴会場のような場所に変わり、友人たちの笑い声や乾杯の音が響く。そこにいる人々はみな、平成という時代の中で出会い、別れた人たちだった。


正一は穏やかな笑顔を浮かべたまま、差し出された杯を手に取った。


「じゃあ、行こうか。平成最後の乾杯だ。」


その言葉とともに、彼の姿は薄れ、光の中へ溶けていった。


深夜0時――新しい時代が始まったが、正一の部屋にはもう誰もいなかった。音の止んだテレビだけが、暗い部屋の中で静かに輝いていた。平成が終わり、新たな時代、令和が幕を開けた。

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