第28話 未払いの利用者

平成19(2007)年、社会問題として「ネットカフェ難民」が注目を集めるようになった。安価な宿泊施設としてネットカフェに住み込む人々の増加は、働き方や住宅事情の歪みを象徴する現象だった。深夜も営業するネットカフェは、リクライニングチェアやシャワー、飲み放題のソフトドリンクを提供し、住居を失った人々にとって手軽な避難所となっていた。一方で、長期滞在者が増えるにつれ、店舗運営にも影響が出始め、未払い問題やトラブルの増加が懸念されていた。


***


フリーターの一樹は、アルバイトとして勤務するネットカフェに住み込むようになって半年が過ぎていた。24時間営業の店は都会の喧騒に紛れていつもざわついており、深夜には定住者と思われる客が静かにキーボードを叩いたり、寝息を立てたりしていた。


ある夜、一樹は店長から「古いデータの整理を頼む」と指示された。パソコンの予約管理システムには、過去の利用者の名前や支払い状況がずらりと並んでおり、その中には「未払い」と表示されたデータも少なくなかった。


「未払い、多いな……でも、ほとんどが数年前の記録か。」


一樹は手際よく整理を進めていたが、リストの中に奇妙な名前があることに気づいた。「鈴木タケシ」「田中ユウコ」など、どこにでもいそうな名前だが、全ての名前に共通して「利用終了日」が記録されていないのだ。


「永続利用中……? 何だこれ、システムのバグか?」


一樹はそれらの名前を調べてみたが、どの記録にも細かい利用履歴が残されていない。さらに不思議なことに、現在の利用者リストにもその名前は表示されていない。


「今、誰もこの名前で利用してないよな。なのに、支払いが未済のまま?」


疑問を抱きながら、深夜の静かな店内を見渡した。一樹がデータ整理をしているカウンター越しには、ブースの中でそれぞれの客が思い思いの時間を過ごしている様子が伺えた。キーボードを叩く音や微かな咳払い、深夜のネットカフェ特有の生活感に安心感すら覚えたが、その背後にある不穏な違和感を拭うことができなかった。


その時、カウンターの端に置いてある電話が突然鳴り響いた。深夜の店内でその音は不釣り合いなほど大きく、思わず一樹は肩をすくめた。


「……はい、ネットカフェ〇〇店です。」


電話に出ると、受話器越しに聞こえるのは無音。雑音すらない異様な静けさだったが、その奥に微かに声が混じっているような気がした。


「……未払い……」


「え?」


一樹が聞き返す間もなく、電話は切れた。


「いたずらか……?」


気味悪さを感じながらも、仕事を再開することにした。その時、カウンターに置かれている予約端末が突然再起動を始めた。画面には真っ黒な背景に白い文字でこう表示されていた。


「追加利用者:佐藤ミキ」


「追加利用者? 今、誰も新規で入ってきてないはずだろ……」


一樹はモニターを見つめ、追加された名前を探した。だがそのリストには「佐藤ミキ」という名前がない。カメラの映像を確認しても、店内に新しい利用者が入った形跡はどこにもなかった。


ふと、奥のブースの方を見ると、わずかに開いた扉の隙間から誰かがこちらを覗いているように見えた。背筋に寒気を覚えた一樹は、思わず立ち上がり、声をかけた。


「すみません、お困りですか?」


だが返事はない。慎重に近づき、そのブースの扉を開けた瞬間、内部は無人で、照明も消えていた。椅子には微かに人が座っていたような温かさが残っていたが、そこに人の気配は全くなかった。


「誰もいない……」


一樹が呟いた時、背後で再び電話が鳴り響いた。今回は受話器を取る勇気が出ず、ただその音を聞き続けた。そして、それは次第に人の声に変わっていったように感じられた。


「未払いは……誰が払うの……?」


振り返った瞬間、店内のすべてのブースの扉が一斉に音を立てて開いた。


***


一樹は全身に鳥肌を立てながらその光景を見つめた。店内のブースが一斉に開く音は異様に響き渡り、誰もいないはずの空間に不気味な気配が漂っていた。


「誰かいるのか……?」


声を震わせながら周囲を見渡したが、どのブースも空っぽのように見える。それでも、ブース内から微かに漏れてくる気配や、人の視線を感じる感覚は消えなかった。


カウンターに戻ろうと一歩踏み出した瞬間、足元から低い囁き声が聞こえた。


「……未払い……ここに……」


驚いて足元を見ても何もいない。だが、頭の中にその声だけが響き続ける。恐怖で立ち尽くす一樹の耳に、別のブースから小さな音が聞こえてきた。


「カタカタ……カタカタ……」


キーボードを叩く音だ。誰もいないはずの空間から響いてくるその音に、どうしても目を背けられなかった。勇気を振り絞り、音のする方向へと足を進める。一つ一つブースを確認していくが、どのブースも無人だ。


「気のせいだ、絶対に気のせいだ……」


自分にそう言い聞かせながら、音が聞こえてくる最後のブースにたどり着いた。その扉は半開きで、中を覗き込むとパソコンのモニターが点灯しており、画面には何もない黒い背景に白い文字が一行だけ表示されていた。


「あなたの名前を登録しました。」


その言葉に目を奪われていると、キーボードが一人でに動き始め、画面に新たな文字が打ち込まれていく。


「次の利用者:中村一樹」


「なんだよ、これ……!」


一樹はパソコンの電源を落とそうと手を伸ばしたが、コンセントは既に抜けている。それなのに画面は明るいままで、文字がさらに表示される。


「未払い金は支払われるまで完済されない。」


同時に、背後から冷たい風が吹き抜け、一樹は咄嗟に振り返った。すると、そこには無数のぼんやりとした影がブースから浮かび上がってきていた。それらは次第に人の形を取り始め、どれも真っ黒な輪郭を持つ人影になっていく。


「払え……払え……未払いを払え……」


声は耳元で囁くように大きくなり、一樹は耳を塞いで後退りした。しかし、影たちは容赦なく彼に迫り、彼の動きを追い詰めていく。


「やめろ……! 俺は何もしてない!」


叫び声を上げながら店の出口に向かおうとしたが、足が重くなり、まるで影たちに引きずり込まれるように動けなくなった。パソコンの画面が遠ざかる中で、最後に見えたのは次のような文字だった。


「登録完了。支払いは永久に続きます。」


その瞬間、店内の照明が一斉に消え、完全な暗闇に包まれた。


翌朝、店長が出勤すると、店内は異様な静けさに包まれていた。ブースは全て空で、常連の滞在者たちもどこかへ姿を消している。


「おい、一樹! どこ行ったんだ!」


店長が叫んでも返事はなく、カウンターには一樹の制服がきれいに畳まれて置いてあるだけだった。その隣には開いたままのパソコンがあり、画面には一つのリストが表示されていた。


「未払い利用者:中村一樹」


そのリストには彼の名前が新たに追加され、最終利用日が「未定」となっていた。店長は不思議に思いながらも画面を閉じようと手を伸ばしたが、次の瞬間、モニターには新しい名前が追加された。


「未払い利用者:〇〇店長」

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