第26話 ヒルズの黒い部屋

2003年、ITバブルの熱狂が日本を席巻していた。新興のIT企業が次々と誕生し、若くして成功を収めた起業家たちが、都心の高級タワーマンションを舞台に派手な生活を送る様子は「ヒルズ族」と呼ばれた。六本木ヒルズはその象徴であり、住人たちは高級車やブランド品に囲まれた華やかな日常を楽しみながらも、先の見えない急成長の中で次々と新しい夢を追いかけていた。成功者の象徴となったその場所には、誰もが憧れる光と影があった。


***


若手エンジニアの祐介が六本木ヒルズに足を踏み入れたのは、大学時代の同級生でITベンチャーの社長を務める勝村からパーティーに招待されたのがきっかけだった。


「どうだ、すごいだろう? これが俺の新しい部屋さ。」


勝村は、タワーマンションの最上階近くにある豪華な部屋を自慢げに案内した。フローリングの床、ガラス張りの夜景――どれも祐介には眩しすぎた。


「すごいな……こんな生活、俺には想像もつかないよ。」


「まだまだだよ。でも、ヒルズ族なんて言葉も悪くないだろ?」


勝村は笑いながら言った。その夜は多くの起業家や投資家たちが集まり、華やかな雰囲気に包まれていた。しかし、祐介はその中でどうしても一つのことが気になっていた。


パーティーの最中、廊下の奥に続く一室が黒い布で覆われており、近寄らないようにするかのように人々の会話から意識的に外されているようだったのだ。


「あそこ、何かあるのか?」


祐介が聞くと、勝村は一瞬表情を曇らせた。


「ああ……まあ、気にするな。空き部屋だよ。でも、変な噂があってね。」


「変な噂?」


「うん。誰も借りていないはずの部屋なのに、夜になると光が漏れたり、機械音みたいなのが聞こえるらしい。冗談だろうけどさ。」


それ以上話そうとしない勝村の態度に、祐介は少し不気味さを感じたものの、その時は深く考えなかった。


数週間後、祐介は仕事の関係で再び六本木ヒルズを訪れることになった。勝村が突然、深夜の電話で「来てくれ」と頼んできたのだ。


「どうしたんだよ、こんな夜中に?」


「いや……ちょっと、部屋でおかしなことがあってさ。」


勝村の声は落ち着きがなく、いつもの自信満々な様子とは違っていた。祐介が部屋に入ると、勝村は部屋の端に座り込み、顔を青ざめさせていた。


「……何があったんだ?」


勝村は小声で答えた。


「例の空き部屋だ。……あそこから、夜中に光が漏れてきたんだ。それだけじゃない。俺が気になって近づこうとしたら、部屋のドアが勝手に開いた。中には誰もいないのに、何か古いコンピュータが動いてたんだよ……」


「古いコンピュータ?」


「そうだ。でも画面には何も表示されてなくて、ただコードみたいなものが走ってるだけだった。」


祐介はその話に興味を持った。


「見に行こう。もし何かおかしなものがあるなら、俺が調べてみるよ。」


勝村は躊躇したが、祐介の提案を受け入れた。二人は廊下の奥にある黒い布で覆われた部屋に向かった。ドアは勝村の言った通り、わずかに開いており、中から微かな光が漏れていた。


「入るのか?」


勝村が怯えたように尋ねたが、祐介は頷いてドアを押した。部屋の中は薄暗く、奥に古びたコンピュータがぽつんと置かれているのが見えた。確かに、モニターには奇妙な文字列が流れている。


「何だこれ……?」


祐介がコンピュータの前に立つと、画面に突然文字が浮かび上がった。


「アクセスを確認しました。」


その言葉が表示された瞬間、部屋全体が低い機械音を響かせ始めた。祐介は驚いて後ろを振り返ったが、勝村は部屋の外で固まったまま動けない様子だった。


「祐介、出よう! もういいだろ!」


勝村の声に気づいた祐介は、画面から目を離さずに答えた。


「待て、何かおかしい。このプログラム……まだ動いてる。」


その時、コンピュータの画面に新たな文字が現れた。


「ようこそ。」


その瞬間、部屋の中の光が一斉に消え、祐介たちは暗闇に包まれた――。


***


真っ暗な部屋の中、祐介は胸の奥から湧き上がる恐怖を押し殺し、辺りを探った。目を凝らしても何も見えないが、耳にはどこからともなく低い機械音が響き続けている。


「勝村!」


祐介は声を上げたが、返事はない。気配すら感じられない孤独感に、冷や汗が背中を伝う。


「こんなところでビビるな……ただの故障だ。」


自分に言い聞かせながら、コンピュータがあったはずの方向へ足を進めた。しかし、暗闇の中でつまずき、膝を床に打ちつけた時、突然機械音が聞こえた。


部屋の奥から微かな光が漏れている。祐介は手探りで壁伝いに進み、光の元を目指した。


再びコンピュータの前にたどり着くと、モニターが不気味に点滅を繰り返しながら、新しい文字列を表示していた。


「私は彼らの記憶……?」


「彼ら……? 誰だよ……」


祐介が独り言のように呟いたその時、画面には次々と顔写真が映し出され始めた。それらは明らかに勝村のような若いIT長者たちの顔だった。だが、祐介がよく知る顔ぶれも含まれており、その全員が「行方不明」になったという噂の対象者だと気づく。


「……何なんだ?」


祐介が怯えながら画面を見つめていると、最後に表示されたのは自分自身の写真だった。


「おい……なんで俺がここに?」


言葉を失う祐介をよそに、画面に再び文字が表示された。


「私たちを見捨てないで。」


その直後、耳をつんざくような電子音が部屋中に響き渡り、コンピュータのモニターが激しく明滅を始めた。同時に、床や壁に影のような形をした人の輪郭が浮かび上がる。それらの影は、もがくように祐介に手を伸ばし、彼を掴もうとしているように見えた。


「やめろ……! 俺を巻き込むな!」


祐介は振り払うようにその場から逃げ出そうとしたが、影たちがどんどん近づいてくる。そして一斉に耳元で囁き声を上げた。


「逃げられない……」


その声に恐怖を感じた祐介は必死で部屋のドアに手を伸ばし、体を外へと投げ出した。


気がつくと、祐介は廊下に倒れ込んでいた。廊下の明かりはいつも通り灯っており、周囲には何の異常もない。


「……勝村!」


祐介は振り返ったが、彼の姿はどこにもなかった。部屋のドアを開けようと試みたが、いつの間にか鍵がかかっており、中に入ることはできなかった。


翌日、祐介は何事もなかったかのように出社したが、頭の中は昨夜の出来事でいっぱいだった。仕事をしながらも時折、背後に何かの気配を感じて振り返る。しかし、誰もいない。


「気のせい……だよな。」


そう思おうとしたが、その夜、自宅に戻った祐介は再び奇妙な現象に襲われた。デスクに置いてあった自分のノートパソコンが突然起動し、黒い画面にあの部屋で見た文字が浮かび上がった。


「次は、お前が記憶を受け継ぐ番だ。」


その瞬間、画面から低いノイズ音が響き、部屋の中が冷たく感じられる。恐怖で固まった祐介の目の前に、再び影が現れた。それは勝村の輪郭だった。


「助けてくれ……」


勝村の影は消え入りそうな声で呟きながら、ゆっくりと手を伸ばしてきた。しかし、その目にはただの助けを求める気配だけでなく、どこか祐介をこの世界に引きずり込もうとする悪意が宿っているようだった。


祐介は悲鳴を上げ、机の上のパソコンを叩き壊した。しかし、その瞬間、壁や天井に無数の影が広がり、部屋全体が彼を取り囲んでいく。


翌朝、祐介の部屋はもぬけの殻だった。彼の行方を知る者はおらず、部屋に残されていたのは壊れたパソコンと、モニターに浮かび上がった文字だけだった。


「ようこそ。」


それ以降、六本木ヒルズの黒い部屋に近づく者はいなくなり、噂だけが静かに広がり続けた――。

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