わんわん(二章)

わん・わんわん

「体調も良さそうだから、今日からお散歩に行ってみようか?」


「っ……!」


 次の日の朝。昨日より早く起きた佐藤さんが僕にそう提案してくれた。お散歩ってとても犬っぽい気がする、だなんてよく分からない感想を抱きながらキャンと返事をする。


 リードを付けてもらって、さあいざお外へ……!


「わふっ……!」


 犬になって初めての外に、興味津々になってしまうのも必然というものだろう。人間の時と感覚も目線も違うので、全てが新鮮に映った。


 見たことのない景色、見たことのない人や犬、嗅いだことのない匂い……


 たくさんの『知らない』が詰まっていて、とても楽しかった。


 チャカチャカと爪を鳴らして進むアスファルトの感触も面白い。楽しいね、と佐藤さんを窺い見ると、それに気がついたらしい佐藤さんもフッと口元を緩めた。


…………


「じゃあ、今日もお留守番よろしくね。なるべく早く帰って来れるように頑張るから。」


「キャン!」


 行ってらっしゃい、と言うように一つ鳴くと佐藤さんもそれに合わせて行ってきますと言ってくれた。返事をしてくれる、というのはこんなにも嬉しいものなのか、と心がポカポカしてくる。


 ガチャン、と玄関の扉が閉まるまでお見送りし、さて今日は何をしようかと思案する。


 佐藤さんは絶対帰ってきてくれる、という安心感からか、昨日のような寂しさに襲われることなく一日を過ごせそうだ。


 チャカチャカと爪を鳴らしてリビングに向かい、窓際まで広がるラグに寝転がる。日向ぼっこしながらのお昼寝は最高に気持ちが良い。


 ポフンッ!


 と、その時間抜けな音が部屋に響き渡る。なんだなんだと飛び起きた僕はキョロキョロと辺りを見回す。しかし音の発生源は視認できず、首を傾げるしか出来なかった。


 ……あれ、待てよ? よく考えたら目線の高さが違うのでは?


 ここ数日で慣れてきた低い目線から一変、まるで前世、小手 咲羅の時のような……


 そこまで考えつき、サッと顔を青ざめさせながら洗面所に走る。ドタドタと音を立てて、足をもつれさせながら走り走り、洗面所の鏡を見ると……


「僕、だ……」


 やっぱり予想通り、小手 咲羅の姿そのままだった。


 狸のように潰れた顔はそのまま、ボサボサだった髪は佐藤さんに毎日ブラッシングされたからかサラサラ綺麗になっていた。


 その髪質が、犬だったのが僕の妄想でもなく、現実だったことを如実に表している。


 なんだ、何が起こっているんだ? 僕は死んだんじゃ無かったのか?


 前世だと思い込んでいた『小手 咲羅』という存在は、まだ


 どうしよう、僕は犬だったから佐藤さんに拾われて、だから、だから、人間の僕は要らなくて……


 幸せを知らなかったからこそ生きて来れた僕の二回の人生──小手 咲羅が今世、前々世だと思っていたのが前世、ということになる──には、幸せを知ってから戻るなんて出来そうもない。


 人から愛されず居ないものとされ、外に出たら虐められ、ただただ孤独に蹲るような……


「ヒュッ」


 いやだ、もう、あんな生活、戻りたくない!


 今までの生活を思い出しただけで、僕は息が吐けなくなっていた。冷や汗も吹き出し気持ち悪い。


 お願い、犬に戻りたい。戻らせて。じゃないと佐藤さんにも捨てられる……

 そこでフッと意識は途切れた。






──楓真side


「サキちゃん、ただいま。帰ったよ。」


 今日こそお出迎えしてくれたりしないかな、だなんて淡い期待をしながら真っ暗な玄関に向かって声をかける。が、サキちゃんの気配はない。


 元々人間だったし、また昨日と同じく二階に上がって降りれなくなった、だなんてことにはなっていないだろうけれども……。しかしここまでサキちゃんの気配が無いのも心配だ。


「サキちゃーん、どこだー?」


 一部屋一部屋開けて電気を付けて探す。するとその先、洗面所のドアが開いているのが見えた。あそこは危ないからと閉め切っていたはずなのに?


 不思議に思ってその中を覗くと、サキちゃんが横たわって眠っていた。何故こんなところで……?


「サキちゃん、サキちゃん、」


 お腹の辺りをポンポンと撫でながら呼びかけると、それに応えるようにサキちゃんはゆっくりと目を開けた。


「っ……!」


 俺を視界に入れたサキちゃんは飛び起きて二、三歩下がった。尻尾は足の間で縮こまり、プルプルと震えている。どうやら俺を見て怯えているようだ。


「サキちゃん、どうした?」


 怖がらせないようにゆっくりと手をサキちゃんの頭に乗せ、フワッフワな毛を梳くように撫でる。それをしばらく続けていると、だんだんと怯えや緊張が解けていったらしい。いつも通り俺の手に擦り寄ってきた。


 怖い夢でも見たのかもしれない。そう見当をつけ、それを思い出させないように違う話題を振る。


「そろそろ夕飯にしようか。」


「わふっ」


 俺の提案に返事をしたことで、ようやくサキちゃんは完全に落ち着きを取り戻したようだった。


 尻尾を振って笑顔を見せてくれる。その笑顔を見ただけで仕事の疲れが吹っ飛ぶ気がする。そうか、これが尊いということか。完全に理解した。


…………


 毎日の日課として夕食後にブラッシングを行っているのだが、それを仕舞っている引き出しに俺が手をかけた瞬間、サキちゃんはどこからともなくビュンと飛んでくる。これはここ数日で毎回行われていることだ。


 相当ブラッシングがお気に召したらしい。とても可愛いと思います。まる。


 『待ってました!』と千切れるんじゃないかと思う程に尻尾をぶん回し、早く早くと急かしてくる。その様子をいつか動画に収めたいな、だなんて考えながらもブラシを持ち手を動かしていく。


 今日も気持ち良さげにデロンと溶け、『もっともっと』と催促するサキちゃん。それを見て俺の表情もデロデロに溶けていく感覚がある。


 恐るべし、サキちゃん。元々どんなに楽しくても働かなかった俺の表情筋が、ここ数日でキビキビと働くようになった。顔が筋肉痛になる日も近いに違いない。


 一匹の犬──まあ、精神は人間だろうけど──によって俺もどんどん変化していく。それがまた快いのも、サキちゃんのおかげだろう。

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