お稲荷様はぶいちゅーばーでめいど様
弍蜂
プロローグ
小さなお山のてっぺんに、これまた小さな古びた神社があった。
吹けば飛ぶほど小さく、屋根もところどころ崩れて寂しげだった。
それでも社のまわりの雑草だけは抜かれ、内部は掃き清められていた。
ふと、長い階段を少年が息を切らして登ってくる。
小さなその手にはペットボトルが握られていた。
少年はボトルの水を汚れた稲荷狐像に振りかける。
しかしそれだけでは汚れは落ちない。
少年は手でこすって根気強く磨いていく。
水がなくなると彼はまた山道を駆け下りて、再び水を汲んで登ってきた。
何往復したのか。
石像の元の色がみえてくると、少年は着ていたシャツで磨き始めた。
そしてしあげに、ポケットに入っていた絆創膏を石像のヒビに貼る。
汚れたシャツを着なおした彼は、ひとり誇らしげだった。
「……――のう。なにゆえおまえさんはそんなことしとるんじゃ?」
不意にかけられた言葉に、少年が驚いてふり返る。
そこにはやわらかに微笑む巫女服の女性が立っていた。
「困ってる人は助けなさいって、父さんが言ってたから」
少年はあたりまえと言わんばかりに返すと、境内を見わたした。
「たぶん、ここの神様、忙しくてちゃんと掃除するヒマないんだと思う。あっちの建物のとこだけはキレイだけど、それ以外は掃除できてないし。だから手伝った」
歳の頃は六歳くらいか。
少年は歳不相応の観察眼と、歳相応のあどけなさをみせた。
その様に、巫女装束の女性は目を細めて笑った。
「そうかそうか。なんと心ばせの良い子よ」
笑むその顔は、まるで石像の狐のように優美だった。
「然(さ)らば、善(え)し子にはなにか善し事の報いがなければならんな。此方(こなた)へおいで」
白魚のようにたおやか指が、少年の汚れた手をひく。
そして二人は、小さな社の前に立った。
「これからやつがれ(わたし)の教えるとおりにやってみような。先ずは、二度お辞儀をして、それから二度手を打ち鳴らす。それからもう一度、お辞儀じゃ」
少年は背後に立つ女性を訝しみながらも、言われたとおり素直に二礼二拍手一礼をする。
耳元で、やわらかくもおごそかな声がささやく。
「ほいじゃあ、一緒に唱えようかのぅ。……掛けまくも、畏き、穂保比売稲荷の神社の大前に、恐み恐みも白さく」
「か、けまくもかしこ、きほうけひめの……」
長ったらしく、聞いたこともない言い回しだった。
けれど不思議と耳に残った。
耳元の声は、たどたどしい舌を待つようにゆっくり、そして辛抱強かった。
「大神の高き尊き大神威を崇(あが)め尊び奉りて、今日の良日に拝み奉る状を見そなはし給ひて、大神の大御幸を以て、諸々の禍事無く、夜の守日の守に恵み幸へ給へと恐み恐みも白さく」
少年の舌はつっかかり、こけつまろびつ、それでも最後までついてきた。
そんな少年の頭に女性が鼻先を埋める。
そして小さく呟いた。
「どうか幸えを。朽ちゆく社を尊び、貴女(みまし)に仕えますこの愛し子が、そのお膝元で災禍なくすくすくと生い立ちますよう幸えを賜りますこと、神使(みさき)が謹んでお願い申し上げます」
やがて女性は、汗でしめった少年の頭をなでると社の鳥居の前まで導いた。
「ほいじゃあの、無事に帰るのじゃぞ。転けて怪我などせぬような」
「うん。また明日」
しずむ夕日を背負ったまぶしい女性に、少年は目を細め返す。
橙色のなか、巫女装束が傾いだ。
「また、とな? 明日もまた来てくれるのかえ?」
「だって、まだそっちキレイにしてないじゃん」
少年の指のさきには、もう一体の割れた像があった。
女性はいよいよ、泣くように、震えるように高く笑った。
「呵々々(カカカ)! そこは、げに善し子じゃ。のう、名は何と申す?」
「……知らない人に名前を教えるなって、学校で言われてる」
「なんと! やつがれとそこはまた明日と約束したのだ、もう知らん仲じゃなかろうて。そうさな、なればまずは此方から名乗ろう。やつがれの名は――」
初夏の風が梢を揺らし、音を少年に運ぶ。
おまじないのように美しく、耳朶をくすぐる名だった。
われ知らず、少年の口はみずからの名をつげる。
「僕は」
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