戦場物語り
稲山 裕
其の一
これは
数ある話の中で、一時は誰もが知る話だった。
**
それは、よくある戦場だった。
しかしその中にも、稀有なことも起こるもの――。
「何だ貴様! 油断させようとでも言うのか!」
「いいや、違う。もう疲れちまったなぁと思ってよ。もう、テメェに殺されて終わりにしようと思ったんだ」
剣を下げた男は、確かに疲れた顔をしていた。先程まで敵対する兵を斬り倒していたはずなのに、目にはもう、生気が宿っていなかった。
「……そのようにされては斬りにくい! せめてかかってこい!」
「まじかよ。もう振り上げる気力さえ消えちまったんだ。このまま殺してくれ」
周囲はなぜか、この二人を避けるようにちょっとした空間が出来ていた。戦中にあって異様な
「くそっ! なんなんだ貴様は! こんな調子では、こちらも気を
せめてもの文句を言った敵兵にも、今からまた人を斬る事が出来るだろうかという迷いが生じていた。
「オレはよ、もう何も残っちゃいねぇ。妻は死んだ。殺されたんだ。テメェらに。その
辺りの者達はこの二人に、なおの事近づくまいと余計な緊張感を背負って戦っている。
「だけどよ、そんなやつばっかりだ。テメェらの方からも、娘の仇だ兄弟の仇だと聞こえてきやがる。こっち側もそっち側も、同じこと言って戦ってらぁ」
「そ、それが戦争であろうが!」
「そうだ。それがもう、疲れっちまった。妻の仇も、もう何人斬ったか分からねぇ。誰が仇なのかも分からねぇのに、あとどれだけ斬ればオレの気は済むんだ? 今度はそっち側の仇だと狙われて生きる事になるだろ? そう考えたら、もう何のために戦ってるのか、分からなくなっちまったんだ」
男は泣きそうな、もしくは苦渋で潰したような、くしゃくしゃの顔をしていた。
「だから早く、オレを殺してくれ。終わりたいんだ」
周囲の者たちは、なぜこの二人の声が聞こえたのか分からなかった。最初に聞こえた男の声は、偶然にも近辺で
「そ、そんな事を言われて斬れるものか! あっちへ行け! 別のやつに斬られてこい!」
周囲は、数度だけ打ち合った後は
だがその一群だけを避けるように、戦は流れるように続いている。
「はやく去れ! 向こうへ行ってくれ!」
言われて男は、うなだれるように歩を前へと進めた。会話をした敵兵の横をすり抜け、ただ前に歩いた。このまま進めば、こいつとは違う誰かが斬ってくれるだろうと。
だが、予想に反して誰も斬ってはくれなかった。戦場の中でひときわ異様な
「なんだよ……なんで誰も斬ってくれねぇんだよ。これじゃあ、あいつの所に行けねぇじゃねぇか……」
まるで死人のような気配が、死を嫌って戦う生者達には死神のように見えたのだと言う。半端に近づいて、そちら側に連れて行かれたくない。本能的にそう思わせる異様さだった。
「ちくしょう……思い通りに、いかねぇ」
*
「あれは何だ! なぜ誰も手を出さん! 敵兵だろうが!」
将は苛立った。戦局を見て指揮を
「気味悪がって、誰も手を出さぬようです。剣も手にせず、ダラダラと歩いているのが気持ち悪いようで……」
「馬鹿か貴様は!
「しょ、承知!」
将の側近も、内心恐れていた。あれに手を出して呪われてはかなわない。あわよくば、誰ぞが手柄のためにと斬ってくれる事を祈っていた口だった。
「おいお前、お前が射よ! 早くしろ!」
だから側近は自分の手は下さず、近くの兵に命令した。
「は、はっ!」
自分にお役が回った兵は、命令を無視するわけにはいかずに弓を構えた。しっかりと狙いを定めて引き
だが、ぴゅんと放たれた矢はあの男の側を通り抜けて、味方の兵の兜をカキンと鳴らした。
「貴様! ちゃんと狙わんか! 味方に当ててどうする!」
「申し訳ございません! しかし、このままではまた味方に当たりかねません!」
異様な男以外は、この辺りには味方しか居ないのだから当然の事だった。飛び道具で狙うには半端に近すぎる陣中まで来ている。
「ええい! これ以上あの気色の悪い男を寄らせるな! 斬りかかれ!」
将は我慢がならず、近くの兵達に叫んだ。
三人の兵が
「うわっ! うわうわうわああああああ!」
死神のごとく思っていたその男に、一瞬で間合いに入られ掴まれ、呪い殺されるのではと恐れおののいてしまった。
他の二人も、剣が
掴まれてしまった兵は剣を取りこぼし、のたうち回るように男を振りほどいた。必死に背を向け逃げるようにしたが、足がもつれて転倒する始末。
「おのれら……どれだけ
馬上で叫び声をあげると、怒り狂った将は剣を抜いて馬を走らせた。男を串刺すように剣先を向けて狙いを定め、馬の勢いで貫こうと。
*
「死いいねええええ!!」
男は、ようやく殺意と剣を向けてくれる敵に出会えた。そう思った。やっと死ねるのだと。
「これで……オレも……」
抵抗などするはずもなく、むしろ向けられた剣に身を預けるようにした。
だが、その一歩がまた、偶然を呼んでしまった。石に足を取られ、馬にも身を寄せるような形でふらついたのだ。本来ならばタイミング良く、しかし、男にとっては悪く。
「なっ!!」
将は言葉にならない声を発したと同時に、落馬して首を折った。
周りの兵達も、一瞬何が起きたのか理解できなかった。その反面、やはり『それ』は死神なのだと、そう思った。
突き刺さんとする剣と、馬の体のほんの隙間に『その男』の身が入ると、あぶみに引っかかった。嫌なものが当たったと馬が
結果、男は死ねず。敵将が死んだ。
「た、たいきゃ! 退却だ! 退却!!」
側近はたまらなくなって号令をかけた。やはり死神。このままでは自分まで呪われてしまう。そう考えたのは、他の兵達も同じだった。誰も異論を唱える者はなく、その場を見た全員が我先にと逃げ出した。
他の全ての兵も、退却と聞いて慌てて引き上げていく。
「うそだろう……テメェら……どうして、丸腰のオレを殺していってくれねぇんだ!」
立ち尽くす男の横には、敵将が倒れている。それを見た味方が、男を
「こいつが一人でやりやがった! 敵陣を我が物顔で歩いて、敵将を討ち取りやがったぞおおおおお!!」
その声が響いたかと思うと、すぐに大歓声が波のように広がった。
それから時が過ぎ――。
『死にたがりの無手殺し』
二つ名を与えられ、以後、男は意に反して長く生き、最後は名将として惜しまれて世を去ったという。
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これは、
戦場物語り 稲山 裕 @ka-88inaniwa-ku
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