(第2章) 少しずつの変化
冬晴れの中、里穂は職場に向かって歩いていた。スカートを履くようになってから、バイク通勤が減っていた。
彼女は枯れた木々を見上げて、「この道を通るのも、あと少しね」と、つぶやいた。三月末で退職することを決めたのだった。決断してから、里穂は寂しい気持ちと、新しい人生への期待が入り混じったような感情を味わっていた。
病院に着くと、「おはよう。あなたの患者さんは、私が引き継ぐから安心してね」と、糸田さんから里穂は声をかけられた。
「ええ、そうでしたね。今日から少しずつ引き継ぎを始めていくので、よろしくお願いします。あっ、そうだわ。私の患者さんのことを、個人的にメモしておいたノートもお渡ししますね」と彼女が軽く頭を下げると、「私は、ここに残るけど、あなたは未知の世界に足を踏み入れるのね……。頑張って」と、糸田さんが感慨深げに言った。
最後の会合から、里穂は糸田さんとのキョリが縮まった気がしていた。それは、秘密を共有した連帯感なのかもしれないと思っていた。
午前中の仕事をこなし、里穂が食堂に行くと、再び糸田さんから「お昼、一緒に食べましょうよ」と誘われた。
「はい。最近、お弁当を作ってきてるんです」と里穂は、水玉の可愛い包みをテーブルの上に置いた。
「変われば、変わるもんねぇ」と笑い、糸田さんも自分の弁当箱を出した。
二人して食べ始めると、「あら、玄米ご飯。ずいぶん健康的になったのね。元々、あなたは、一生懸命な性格なんでしょ。患者さんのことを書いたノートを読ませてもらったわ。ずっと、こんなふうに今までの患者さんのことを書き留めてきたのね。一人一人の心の声まで書き残して……。それをブログで伝えていたのね。きっと、この病院のスタッフにしても、本当に里穂さんのことを理解してはいなかったと思うわ。損な人だわね」と、糸田さんは苦笑いした。
「私、ガサツですよ。人の心が分からないから、聞いたままを書き残してただけなんです。自分の心さえ、ずっと封じ込めて生きてきました。もし、私が患者さんの心をまともに受け止めていたら、私もメンタルがもたなかったかもしれない……。糸田さんこそ、ご自身がウツ病になるまで、患者さんと向き合ってきたんですよね。そして今は……。今は、チップを外して生の自分で立ち向かってて、凄いですよ。こんな表現しかできなくて、すみません」
「里穂さんこそ凄いわよ。だって、これから新しい分野の心のケアをしていくんですもの。意識とか心って見えない部分だから、難しいわよね。一緒に働けなくなるのは寂しいけど、応援しているわ。それと、独身の先輩からひと言言わせてもらうと、恋も経験してみたらどうかしら? 自分の人生も大切にしないと……」
「どうも、そっちは苦手で……。幸せになるのも、覚悟がいるものなんですよね。人には、言えちゃうんですけどね。はぁ~」
溜息をつく彼女に、「気持ちは分かるわ。でも、逃げないでね。何事もチャレンジよ。まぁ、私も、人のことは言えるんだけどね」と糸田さんも、卵焼きを箸で挟みつつ、溜息をついたのだった。
二人して顔を見合わせ大笑いした後、「ところで、里穂さんは、保奈美さんの施設で、どんな仕事をしていくの? 差し支えなければ、聞きたいわ。正直、未だに、自分の頭の中にチップが埋め込まれていたなんて、信じられないのよ。自分のことなのに幻だったみたいで……。人にとって、救いになるのか、どうなのかしらんね? いったい、これからどうなっていくのか、私も知りたいわ」と、糸田さんはマジメな表情に戻った。
「私も、これからなので、詳しいことは分かりません。正直、理解できるかどうかも……。保奈美さんが心配されていたのは、人工知能のチップを脳に埋め込むことで、その人の魂が抜けてしまわないかということみたいです。思考とか感情というのなら分からなくもないんですけど、魂といわれると……」
「そう、魂ねぇ。けど、経験から言うと、自分じゃなくなっちゃう感覚があって、それと魂が抜けていくということと関連しているのかしら? 私の場合、分離した自分みたいな感覚だったけど。ほら、保奈美さん、ご主人と……そっちの方の研究もしたって言ってたでしょう。人間として産まれてきて、生きているということは、体の中に、その魂が入っているからじゃないのかしらんねぇ。まぁ、ほとんどの人が、そんなことを意識して生きてはいないけど……。場合によっては、チップを入れるということは、埋め込まれた情報によっては、誰かに支配されてしまうこともあるのかもしれないわね」
糸田さんの言葉に、里穂はブルッと身震いした。
「やめてくださいよ。支配だなんて。怖いです。でも、保奈美さんは、チップを埋めることより、その人の魂が輝いていけるような進化を望んでいるみたいでした。たとえ人工知能を使用するにしても、人が人として生きる為のサポートとして考えているようでした」
「私も、それがいいと思うわ。世の中、チップを入れた人ばかりになってしまったら、人工の地球人の星ってことですものね。まっ、普通に生きてても、魂が抜けちゃってることもありそうだけど。もしかしたら抜けちゃった方が、今の世の中、楽に生きられるかもしれないわね。あるいは、魂と繋がって生きると、本気で決めちゃったら楽なのかしら」
「どっちも楽だというのなら、私は魂と繋がって生きる方を選びたいわ」
里穂は、弁当箱を片付けながら言った。
「そういう里穂さんだから、保奈美さんは手伝ってほしいと頼んだんじゃないかしら。どっちにしても、楽だけの人生なんてないでしょ。それが生きているっていうことだから。それで、具体的には、どんなことをするの?」
「栞ちゃんのこともですけど、チップを外した人の心のケアをお願いされました。私自身も、医療的な方法だけじゃなくて、自然療法も学ぶ必要があるらしくて。それと、アンドロイドの看護師とペアになって仕事をしていくらしいんです。アンドロイドには、人間的な情報を伝授して、お互いに能力を高め合えるシステムを作りたいと話されていました」
「なるほどね。アンドロイドに人間らしい心が伝わるものなのかしら? それは、心というより、方法っていうことかもしれないわ。人間らしいケアの方法。本当に心を持ってしまったら、私達と同じように苦しくなるもの。心を持たないからこそ、適切に対応できることもあるわ」
「そうかもしれませんね」と里穂は、深く頷いた。
次の日の夜、初めて天作から里穂のスマホに電話があった。里穂は驚いて、一瞬、言葉が出てこなかった。
「……どっ、どうされたんですか?」
「えっ? あぁ、あの、そのですなぁ」と天作は、またしても、しどろもどろだった。
「いや、里穂さんから言われたように、直美さんと会って話をしたんですわ。それで、あのぉ……。彼女から、『里穂さんに報告したらどう』と、この番号を教えてもろうたんですわ」
「へぇ~、彼女から報告しろと言われたのね。それは、どうも」
里穂は、ムッとした声で答えた。
「いえいえ、違いますわ。誤解せんといてください」
天作は、慌てて訂正した。
「何が誤解なんですか? 彼女は、彼女なんでしょ。よかったじゃない」
「いや、だから、それが違うんですわ。よう、わいの話を聞いてください」
五分ほど、そんなやりとりが続いた後、「そうなら、そうとハッキリ言ってよ」と里穂は、誤解だと気づいた。
「そやから、言うてるやないですか。思い込みの激しい人でんなぁ。それと……もうひとつ報告したいことがあるんですわ。保奈美さんの施設で、初めて、人工アニマルのミズノくんと漫才を披露することになったんですわ。それで、里穂さんにも観てもらいたい、そう思いましてな。今度の日曜日なんやけど、ご都合はどないですか?」
天作は、やっとのことで伝えた。
「えっ? それは、凄いわね。人工アニマルのことは保奈美さんから聞いてたけど、天作さんと漫才をねぇ……。日曜日なら大丈夫よ。喜んで行くわ」
里穂の声は、さっきとは打って変わり、弾んでいた。
「来てくれはるなら、張り切らなあかんですなぁ」と、天作も嬉しそうだった。
「誰も笑わなくても、私は笑ってあげるから、思い切ってやってね。頑張るのよ!」
里穂はスマホを握りしめ、応援した。
「おおきに。一人は笑うてくれるちゅうことでんな。ほな、気張りますわ」
天作の声も高揚していた。
電話を切った後、里穂は何を着ていこうか?と、夜遅くまで、スカートやらワンピースを並べて悩んだのだった。
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