第3話

 どなたかしら。

 目の前に現れた男性は、スマートに私の手から耳飾りとワインビネガーの杯を持っていった。

 背が高く、涼やかな目元を持つ男性。でも表情はどこか楽しげな少年のよう。どんな会合や夜会でも、彼のような人と言葉を交わした記憶はない。


「え、ええ。どうぞ」


 元々はアンリ様のために用意したものだが、アンリ様には必要がない御様子。その先、別の方が使おうが、特に構わないのだった。


「君! 急に割り込んでくるとは失礼ではないか」

「もちろん。だからはじめに『失礼』と言ったでしょう」

「なっ……!」


 軽く返されたアンリ様は鼻白む。彼がやり込められるのはあまり見ない光景だった。


「婚約者の君が使わないようだったから。もったいないからね。ブロワ伯の問いに答えようにも道具がないから助かったよ」


 青年はにこりと微笑むのを見て、私は目の前の方が「答え」を知っているのだと思った。


「もしかしてあなたも……」

「もちろんだとも。……君はそこで見ているといい」


 謎の青年は、後半の台詞だけアンリ様に向け、ふたつの道具を持って、ブロワ伯の前に進み出た。


「ふん。どうせ恥をさらすに違いないね」


 アンリ様は軽蔑されたようにおっしゃるけれど……そんなことにはならなかった。

 青年が持っているものを見て、ブロワ伯は相好を崩して首肯した。周囲の群衆がざわつく。あの青年はだれだ、と戸惑う声もあがっていた。

 あの青年は共犯者めいた笑みを私へ閃かせると、大きく杯を掲げ。

 そこへ、真珠の耳飾りを落としてみせる。

 最初は何が起きたのかわからなかった群衆も、やがて杯にしゅわしゅわと泡が出てきたのをみて、さらにどよめいた。


「貴重な真珠も、ワインビネガーに浸せば溶けていくのですよ。そして」


 青年はそのまま杯を口元にもっていくが、ふっと笑うとおもむろに、宴の卓に上がっていたサラダに杯の中身をそのまま空けた。

 溶けかけの真珠が、ころころと葉野菜の隙間を滑って止まった。

 青年は肩を竦めた。


「さすがにすぐに溶けるわけでもありませんから、すべて溶かして呑みこむのは難しいですね」


 青年が私へめがけて意味深に微笑んだことで、ブロワ伯の目が見開かれた。

 隣のアンリ様が「ブロワ伯が私を見ているぞ……!」と興奮しているけれど、ブロワ伯の目は間違いなく私を捉えていた。

 血の気が引くような思いだった。私自身が目立つつもりはなかったのに。


「『世界一贅沢な酒宴』とは、古くは砂漠の国の女王の故事に基づくものです」


 青年が出した謎かけの答え。彼自身が、聴衆に向かって解説しはじめる。


「敵国の将軍に『世界一贅沢な酒宴とは何か』を問われた時、女王は返答の代わりに真珠を溶かしたワインビネガーを呑みほした」


 真珠に含まれる炭酸カルシウムはワインビネガーに含まれた酸で溶けてしまうんですよ、と聞き心地のよい声で彼は続ける。彼は胸元のポケットからあるものを取り出すと、私の方へ歩いてくる。


「当時は今以上に真珠の価値は高かった。それこそ一粒の真珠が一国を変えるほどの価値を持っていたそうですよ」


 彼が差し出したのは、私が差し出したはずの真珠の耳飾りだった。溶けた形跡はまったくなかった。いつ、すり替えていたのだろう。気づかなかった。


「さきほど溶かしたのは、私の装飾品についていたものです。あなたのものはお返ししましょう。ブロワ伯も、あなたの知見に驚かれているご様子ですね。あなたのような若い女性が答えをご存知だったとは予想されていなかったのようです」


 後半の言葉は、私の周囲にだけ聞こえるように伝えてくる。

 目立ちたくない私に気付かってくれているのだろう。

 

「なあ」


 その低い声が横入りした時、私の身体は勝手に震えた。

 アンリ様が不機嫌になることぐらい、たやすく予見できたというのに。

 一言で、アンリ様は的確に私の浮き立つ心に冷水を浴びせると、彼は、ずいと私の前に出て、青年と対峙した。


「どなたが存じませんが、彼女は私の婚約者なので気安く話しかけないでもらえますかね。不愉快な方だ。もう行くぞ、マルグリット」


 アンリ様が無理やり私の手を引っ張る。いた、と思わず小さな悲鳴をあげてしまったら。


「おおげさに痛がるな。ちょっとまぐれが当たったぐらいで調子に乗るなよ」


 アンリ様はいつもの口癖を続けた。

 女の浅知恵は小賢しいだけ。

 教会の教えにもあるだろ。

 おまえは私よりはるかに劣った存在なんだから。

 その言葉たちは、私の手足に絡みつき、骨の髄まで浸透していくようだった。

 私は、ただアンリ様の後をついていく。

 私は歯車。意思はいらない。何も感じない、何も考えない。……何も『知らない』。

 自分のために流す涙など、とうに枯れはてていた。



  まるで家畜のように連れていかれるマルグリットを眺めた青年は、自分の手に残ったままの耳飾りを見下ろした。


――彼女は才を隠していただけだったか。ルイが心配しているのもよくわかる。


 今や彼は確信していた。マルグリットは、「あの人」の知を受け継いでいる。ただ、環境がその知を生かすには劣悪すぎた。

 特に、あの「婚約者」。彼女は、あの男にはもったいない「真珠」だ。

 彼女をどうしたものか。彼の思考はそのために沈み込んでいく。



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真珠の魔女 虐げられてきた私が幸せになる方法 川上桃園 @Issiki

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