血の繋がった他人の君へ

ニル

父より

 先に謝っておく、本当にガチでごめん。

 一緒に住んでいる俺の彼女、つまりキミのママなんだけど、ママから君のことを知らされた時、最初に「嘘つけ」と思った。だって、ママは昔にもそう口走って脅かしてきたし。またそうやって、俺の反応を試していると思った。……たまにそうやってなじられるようなことをしでかす俺も悪いのはさ、誰に言われなくても分かってんだけど。

 この時だって、何度目かの別れ話からちょっとして、マジでやーっと仲直りできそうな頃だったし、俺に気にかけて欲しくて、ママが嘘ついてんだと思ってた。けど、余裕ぶった俺につきつけられるスマホ画面、検査結果の画像に、「最悪だ」と思ったのも……ほんと申し訳ないけど事実だ。目の前は真っ暗、だけど頭は真っ白、俺はいつのまにか自分のアパートを飛び出していた。本当に俺の子かな、そうだとしても違っていても怖えよ。おろして欲しいって言うのか、俺が。言えるわけない。じゃあ子供が生まれたとして、生活はどうなるんだろう、俺たちで育てられるのか、家族にはなんて説明したらいいんだろう、とか。ママをアパートに置いて、俺は肌寒さと不安でがたがた歯を鳴らしながら、息切れするまでひたすら走った。


 ちな、君のママは実家とあんまり、結構、いやめっちゃ仲が悪いみたいだ。だから、俺のアパートから出ていけ、なんて流石に言えない。だってかわいそうじゃん。つっても、俺が実家に帰って、家族から帰省の理由聞かれても困る。絶対に父さんと姉ちゃんに殴られる。だからその日から数日間、同じ職場で働く配達員仲間の同級生に頼んで、そいつん家にしばらく泊めてもらった。


 おかげで少し頭が冷えた。ママのDMから少しずつ怒りが抜け落ちてきたのが分かって、ちょっとほっとしたのもその理由のひとつだ。それから、家を飛び出してママの連絡に返事をしないでいることへの罪悪感が黒いモヤモヤになって、胸いっぱいに広がるようになる。

 君のママはたぶん、誰にも相談していなかったんじゃないかな。彼女は友達にも家族にも、困っていることや辛いことを絶対に口に出そうとしない。不機嫌そうなのを察して俺がなんとなく聞き出すまで、誰も彼女の中でぐちゃぐちゃになっている問題を知り得ない。それを思い出した俺は、その日仕事を終えて真っ直ぐに自分のアパートに戻った。ママはバイトに出ていたから、次の日の早朝に彼女の働く店に迎えに行き、まずは謝った。「一回死んどけ」って腹パンされた。俺も自分でそう思ったし、特に不満はない。君は理解してくれるかわからんけど、これは俺たちの仲直りの儀式みたいなものだ。



 ひとまず病院に行くことになって、俺も産婦人科に付き添った。最初は小さな病院に行って、でもなんか分かんないけど別の病院(どうやら、ママのかかりつけっぽい)に移った。どうして最初にかかりつけ院に行かなかったのかは、そういえば聞いてない。


 すでにママと顔見知りらしき年配の女医さんは、俺たちが問診室に入ってきた瞬間、視線鋭く俺を睨めつけた。ママのことも睨んで、だけどすぐに「よく来てくれたね」と表情を柔らかくした。驚いたのが、ここで君を授かって初めてママが泣いたのだ。今まで見たことないくらい、幼稚園児みたいにわんわん泣いて、女医さんの膝に顔を埋めてしゃくり上げていた。俺は何もできなくておろおろして女医さんを見ると、彼女が少し微笑んだ。その途端、俺ももらい泣きした。ほっとして気持ちが緩んだのかな、自分でもよくわからない。


 女医さんからは、産まないなら今が決め時だと言われた。早く決断しないと、手術ができなくなるらしい。どうしますかと問われて、俺は口を開きかけて、ようやく、自分がどうしたいのか分からないことに気づいたんだ。

 ……いや、もしかしたら、決めるのをビビっていただけかもしれない。俺たちで育てるから産んでほしい、と言えるほどの生活はしていなかったし、無理なんで堕してほしいです、と言い放つ度胸はない。俺は小さな丸椅子に座るママを横目で盗み見た。そう、あの時俺は、君の命運を決める責任を、ママに背負ってもらおうとしていた。

 けれどママも何も言わなくて、見かねた女医さんが今日はもう帰っていいことと、一枚の二つ折りのパンフレットを差し出した。淡いピンクのそれには、丸っこくて優しげな文字で「養子縁組をお考えのあなたへ」とあった。


 病院からの帰りの電車で、俺とママは二人で一枚のパンフレットを読みながら帰った。こんなに真剣に文章を読んだのは、運転免許試験以来だったよ。まばらに空いている車両の隅で、二人であーじゃないこーじゃないと言い合いながら読み進めていくうちに、ママは何が引っ掛かったのか、養子縁組の中でも「特別養子縁組」がいいと言い出した。正直、他の制度と何が違うのか俺はイマイチ分かんなかったんだけど、俺たちなんかよりもずっと金持ちで、優しくて、頼りになる夫婦に預けることができるのならなんだっていいな。というのが俺の本音だった。



 君を養子に出そう。そう決めて、俺たちはすぐ困難にぶつかった。週に一回か二回、ママは夜になると君を育てたいと言って、しくしく……いや結構激しめに金切り声で泣いた。情緒不安定ってヤツだ。そのくせ次の日の夕飯時には、「早く児相かあっせん団体に連絡しなきゃね」なんて笑うんだ。

 やばいぞ、と胃が痛くなった。こんなに情緒不安定なママが、子供を育てられるのだろうか。俺はママのそういう性格には慣れて、今の同棲に大きな不満はない。けど、もし君を俺たちが育てるなら、俺が仕事をしている間は君とママは家に二人きりだ。少し前に見た児童虐待のニュースを思い出して、とにかくことを進めないとって恐ろしくなった。


 事務所が一番近い民間の養子縁組あっせん団体を探して、俺はママにそれとなく相談に行ってみるように伝えた。俺は行かなかったのかって? 仕事が……つーのは建前で、児相もだけど、そういう女の人や子供のための施設ってちょい気まずい。ああいうとこの人らって、優しい顔で話を聞いてたって、何してくれてんだこのクソ男、とか思ってそうじゃん。偏見かな。



4 

 あっせん団体との初回面接後、ママはご機嫌でも不機嫌でもなくスンてしていた。相談を担当してくれた人は、とりあえず悪い人じゃなかったみたいだ。君のことや、これからの手続の流れについて説明を受けたっぽくて、ママを担当した人が俺との面接も希望しているらしかった。気乗りしねぇーと思っていたら、それが顔に出てたみたいで、ママお得意の耳がキーンてなるくらいの説教かまされる。とりあえず分かったから、俺ちゃんと行くからって宥めて、そう言った手前仕事が休みの日に、あっせん団体の事務所に行ってきた。


 正直めっちゃいい人だった、坂本さん(俺たちの担当さんのこと)。ママを妊娠させたこととか養子に出したいこととか、叱られんのかと思ってたから。そうじゃなくても、責任とれねーくせして中出しとか何考えてんだ、このカス野郎! ……って顔されそうだと思っていたから、そうじゃなくてほっとした。坂本さんは、養子に出すことは子供を捨てることじゃない、子供の幸せを願った時、親にできる選択肢の一つなんだとも言っていた。産んでくれた親と育ててくれた親、どっちもいたっていいんだって、子供は不幸にならないんだって知って、なんか俺もやっと、「君の産みの父親(産むのはママだけど)」になることが、ちょっと楽しみになれた。

 


 ママは、お腹がちょいぽっこりしてきた頃に仕事を辞めてきた。そしてやっぱり、ママは自分の親に君のことを打ち明けたくはないらしく、となると俺もそれに協力しようということで、お金のこととか、ママの通院のこととか、家族に協力してもらうこともできずに、自分たちだけで……というか俺の収入だけでどうにかしていくしかなくなった。


 そんで、最初の三、四か月くらいは本当にヤバかった。地獄って感じ。ママは俺の帰りが遅くなると包丁投げてきたり、もういいと言ってベランダから飛び降りようとしたりして、それをなだめるのが大変だったし、ほっといたら何も食べないし、かと思えば深夜に叩き起こされてマックのポテト買いに行かされたり、訳が分かんねえ。俺は君のママに振り回されていた。けんかもたくさんして、収集がつかなくなって、何度坂本さんに連絡したか分からない。


 ……けど、辛いばかりじゃなかった。それはマジ、自信を持って君に誓える。ママのお腹が、つまり君がどんどん大きくなるにつれて、不思議で、少しわくわくして、赤ちゃんの相手なんてしたことないくせに、近くの団地の公園を、君と手を繋いで散歩する夢なんか見ちゃったりして。君が生まれる直前の頃には、俺とママとの間に漂っていたピリついた雰囲気が、水で薄めたみたいになっていった。

 ————うん、そう。あくまでも薄めただけ。何か一つでも間違えたら、例えば、俺が「やっぱり自分たちで育てたい」なんて言ったら、ママはきっと賛成した。ママはそれくらい、たぶん俺よりも何倍も何十倍も君が生まれるのを楽しみにしていたと思う。それでも俺たちが、感情のままに君を育てることにして、育ててみて、それから……夢に見たような幸せを君にあげることができるのか、俺は分からなかった。それはママも同じだったと思う。だから、俺たちは君が生まれるのが楽しみだねなんて笑い合って、その後のことには口を閉ざし続けていたよ。



 君が生まれた日のことも話しておきたい。

 もういつ生まれてもおかしくなかったから、本当は仕事を休みたかった。でもママは、先々月のクレカの督促来てるからとかなんとか言って、俺を仕事に行かせたがった。でもまあ、家にいたって俺にできることなんてないわけで、ママの言う通り生活もカツカツなわけで、君が生まれた日も俺は忙しく配達区域中を駆け回っていた。


 俺が病院に駆け込んだのは、残業終わりの午後九時。何もかも終わっていた。ママはちょっと眠そうに「遅っせ」と笑って、その隣で君は真っ赤な顔しておくるみにくるまれ寝ていた。抱っこしていいよってママから許可が出て、抱き上げてみて、君がみじろぎするのが恐ろしくて、触れるだけでけがをさせてしまいそうな気がして秒で下ろした。でも、すげえ怖かったけどすげえ柔らかくて、そろそろ帰ってくれと看護師さんから声がかかるまで、俺は君の寝顔を眺め続けた。

 帰りの電車で坂本さんにお礼のラインして、それからふと、君を手放したくないなあなんて思って、でも家に帰ると郵便受けにはクレカとかスマホとかの督促が溜まってて、俺とママのけんかで開いた壁の穴とか目について、ああ無理だよなって冷静になって……シャワー浴びながら一人で泣いた。これはママに内緒な。


 まあ、こんな感じで未練たらたらのまま君と別れたわけだけど、後悔はしていない。ママはたまに坂本さんと連絡を取り合っているみたいで、君が新しい家族のもとで元気にしているって話を聞かせてくれる。


 それでもやっぱり少しだけ、ぬるくて甘い期待をしてしまうこと、どうか許して欲しい。

 血の繋がった他人が、どこかで君の幸せを願っていること、いつか君にも伝わってほしい、伝えられたらいいなと思う。

 生まれてくれてありがとう。

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