箱庭の中で

 次の日からメグの新しい生活が始まった。

 待遇は実に贅沢なものだった。


 サーシャがほぼ付きっきりでメグの世話をしてくれた。

 食事は3食欠かさず用意され、柔らかいベッドで眠りにつく。


 しかし、メグは幸せな日々に戸惑い、現状を素直に喜べなかった。

 今頃カスミはどうしているだろう。

 自分だけがこんなに裕福な暮らしをしていいのだろうか。

 妹を心配する気持ちと罪悪感が合わさり、思い悩む日が続いた。


 そして数週間がたった頃、サーシャに連れられてメグは勉強机の前に来ていた。


「今日からはお勉強を始めます」


 そう言ってサーシャはメグを椅子に座らせた。

 理由を尋ねたメグにサーシャは本を渡した。


「なぜか?勉強しない悪い子はこの家を追い出されるからです」


 メグは昔の生活を思い出して身震いした。この家を出たくない。

 怯えるようにメグは渡された本を開いて机に向かった。


「いい子ですね。そうしていればずっとここにいられますよ」


 文字を覚えることから始め、最初は勉強を頑張っていたメグ。

 ところが、連日机に噛り付くうちにメグは座学に飽き始めた。


 退屈そうにしているメグを見かねてサーシャが口を開いた。


「少し根を詰めすぎていますね。休憩時間の間、庭に出ることを許可します。外で遊べば多少は気晴らしになるでしょう」


 メグはサーシャに勧められ、その日の休憩時間は庭を見て気分を切り替えることにした。

 勝手口を開けて屋敷の外に出る。

 雲一つない空から降り注ぐ暖かな陽の光に、目が眩みそうになる。


 辺りを見回しながら歩いて庭に向かうと、そこには丁寧に整えられた芝生が広がっていた。

 庭木や花々も手入れが行き届いており、メグの目には天国のように見えた。


 カスミと一緒にこの屋敷へ来れていたらどれだけ良かったか。

 一瞬、暗い気持ちが頭をよぎる。

 メグは顔をブンブンと振って、気を取り直す。

 

 せっかくなのだから、色とりどりの花をもっと近くで見よう。

 そう思って走り出した時、突然獣のような吠え声が響いた。


 見ると真っ黒な毛並みの犬が威嚇するようにメグの方を睨みつけている。


 メグは驚いて悲鳴を上げ、背を向けて逃げ出した。

 それが良くなかったのか、黒い影が狩りをする猛獣のように駆け出す。

 瞬く間に回り込まれ、メグは尻もちをついてしまう。

 

 鋭い牙がメグに向かって襲い掛かろうとした、その時であった。


「ノワール!待て!」


 投げかけられた指示に反応して、黒い大型犬はピタリと動きを止めた。

 メグは声がした方に目を向けた。


 そこには1人の少年が立っていた。

 鮮やかな金髪に緑色の瞳が映えている。


 メグよりは年上のようだが、まだ幼さの残った顔立ち。

 身長もメグより頭一つ分高い程度で、さほど大柄ではない。


「君、大丈夫だった?」


 少年はメグのもとに駆け寄って来て、心配そうに手を差し出した。


「ノワールはこの屋敷の番犬でね。知らない人を見つけたら吠えるように躾けられてるんだ。怖がらせてごめんね」


 番犬のノワールはすっかり大人しくなり、少年の足元に擦り寄っていた。

 

「僕は庭師見習いのセオ。君は最近屋敷に来た子だよね?」


 立ち上がったメグは深々と頭を下げて礼を言い、名を告げた。


「メグ……、良い名前だね。僕は大体いつも庭にいるから、屋敷のことで何か困ったらいつでも聞いて。相談に乗るよ」


 優し気な笑みを浮かべるセオに見つめられて、メグは赤面した。

 初めて会った年の近い男の子に親切にされて、面映ゆい気持ちになってしまう。

 メグは慌てふためきながら繰り返しお礼を言って、屋敷へパタパタと引き返した。


 その後、メグは勉強の合間に庭でセオと遊ぶようになった。

 会うたびに自然と仲良くなり、ノワールにも懐かれ、屋敷での生活にも徐々に馴染んでいった。



 屋敷に来てから2か月後。

 メグはメイドの服を着せられていた。


「今日からは見習いの仕事をしてもらいます」


 突然サーシャにそう言われても、メグはもう理由を聞かなかった。

 屋敷で暮らせることがどれほど幸せであるか。

 勉強して知ったからである。

 それだけではない。


 セオという友達もできて、メグはようやく前向きに生きようと思い始めていた。

 ここでの生活は妹との離別を受け入れるだけの豊かな日常をくれた。


 この屋敷での暮らしを手放したくない。

 そのためにはいい子であり続けなければならない。

 サーシャに習って、メグは仕事を覚えていった。



 屋敷に来てから1年後。

 メグはすっかりメイドとして一人前になっていた。

 ある日の夜、メグは他のメイドたちと共に屋敷の外でを出迎えた。


 旦那様が屋敷へと入っていく。

 門の前には女の子が取り残されていた。


 丸メガネをかけたメイド長のエミリーが女の子に近づいて話しかける。


「あなたは今日から我が家の子供です」


 メグがその様子を見ていると、ランカが指示を飛ばした。


「なにしてるの、メグ。アタシたちはこっちよ」


 ランカが屋敷の方に戻りながら手招きしている。

 メグは急いでランカの後に続く。

 

 ランカと共に食堂で夕食の準備をすませる。

 書斎にいる旦那様を呼びに食堂を出たところで、メグはサーシャと鉢合わせた。


 サーシャはメイド服ではなく、真っ黒な洋服に身を包んでいる。

 右手には重そうな荷物を持っていた。


 サーシャは驚いたように目を見開き、メグの顔を見つめる。

 一瞬口を開きかけたサーシャは、伏し目がちに顔を背けると黙って玄関から出て行ってしまった。



 それから何日たっても、サーシャは屋敷に戻ってこなかった。

 心配になったメグは思い切ってランカに質問をぶつけた。


「サーシャがどこに行ったか?知らないわよ、そんなの」


 ランカはそっけなく答えた。

 メグはがっかりした様子でうつむく。

 すると、ランカは溜息交じりに言葉を続けた。


「アンタも教わったでしょ。旦那様に従順なしか屋敷には置いてもらえないって。戻って来ないなら、きっと追い出されたのよ」


 勉強や仕事を教え、自分を育ててくれたサーシャの記憶がメグの脳裏に蘇る。

 サーシャが追い出されるような悪いことをするとは思えなかった。


「信じられない?分かってないのね。アタシたちをどう扱うか決めるのは旦那様なの。アンタも出て行きたくなかったら、余計なことは考えない方がいいわよ」


 メグは本当のことを知りたかった。

 サーシャがどこに行ったのか。なぜ屋敷に戻らないのか。

 旦那様に聞けば分かると思った。


 しかし、ランカの忠告を受けてメグは考えを改めた。

 旦那様の機嫌を損ねたら、自分が捨てられてしまうかもしれない。


 1年間メイドとして不自由のない暮らしをしてきたメグは、屋敷を出る危険を冒すことができなかった。


 疑問を抱いてはいけない。

 メグはそう自分に言い聞かせて、すべてを忘れることにした。 



 しかし、それから1か月後。メグは違和感に気づいた。

 1か月前、メグと同じように屋敷へ迎えられた女の子が、いつの間にかいなくなっていたのだ。

 疑問に思ったメグはランカにそのことを尋ねてみた。


「ああ、あの子ね。教育を受けても言うことを聞かなかったせいで、追い出されたらしいわよ」


 メグは驚いた。

 心のどこかでそう簡単に見捨てられるわけがないとメグは思っていた。


 なのに1ヶ月足らずで、あっさりと幼い少女が放逐されてしまった。

 それはメグにとって衝撃的だった。


「なにを驚いているの?当然じゃない」


 ランカは解せないと言う面持ちで続けた。


「アタシたちはただのなのよ。言うことを聞かなかったら、旦那様にとっては役立たずなの。そんな子が屋敷に居られる訳ないでしょ?」


 ランカの言葉を聞いて、メグはハッとした。


 旦那様は自分たちをメイドとして利用するために養っている。

 その事実をメグはようやく理解した。

 と同時に、旦那様に対して不信感を抱かずにはいられなかった。

 

 屋敷から出たくはない。

 でも、この場所はいつ追い出されてもおかしくないのだ。

 もう安心して暮らすことなどできない。


 その日から、メグは不安の中で生活することを余儀なくされてしまった。

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