第3話

「これで拭いて着替えてください。私のものなのでサイズは合わないと思いますが……」

「良いんですか。ここまで良くしていただいて……」

「店に来るように誘ったのは私です。私が勝手にやっていることなので、気にしないでください。脱いだ服はその辺りの籠にでも入れて持って来てください」


 それだけ言って輝星は部屋を出ていき、その場には星来だけが残される。輝星の言葉に甘えて洗い立てと思しき柔軟剤の香りがする柔らかなタオルで髪とトートバッグを拭くと、再度誰も入って来ないことを確認してから服を脱いで下着姿となる。下着も濡れていて気持ち悪かったが、ここで脱ぐ勇気は無かったので我慢して湿った手足を拭ってしまう。

 雨音に耳を傾けながら輝星から借りた服を着ていると、近くでがさりと大量の書類が落下する音が聞こえてきたので顔を上げる。

 片付けが苦手なのか、休憩室の机の上には書類やチラシが積み重なっており、机の下には書類が散らばっていた。この書類が落下したのだろうか。

 あまりまじまじと見るのは失礼だと思いつつ目を離した星来だったが、視線を逸らした先には写真が飾られていた。

 この店の前で撮られたと思しき写真の中では、いかにも喫茶店のマスターと言わんばかりのエプロン姿の老齢の男性が写っており、その前には高校生くらいの男女が手を繋いで照れ臭そうに笑っていたのだった。

 男の子は輝星と同じ顔立ちをしているので、輝星の学生時代の写真だろうか。となると、隣は輝星の彼女と考えられる。

 

(やっぱりあれだけイケメンだと、彼女くらいいてもおかしくないよね……)


 星来は小さく溜め息を吐く。期待していたわけではないが、なんとなくがっかりしてしまう。他の男性と違ってびしょ濡れの星来を見ても、嫌らしい目つきを向けてこなかったので、てっきり年齢と恋人いない歴が同じ男性だと思っていた。なんとなく恋愛に興味が無さそうな人だと思っていたが、周りはそう思わないのかもしれない。

 仕事に忙殺してばかりで恋愛をする暇が無い星来からしても、輝星は美丈夫で目鼻立ちも整っている。星来とは違って、お付き合いしている女性がいてもおかしくない。


(勝手にわたしを助けて彼女さんに怒られないのかな。嫌だな、変に恨まれるの……)


 ドラマや漫画のように彼女さんと偶然鉢合わせして、人の彼氏に色目使ったとか、誑かしたとか言われる前に早くお暇しよう。

 そう決めて星来は濡れた服を近くにあった荷物籠に放り込んで外に出る。すると先程まで雨音に包まれていた店内にはいつの間にか静かなジャズが流れ出し、香ばしいコーヒーの香りまで漂っていたのだった。


「……こうして輝星のコーヒーが飲めるのも、あとわずかなんだな」

「飲みに来ればいいだろう。店の場所は教えるから」

「でもすぐには再開しないんだろう。セイラちゃん次第だろうけど」

「それはそうだが……」


 自分の名前が出たのでびっくりして飛び上がりそうになったものの、すぐに自分じゃないと思い直す。そもそも初対面の輝星にまだ名前を教えていないのだから、星来の名前が二人の口に上がるわけがない。


「ただその前に会えて良かった。ずっと会いたいと思っていたから」

「はっ! ストーカーかよ。気持ち悪っ! もっと別の方法を考えろよな。恋愛初心者じゃあるまいしよ!」

「仕方ないだろう。もう残された時間が無いんだから。玉砕も覚悟の上だ」


 あれこれ騒ぐ二人の様子からタイミングが悪かったかと思いつつも、星来はそっと店の中に戻る。

 話に集中している二人に向かって、おそるおそる「着替えました」と声を掛けたのだった。


「ありがとうございました。サイズも少し大きいだけで問題なく着られました」


 着替えた際に多少余った袖や裾を捲ったものの、少し緩いだけで済んだので、着ているうちにずり下がってくることは無い。

 スラックスの腰回りだけはどうしても余ってしまったので自前のベルトを使って調整したが、それでもまだ布地に余裕があった。服が乾くまでの短い時間借りるだけなので心配いらないと思ったが、念には念を入れてベルトで余った布地を固定した。これなら二人の前で脱げる心配も無い。

 

「それは良かった。身長や体格的に丁度良さそうな服が昔着ていた古着ぐらいしか見つけられなかったのでお貸ししましたが、ずっと店の肥やしにしていたのであまり着心地は良くないかもしれないと気にしていました」


 黒いエプロンを身につけた輝星はタオルで手を拭きながら、カウンターから出てくる。そのエプロン姿が先程休憩室に飾られていた写真の中の老人とそっくりで、つい目を逸らしてしまう。

 

「いいえ、とんでもありませんっ! 洗って後日お返しします」

「気にしないでください。その服はもう捨てるだけなのであなたの洋服が乾かなければ、着て帰っていただいて構いません」

「そんなわけにはいきません! わたしの服ですが、どこかに干させていただいても良いですか?」

「それなら……ケン、出番だ」

「うっす」


 ケンと呼ばれた派手な青年は星来から服が入った籠をひょいっと受け取ると、「ご馳走さん」と手短に言って、そのまま外に出て行ってしまう。

 その動きがあまりにも手慣れていたので、気付いた星来が「ああ〜っ!?」と叫んだ時には扉に付けられた鈴の残響だけが店内に残されていた。その様子があまりにもおかしかったのか、くすりと輝星の小さな笑い声が耳に入る。


「大丈夫。乾燥させてすぐに持ってきてくれますよ。ケン……彼はこの店の向かいのクリーニング店の息子なんです」

「クリーニング店……」

「そこのガラス窓越しからでも見えます。この辺りで唯一営業している老舗のクリーニング店で、この店も贔屓にしている得意先でもあります」

 

 ガラス窓に近付くと、確かに輝星が指した先には時代を帯びた昔ながらのクリーニング店が鎮座していた。どこか歴史的な街並みが残る街の風景に馴染んでいて全く違和感が無く、時代の掛かった薄ぼんやりした白い明かりもこの灰色の暮雨の中に溶け込んでいたのだった。

 星来がぼうっとクリーニング店を見つめていると、ガラス窓越しにいつの間にか輝星が後ろに立っていた。


「見た目はちょっと派手ですが、悪い奴じゃないんです。嫌々言いつつも家業を手伝っていて、さっきも配達帰りに寄ってくれたのを良い事に店番を押し付けたら引き受けてくれて」

「そうだったんですが……。あっ、それなら戻ってきた時にクリーニング代をお支払いしないと……」

「心配には及びません。勝手に連れて来たのは私なので、クリーニング代も私が支払います」

「でももう洋服をお借りしていますし、さすがにそこまでしていただくわけには……」

「これくらい大したことではありません。雨に打たれて身体も冷えたでしょう。コーヒーはいかがでしょうか」

「いいんですか?」

「少し早いですが、そろそろ店を閉めようと思っていたんです。この雨では誰も来ないでしょう」


 そして輝星は「それに……」と言葉を区切ると、振り向いた星来を覗き込む。


「あなたとは話してみたいと思っていたので」

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