第15話 銀世界

「わあ、雪だぁ!!!」

 朝、起床して窓の外を見るなりアリアが歓喜の声を上げた。

 素が出たのか、いつもとは違って年相応の子供らしい口調になっている。やはりまだ十一歳なのだと微笑ましく思いながら、アイザックも寝台を降り、目をかがやかせる彼女の隣に並んで外を見やる。そこには、まばゆいばかりの銀世界が一面に広がっていた。


 アリアは南方育ちなので雪に馴染みがないのだろう。

 王都では年に数回ほど雪が積もる。そのほとんどがうっすらと積もるくらいで、多くてもせいぜい膝上といったところだ。往来に支障が出ることはあっても数日で元通りである。雪に閉ざされる北方のような苦労はない。

 それゆえアイザックとしても雪に対して悪い感情はなかった。雪景色を見るのは満更でもないし、子供のころはもっと素直にうれしかったような覚えがある。弟のショーンと一緒に庭で遊んだことも何度となくあった。


「朝食のあと、雪遊びでもしたらどうだ?」

 そう提案すると、彼女はパァッと顔をかがやかせて振り向いたが、すぐにしゅんと意気消沈してうなだれる。

「お勉強があるので無理ですね」

 だいたい毎日ティータイムまではみっちりと教育の予定が詰まっている。だが、ティータイムになるころにはもう雪が融けかかっているかもしれない。雪遊びをするならやはり朝食のあとがいいだろう。

「わたしから母上に頼んでみよう」

「え、雪遊びさせてやれって?」

「言うだけ言ってみるつもりだ」

「あまり期待しないでおきますね」

 そう苦笑しつつも、期待を捨てきれていないのが表情から見てとれる。

 これで断られたらまた落胆させてしまうな——軽率なことを言ったかもしれないと後悔しそうになったが、こうなったら何がなんでも母を説得するしかない。アイザックは横目で彼女を見ながらひそかに意気込んだ。


 朝食時には、当然のように雪の話題になった。

 使用人が見てきたところ、大人の膝くらいの高さまで積もっていたそうだ。ただ、雪を降らせていた鈍色の雲はおおかた消え失せているので、これ以上はもう積もらないのではないかとアイザックは推察している。

「アリアは南方育ちよね。雪を見たことはあるのかしら?」

「本物は初めてです。絵画や本の挿絵でしか見たことがありませんでした。あちらでは一度も降ったことがなくて……三十年ほど前に降ったことがあるとは聞きましたが、わたしが生まれてからはないみたいです」

 母のイザベラに話を振られて、アリアはところどころに興奮をにじませながら答える。

 それを聞きながら母は微笑ましそうにニコニコとしていた。この様子なら雪遊びをさせてもらえるかもしれない。そう考えて、話を切り出すタイミングを慎重に窺っていたところ——。

「それなら、朝食のあと庭で雪遊びをしたらどうかしら」

 母のほうから提案してきた。

 アイザックは驚き、パンを手に持ったまま母を見つめて動きを止める。隣ではアリアも時が止まったようにぽかんとしていた。ややあって目をぱちくりとさせて口を開く。

「いいんですか?」

「ええ、勉強はいつでもできますけど、雪遊びはこういうときにしかできませんからね。初めてならなおさら触ってみたいでしょう。気のすむまで思いっきり遊んでらっしゃい」

 母がそう告げると、アリアはようやくパァッと顔をかがやかせる。

「ありがとうございます!」

 そう応じると、いつもどおりマナーを守って食事をつづけるが、そわそわと逸る気持ちまでは隠しきれていない。アイザックは横目で見ながら我知らず頬をゆるめた。


「若奥様、お待ちください!」

 朝食が終わり、待ちきれないとばかりにそそくさと庭へ向うアリアを、年若い侍女があわてて追いかける。その手には防寒用と思われるケープが抱えられていた。

「そのままではお寒うございます」

「そうでした……」

 ほんのりと頬を染めながら素直にケープを着せてもらい、今度こそ外に出るが、積もる雪には足を踏み入れず、腰を屈めて手を伸ばしおそるおそる白い雪に触れた。

「わ、冷たい!」

 一度ははじかれたように手を引っ込めたものの、すぐにまた触れ、押したり掴んだり握ったりと興味深そうに感触を確かめている。

 その様子をアイザックが窓ガラス越しに眺めていると、母のイザベラも隣に並んだ。やはりアリアの様子が気になって見に来たのだろう。やわらかいまなざしを窓ガラスの向こうに送っている。

「まさか、あなたが雪遊びを提案するとは思いませんでした」

「もちろん未来の公爵夫人として教育は大切ですけど、子供らしく過ごすことも同じくらい大切ですからね。あなたも一緒に遊んであげなさいな。今日は特別に服をドロドロに汚しても構いません」

 母はいつもの調子で応じると、どこか悪戯めいた笑みを浮かべてこちらを一瞥した。

 二十六にもなって雪遊びというのはどうかと思わないでもないが、確かにアリアがひとりでは寂しいかもしれない。母の策略にはまった気がしてモヤモヤする気持ちはありつつも、外套を着込んで庭へと向かう。いつのまにか穏やかな日差しが降りそそいでおり、反射した新雪のまぶしさに目を細める。

「もっと雪の中には進まないのか?」

「アイザック様!」

 声をかけると、腰を屈めていたアリアが満面の笑みで振り返った。自分の名前とともにほのかに白い息が上がる。

「これだけで満足しているなら別に構わないのだが」

「いえ……でもドレスが濡れてしまいますし」

「服はドロドロになってもいいと母から許可が出ている」

「ええっ?」

 困惑まじりに驚くアリアを見て、アイザックは内心で微笑ましく思いながら、積もった雪にざっくりと足を入れる。

「わたしが踏みしめながら進むから、君はそのあとをついてくるといい」

「はい……あの、アイザック様はお仕事に行かなくてもいいんですか?」

「馬車が動かないからな」

 天候はもう回復しているし、本当は雪道を歩いてでも行ったほうがいいとは思うが、まあ急ぎの仕事はないはずなので許してもらえるだろう。

「滑るから気をつけるように」

「はい」

 アリアはドレスの裾をたくし上げながら慎重に足を進め、後ろをついてくる。

 奥のほうは庭園になっているが、足元が見えない状態で進むのはさすがに危ない。そのすこし手前でアイザックが足を止めると、後ろをついてきていた彼女も立ち止まり、周囲をぐるりと見渡す。

「わぁ……」

 ふわりと白い息が上がった。

 前後左右すべて雪景色で、日の光を浴びてキラキラときらめいており、すぐ近くには綿帽子をかぶった木々が立っている。さきほどよりも間近に雪を感じられるだろう。

「とってもきれい」

 アクアマリンの瞳をかがやかせながら、感じ入ったように言う。

 たくし上げていたドレスはいつのまにか雪の上に落ちていた。それを気にすることなく屈むと、ふわふわの雪を両手ですくってパッと空に舞い上げ、うれしそうにはしゃいだ。キラキラときらめく雪が頭にも降りかかっている。

「冷たくないか?」

「大丈夫です!」

 気持ちが高揚しているせいで寒さを感じていないのか、明るく元気よくそう答えた。しかしふいに動きを止めたかと思うとアイザックに振り向く。

「あの、わたし雪だるまを作ってみたいです」

 いいことを思いついたとばかりにワクワクした様子でそう言った。絵本か何かで見たことがあったのだろう。だがアイザックとしては諸手を挙げて賛成することはできなかった。

「雪だるま……か」

「ダメですか?」

「そうではないが」

 そこで言葉を切り、どう答えようかと思案しながらつづける。

「幼いころ弟のショーンにせがまれて一緒に作ったが、翌日には崩れてしまった。それを見てショーンが大泣きしたんだ。君が泣くとは思っていないが、悲しい気持ちにはなるかもしれないだろう」

 きれいに融けてなくなってくれればまだしも、中途半端に融けたり崩れたり泥で汚くなったりするので、アイザックでさえ何とも言えない気持ちになったものだ。アリアにはあまりそんな気持ちを味わってほしくない。だが——。

「お優しいんですね」

 彼女はくすりと笑い、あらためてアイザックの目をまっすぐに見つめる。

「でも平気です。雪は消えても思い出は消えませんから」

 寒々しい白銀の世界でそのとき彼女が見せた笑顔は、あたたかくて、やわらかくて、まぶしくて、まるで春の陽だまりのようだった。


「最初は両手で握って雪玉を作り、ある程度の大きさになったら雪の上を転がして大きくしていく。固めた雪は重いからあまり大きくしないほうがいいだろう。そうだな……膝の高さくらいにしよう」

「はい!」

 アイザックが胴体を、アリアが頭を作ることにした。

 大きくなった雪玉は思っていたよりも重かったようで、彼女は驚いていたが、それでも動かせないほどではなく楽しそうに転がしていく。長いドレスの裾はいつのまにか雪まみれになっていた。

「アリア、君のほうもそのくらいでいいだろう」

 今度は土のついた表面をまっしろな雪できれいにしつつ、形も整えていく。転がしただけではまんまるにならないのだ。そして彼女の作った頭を、アイザックが慎重に抱えて胴体のほうにのせた。

「わあ、雪だるまだ!」

 アリアは興奮した声を上げ、真正面にしゃがんでニコニコしながらかわいいとつぶやく。満足してもらえたようでアイザックはひとまずほっとした。

「顔と手はどうする?」

「このままでいいです」

「では完成だな」

 アイザックも隣に並び、立ったままあらためて雪だるまを眺める。

 大きすぎず小さすぎずほどよい存在感があるし、作ってみて難しくはなかったもののそれなりに達成感はあった。子供のころ以来であるが、なかなか悪くない経験だ。そう思えるのはアリアと一緒だったからに違いない。

「そろそろ家に入ろう」

「え、もうですか?」

 その声はとても名残惜しそうだった。

 だが、ずっと素手で雪を触っていたのでジンジンと痛いくらいに冷えており、このままだとしもやけになってしまうかもしれない。

「あとでまた見に来ればいい。すぐに融けることはないだろう」

 しゃがいんでいるアリアの小さな手をとってみると、やはり同じように冷えていた。彼女も気付いたのかハッとして素直に立ち上がる。ドレスの裾はだいぶ濡れており、ところどころ土や泥で汚れているのも見てとれた。アイザックのほうもやはり足元が濡れていて冷たい。

「わたしも君も着替えないといけないな」

「本当にドロドロにしてしまいましたね……」

「気にするな。母が汚していいと言ったんだ」

「はい」

 アリアは控えめにくすりと笑って応じた。

 そのまま何となく彼女の手を引き、そのまま何となく手を離すことなく、互いの体温を感じながら黙々と雪を踏みしめて屋敷へと戻っていく。白銀の庭に、顔のないただまっしろな雪だるまをひとつ残して——。

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