横浜あやかし喫茶~座敷童が営む店~

みつまめ つぼみ

第1章:海辺の喫茶店

第1話

 端末を操作しながら、希望の条件を入力していく。


 二十代後半、年収四百万以上――めぼしい求人票は見当たらない。


 ――やっぱり、贅沢すぎるかなぁ。


 真理はため息をつきながら端末を離れ、人の波を縫うように階段を降りた。


 ハローワークの時計を見上げると、時刻は午前十一時前。


 昼食にはまだ少し、早い時間だ。


 真理はふらりとハローワークを出て、足が向くまま潮の匂いがする方向へ歩きだした。


 先輩に誘われて移籍した小さな出版社。


 だが出版不況で、電子書籍の売れ行きが悪いまま業績が悪化し、ついに社長が夜逃げした。


 なんとか離職票だけは確保したが、その間に貯金も底をついてしまった。


 失業保険が出る間は猶予があるのだが、真理は『次』を見つけられずに悩んでいた。



 山下公園に辿り着き、何気なくベンチに座り込む。


 真理は静かに海を見やりながら、潮風に当たっていた。


 もう出版業はこりごりだった。


 忙しい日常で、プライベートもなにもあったものじゃない。


 大学で知り合った彼氏ともすれ違いになり、二年前に別れてしまった。


 真理を誘った先輩編集者は、気まずい関係になって音信不通。


 コネが無くなり、やりたい仕事も見つからない。


 二十八歳、キャリア形成で大事な時期に倒産で失業だ。


 大卒後、たいしたキャリアも作れないまま今に至る真理には、武器になるものがなかった。


 このままではよくないという自覚はあったが、意欲や気力というものが枯渇していた。


 腹の虫が空腹を訴え、真理は朝食を食べていないことに気が付いた。


 だが『何かを食べたい』という意欲もわかず、そばにある自販機に向かって立ち上がり、歩きだした。



 自販機を眺めていても、飲みたいものが決められない。


 心が疲れ切った真理には、決断をする気力が著しく欠けていた。


 真理はため息をつき、自販機から離れようと顔を回した時、ふと目に喫茶店が入ってきた。


 ――コーヒーか。美味しいコーヒーなら、飲んでみるかな。


 真理の足は、誘われるように海辺の喫茶店に向かっていった。



 店の前で看板を見上げる――『カフェ・ド・アルエット』。よくある店名だ。


 少し歴史を感じる色あせた看板からドアに目を向け、真理はゆっくりとドアを押した。


 カランコロンとドアベルが鳴り、ふわりとコーヒーの香りが真理の鼻をくすぐった。


 明るい店内に客はおらず、静かなモダンジャズが流れている。


 カウンターにも店員が見当たらず、真理は適当に窓際の席に腰を下ろした。


 革製のメニューを手に取り、広げてみる。


 コーヒーの銘柄がずらりと並ぶ。どうやら本格的な喫茶店らしい。


 カウンターの奥からパタパタと音がして、真理がメニューから目を上げた。


 同年代風の青年が、バリスタのようなスタイルで水を真理のテーブルに運んできた。


 白いYシャツに黒いチノパンとベスト、茶色いエプロンには、銀の刺繍で店名が刻まれている。


 青年の瞳は琥珀色で、静かな笑顔で真理を見つめていた。


 清潔感のある青年が、笑顔で真理に告げる。


「ご注文はお決まりですか」


 真理は少し悩んでから、青年に尋ねる。


「お勧めのコーヒーとかある?」


 青年がニコリと微笑んで応える。


「それならマンデリンなどいかがですか。

 今のお客様なら、きっとお気に召すと思います」


「なんだかわからないけど、じゃあそれで」


「かしこまりました」


 青年がカウンターに入り、戸棚から缶を取り出した。


 豆をコーヒーミルでゆっくりと挽き、ドリッパーにフィルターと共にセットする。


 沸騰したケトルを手に持ち、ゆっくりと豆の上からお湯を注ぎ始めた。


 柔らかなコーヒーの香りが店内に満ちていく。


 真理は水を一口飲んだ後、店内をゆっくりと見回していった。


 落ち着いた色合いの木製のテーブルは良く磨かれていて、歴史は感じるが古さはない。


 天井に並んだランプは優しい光を店内に落としている。


 壁にはポートレートがいくつか飾ってあり、海の写真が並んでいた。


 ポートレートの間から張り紙を見つけ、真理は文字を目で追った。


 求人広告。店内従業員募集中。待遇は応相談とあった。


 ――喫茶店か。考えたことなかったけど、それも面白いのかな。


 コーヒーを運んできた青年が、コトリとカップ真理の前に置いた。


 真理が青年に尋ねる。


「あの広告だけど、正社員?」


 青年が微笑みながら応える。


「ええ、そうですよ。

 前の従業員が、家の都合で退職してしまいまして。

 お客様、ご興味がおありですか?」


 真理は少し悩んで応える。


「待遇次第ね。条件は?」


「週休一日、九時五時です。

 賞与は年一回。

 有給はありますが、一週間前に申請を出してください」


「私は二十八歳なんだけど、月収いくらになるの?」


「そうですねぇ、――くらいでしょうか」


 賞与一回なら、なんとか三百万といったところだ。


 次の職場を探すまでの腰かけとしては、悪くないように思えた。


 失業保険でのんびりくらすか、ここで心機一転して働くか。


 悩む真理に、青年が告げる。


「ここで働くなら、コーヒーの淹れ方もお教えできますよ。

 昼食も賄いで出せますし、案外お得なんです」


「……昼食だけ?」


 青年がクスリと微笑んだ。


「夕食もお望みなら、食べていって構いませんよ」


「……少し考えさせてくれる?」


「ええ、構いません。ごゆっくりどうぞ」


 青年は笑顔でカウンターに戻っていった。


 薄く鳴り響くサックスの音色を聞きながら、コーヒーに口を付ける。


 静かな苦みと豊かな香りを楽しみながら、真理は目の前の選択肢をどうしようか考えていた。



 コーヒーを半分飲み終わる頃、腹の虫が再び空腹を訴えた。


 真理はメニューの中から食べられそうなものを探していく。


 カウンターに振り向き、洗い物をしている青年に真理が告げる。


「――ちょっとオーダー良いかしら」


「はい、少々お待ち下さい」


 青年が手を拭き、真理のテーブルへ近寄っていく。


「ナポリタン、それとサラダを」


「以上ですね? かしこまりました」


 青年がカウンターの奥に消えていく。


 その背中を見ながら、真理は考えていた。


 青年の顔は悪くない。面食いの真理ですらそう思うのだから、レベルは高い方だろう。


 店が繁盛している様子はないが、腰かけなら潰れても構うこともない。


 一年くらい働ければ御の字、それで年収三百万なら、次を探す猶予も作れる。


 切り詰めて生活すれば、貯金だって作れるだろう。


 失業保険でカツカツの生活をするくらいなら、ここで働く方がマシに思えた。


 銀のトレーに料理を乗せた青年が、静かな足取りで真理のテーブルに近寄っていく。


「お待たせしました」


 目の前に置かれたナポリタンからは、空腹を刺激する匂いが漂ってくる。


 真理はフォークを手に取ると、サラダに突き刺し、レタスを口に入れた。


 新鮮なレタスを味わいながら、ナポリタンをフォークに絡めて口に運ぶ。


 独特な風味に驚いて、真理がカウンターの青年に尋ねる。


「これ、ナポリタンじゃないの?」


「当店自慢のナポリタンです。

 父の代から受け継いだ、秘伝の味ですよ」


 甘いトマトの酸味とコクが混じり合い、空腹をさらに刺激していく。


 粉チーズとも相性が良く、真理はあっという間にナポリタンを食べ切っていた。


 一息ついてコーヒーを飲み干した真理が、青年に告げる。


「ねぇ、コーヒーのお替りをもらえる?

 ――それと、求人についてもう少し詳しく聞かせて」


 青年が嬉しそうに微笑んだ。


「ええ、喜んで」





****


 青年と会話しながら、真理は彼を観察していった。


 日本人離れした顔立ちと言われれば、そうかもしれない。


 落ち着いた声音は、心を不思議と穏やかにしてくれる。


「ねぇ、このお店って忙しいの?」


「それほどでもないですよ。

 休日は少し、人が多いくらいです」


 真理は眉根を寄せて尋ねる。


「雇われてすぐに潰れるとか、さすがに嫌なんだけど」


「ハハハ! その心配はいりませんよ。

 これでも黒字経営なんです」


 昼時でも店内に客がいない店に目を走らせ、真理は困惑した。


 どうやって採算を取ってるというのだろうか。


 青年が穏やかに告げる。


「以上が条件ですが、ご質問は?」


「……特にないわ。

 いつから雇ってもらえるのかしら」


「なんなら、すぐにでも――今、書類を持ってきますね」


 真理は一息ついて、少し冷めたコーヒーに口を付ける。


 冷めても美味しいコーヒーに、わずかに驚いた。


 ――マンデリン、とかいったっけ。覚えておこうかな。


 青年が戻ってきて、テーブルの上に書類を広げた。


「こちらに必要事項を記入して提出してください。

 ――ああ、言い忘れてましたが、僕が店主の千石拓海です。よろしく」


「村上真理よ。よろしく。

 千石さん、あなた混血ダブルなの?」


 青年――拓海が気恥ずかしそうに微笑んだ。


「ああ、この目ですか?

 先祖が外国人だったんじゃないかと聞いてます。

 祖父も目の色が違ったそうですよ」


 ――なるほど、一応日本人なのか。


 真理が書類をバッグにしまっていると、カランコロンとドアベルが鳴り響いた。


 そちらに目をやると、和服を着た女の子が笑顔で拓海に告げる。


「マスター、ブレンドもらえるかの?」


 拓海は席を立って「喜んで」とカウンターに戻っていった。


 カウンター席に上るように座った少女を、真理は不思議な気分で見つめて居た。


 京都や奈良でもあるまいし、和服で出歩く子供がいるとは思わなかった。


 少女が真理に振り向きながら告げる。


「拓海、あの娘は誰じゃ?」


「村上さんだよ。今度から働いてくれる人さ」


 じろじろと真理を見つめてくる少女に、真理は不快感をあらわにしながら告げる。


「ちょっとお嬢ちゃん、大人を不躾に見るものじゃないわよ」


 少女は楽しそうに微笑んだ。


「従業員なんじゃろ? ならばおんしは、儂の部下じゃ。

 査定して何が悪かろうか」


 古風な少女の言い回しに、真理は面食らいながら応える。


「部下って……どういうこと?」


 少女がニヤリと笑った。


「儂がオーナーの日下部優美じゃ。

 拓海の上司だと思っておけ」


「――ちょっと待って?!

 子供がオーナーって、どういうこと?!」


 少女――優美が目を細めて応える。


「ここは『座敷童』が経営する喫茶店。

 儂が居る限り、この店は潰れんよ。

 安心して労働に励むがいい」


 真理は呆然としながら、微笑む優美の顔を見つめていた。

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