2話 出逢い


 それから数年後。

年月が流れて、当時21歳の大学生だった響は30歳になっていた。

当時、姉の死のショックのせいで体調を崩してしまった母親に代わり、響は大学を辞めて地元を離れた他県にある鉄鋼工場に就職した。


働きに出たばかりの頃は、母の事は叔母に任せきりだった。

今現在、体調が回復した母は以前のように仕事に復帰している。

それでも響は月に一度、必ず仕送りをしていた。


「ふぅ…」


 仕事を終えた響はいつものように自宅アパートのベランダに出て、一服する。

大きな道路を挟んだ向かいにそこそこ高いマンションが立っている。

 2年ほど前に建てられた比較的新しいマンションだ。

響が住み始めた頃はそこは更地で月がよく見えたものだが、今はろくに見えない。

 響はそれでも垣間見える夜空を飽きずに見上げる。

夜空を少しばかり引っ掻いたような薄い三日月がぼんやりと浮かんでいる。

その仄かな月明かりに照らされたマンションの屋上。

そこに人影があった。


「ん…?」


 違和感がして、響はよく目を凝らす。

やや高くなった淵の上に人が佇んでいる。

シルエットになって顔は分からないが、風に揺れる長い髪と華奢な背格好からすると、どうも女性らしい。

夜風に当たりに来たマンションの住人だろうか。

それにしては今にも落ちそうなほど淵のぎりぎりの位置に立っていた。

嫌な予感が現実を帯びるように、女性の靴先はせり出した淵からじりじりと離れていた。


「おい…マジかよ…」


 思わず、声が出た。

その拍子に口に加えていたタバコがベランダの床に落ちる。


「…たくっ!」


 舌打ちをした響は、慌てて部屋を飛び出した。






「ああ…本当についてない…全然良いことないし…なんで私生きてんだろう」


 女性は下を見ながら、無気力に呟いた。

女性が片足を完全に宙へ投げ出そうとすると、間一髪やって来た響が後ろから彼女の腰に手が回して、思いっきり後方へ引いた。


「きゃ!」


 そのまま二人は後ろに倒れ込んだ。


「いってぇ…。おい!何やってんだよ!!」


 女性を抱きかかえて、コンクリートに尻餅をついた響は痛みに顔を顰めながら怒鳴り声を上げた。

 あまりの剣幕に、女性は抱きしめられた姿のまま小さく身を縮こまらせた。


「……ご、ごめんなさい!」


 そしてやっと我に返った女性は、うっすらと目に涙を溜めながら謝ってきた。


「『ごめんなさい』じゃねぇ!!てめぇよ、自分の命だからってやって良いことと悪いことがあんだろうよ!ここまで育ててくれた親に申し訳ねぇって思わねぇのか!?」

「……そ…それは……思います…」


 女性が泣いていても関係ない。

響の怒気をはらんだ言葉に、女性は弱々しく返した。


「てめぇを1人前に育てるのに親がどんだけ苦労したと思ってんだ!!今何歳になるか知らねぇが、こんな一瞬で死なれたら親が不憫ふびんで堪らねぇよ」

「…はい……すみません…」

「ったくよ……」


 謝ってばかりの女性の煮え切らぬ様子に、響は苛ついて自身の頭を乱暴に掻いた。


「おい、あんたら、こんな所で何してるんだ」


 背後から照らされた響がすぐに振り返る。

そこには管理人らしい年配の男が懐中電灯を片手に持ち、不審者を見るように胡乱な視線を送っていた。

密着した状態の今の二人は、どう見ても『親し気なカップル』にしか見えない。

 管理人は露骨な深い溜息をついた。


「いちゃつくなくなら、自分の部屋でやってくれよな」

「ち、違います!!」

「ああ…すんません」


 管理人に誤解されたと気づいた女性は慌てて立ち上がった。

それとは対照的に響は弁解するのが面倒になって、なんの反論することもなく、のそっと立ち上がってズボンの汚れを手で払った。

 

結局、管理人からここから出るように促された響達は、大人しく屋上から出た。




「本当にすみませんでした…ご迷惑をおかけしてしまって。仕事うまく行かなくって…彼氏にも振られちゃって…自暴自棄になってました」


 近くの公園の自販機前に二人は移動した。

響から奢ってもらったペットボトルのお茶を両手で包み込むように持ったまま、女性は沈んだ声で謝罪する。


「くだらねぇ理由だな」


 そんな女性の言い分を、響は有無言わさずバッサリと切り捨てる。


「そうですよね…どうかしてました…」


 ぐうの根も出ずに、女性はただ俯く。


「あんた、名前は?」


 また謝られて堂々巡りは御免だ。

何気なしに名前を聞いた響に、女性は目を大きくさせた。


「え?……あ…明日香あすかです」


「ふーん」


 自分で聞いておきながら、響は興味なさげな返事をする。


「あの…貴方の名前を伺っても…いいですか?」

「響」




 しばらく、二人の間になんとも言えぬ気まずい空気が流れた。


「…俺の姉、25歳の時に死んだんだよな」


 気がついたら、響はそう話を切り出していた。


「え…」

「まだ若いだろう?事故でな。…病院に運ばれた時は息があったけど脳の損傷が思いの外ひどくってな…医者から脳死の診断を受けたんだよ」

「…………」


 女性は口を開きかけた。

しかし言葉が出なかったのか、すぐに口を閉じる。


「でも、幸いなことに臓器に損傷がなかったんだ。だから姉の意思を汲んで臓器提供したんだよ」


 その言葉に女性は息をのんだ。


「姉貴は誰かのためになって死んだ。それは無駄死じゃねぇ。それだけが救いだな」


 響はそう言って、ペットボトルの水を一気に喉に流し込んだ。


「でもな、あんたがさっきしようとしたのは無駄死以外のなにものでもねぇよ。くだらねぇ理由で死ぬのだけはやめておけ」

「…はい」

「んじゃ、俺はもう帰るわ。朝早いし」


 響は空のペットボトルをゴミ箱に投げ込むと、スタスタと歩き始めた。


「止めて頂き、本当にありがとうございました」


 そんな響の後ろ姿に、明日香が深々と頭を下げた。




    ◇◇◇◇   ◇◇◇◇




 その日、いつものように仕事を終えた響はコンビニの袋を手に持って、家路に向かっていた。


「響さん!」


 突然呼び止める声に、響は辺りをキョロキョロと見渡す。

歩道橋の階段を下り立った明日香が、響の前にやって来た。


「…あんたか」

「この前は…ええっと…ご迷惑をおかけしてしまって……本当にすみませんでした!」


 前にも聞いた台詞に、響は内心うんざりした。


「別に」


 仕事帰りで疲れ切っているせいもあって、響のテンションはいつもより低かった。

素っ気ないのは通常運転であるが、それを知らない明日香は少し戸惑ったように視線を彷徨わせる。


「それで…その…お礼をしたいんですが…」


 明日香は消え入りそうな声で言う。


「んなの、気にすんな」


 即座に断る響。


「いいえ!私の気が済まないので、一度だけでも食事を奢らせてください!!」


 明日香は勇気を振り絞って食事に誘った。


「そう言っても、俺、もう夕食買ってるんだわ」


 響は手に持っていた袋を、明日香に見えるように目線近くに掲げた。


「そ、それなら!明日にでも!!」


 明日香はめげずに誘ってくる。

奢ると聞いて悪い気はしないが、まったく乗り気がしなかった。


「お願いします!!」


 うまく断る言葉はないかと考えあぐねている響に、なおも明日香は食い下がってくる。

しばらく、不毛なやり取りが続き、響は仕方がなく自分が折れることにした。


「…わかった」


 そう答えると明日香は顔を明るくさせた。


「良かった!では、明日の…この時間、ここで待ってますね!!」

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