紡ぐ心音のしらべ

甘灯

1話 姉の選択

ひびき、これ見てよ!』


 長期休みで帰省してきた姉は、帰って来て早々に自慢げにある物を見せてきた。

ソファで寝そべっていた響は気怠けだるそうに上体を起こして、それを受け取る。


『運転免許の一発試験って合格率かなり低いんだろう?姉貴よく受かったな』

『ちょっとそれ、どういう意味よ!』

『…褒めてるだけじゃん』


 急に怒りだした姉にやれやれと思いながら、響は真新しい運転免許証をしげしげと見た。


(証明写真ってマジで写り悪いんだな)


  姉に言ったら更に怒らせることになるので、響は内心思うだけに留めた。

 何気なく裏面をひっくり返すと、そこに書いてある【臓器提供意思表示】の欄が目に止まった。

 空欄部分は既に埋められている。


それ・・ね、日本は臓器提供しようとする人がとても少ないのよ。仕組みをよく知らないから、関心が無いとかの理由が多いらしいけど…。響、あんたは臓器提供するために必要な条件ってなんだか知ってる?』

『条件ってこれだろ?…臓器提供の同意を証明したやつ』


 響は持っていた姉の運転免許証を軽く掲げながら答えた。


『あんた、ちゃんとその内容を理解してる?』

『…え』


 詰めるような姉の問いに、響は言葉を詰まらせた。


『…「脳死後及び心臓が停止した死後の移植のための臓器を提供…」ってあるでしょ?生体移植は生きた人から臓器を提供されるんだけど、それができない臓器…例えば心臓の場合だと脳死した人からの提供になるのよ』

『脳死って…脳がまったく機能してない、寝たきり状態のことだよな?』


 響が確認するように尋ねるが、姉は大きなため息をついた。


『……あんたは脳死って植物状態と一緒だと思ってる?脳幹が生きて機能している植物状態とは違って、脳死は脳幹を含めた脳全体が機能を失っている状態なの。だから回復する見込みはまずない。脳幹って司令塔のような役割を果たしてるから、それが機能しないとなると指示を受けられない・・・・・他臓器の機能も低下していって、最後には完全に失ってしまうものなのよ。例え人工呼吸器をつけたとしても数日で亡くなることになる』

『そ、そうなのか…そのままの意味で脳だけ機能しなくなることだと思っていた』


 無知すぎて響は、恥ずかしくなった。


『……で、さっきの話に戻るけど意思表示と脳死が臓器提供するための条件なのよ。あ、そうそう、国によっては脳死の診断する基準が少し違うのよ。海外の多くは人の死として脳死の診断をされるけど、日本の場合は臓器提供をする前提がない限りは脳死の診断はされないの』

『……あんまし、言ってる意味が分かんねぇ』


 響は正直に告げた。

今度は呆れた様子もなく、姉は真剣な顔をして言う。


『脳死は人の死と同義なの。それは理解できたわね?』


 響はコクっと頷いた。


『要は臓器提供をするためには生きた状態・・・・・で『死の診断』をされる必要があるのよ。そういう状態じゃないと心臓移植の場合なら話が先に進まないでしょ。だから日本では臓器提供をする場合にまず脳死の診断を受けるのよ…今の現状では最終的に脳死の診断を受けさせるか、否かは当事者の家族に委ねられてる状態なんだけどね』

 

 姉の最後に言った言葉に、響は言葉を失った。

つまりは家族が死ぬ判断は下すことになるのだ。

それはあまりに残酷な話である。


『…臓器提供を考えてみて、他人に自分の臓器を譲るって抵抗がある人はいるし、そんな背景・・もあるから本人が良くても家族がしたがらない場合も多いのよ。それにあんたみたいにきちんと理解してない人もいるから日本の臓器提供者は本当に少ないわね』


 なんだか責められた気がした響は、居住まいを正した。


『そうだな…姉貴が言ってくれるまでなんも知らなかった』

『……私は何も知らないからって救える命が奪われてしまうのが嫌なのよ。私は臓器提供についてきちんと理解している上で志願しているわ』


 そう言って姉は、響から運転免許証を奪い取った。


 姉は医療従事者だ。人を救うことに使命感を持つ姉らしいと言えば姉らしい言葉だと思った。


『だから仮に私が脳死の状態になったら、臓器提供はさせてほしい』


 姉の決意表明に、響は何も言い返せなかった。


『でもまぁ、実際これが役に立つ状況はまず来ないと思うけどね』


 そう言い終えると、姉は響に笑いかけた。





    ◇◇◇◇   ◇◇◇◇






(姉貴、そうは・・・言ってたけどよ。まさかの状況になったよ)


 ひびきは心の中で姉に語りかけると、テーブルの上で組んだ自身の指にグッと力を入れた。

向かい合わせに座っている母は傷心しきった顔のまま、静かに俯いている。

 片親の辛さを微塵も感じさせないほど、いつも明るく振る舞っていた母親。

 そんな母親の悲痛な顔を一度も見たことなかった響は居たたまれない気持ちになって、再び自身の手元に意識を向ける。

 

 姉が交通事故に遭い、危篤だということは、親族と姉の親しい関係者たちには既に知らせている。

 今、待合室にいるのは響と母だけ。父親の姿はない。

 父親は、響がまだ小学校低学年だった時に、家を出て行ったきり、行方知らずになっていた。

 父はろくに働きもせずにいつも家に居て、パート勤めだった母からお金をせびっては、パチンコに出掛けていくような、ろくでなしだった。

 ギャンブルの借金があり、もしかしたら家族を捨てて自分だけ逃げようとして、取り立てに捕まり、借金返済の為に過酷な遠洋漁業へ放り込まれたかもしれない。

 散々、母に苦労ばかりかけてきたクズな父親だ。

今どこにいようが、生きていようが死んでいまいが響は正直どうでも良かった。


(……姉貴だって、今更会いたいって思ってねぇよな)


 父親の事を考えると、無意識に組んでいた手を解き、きつく拳を作っていた。


ーもし、ここにひょっこりと父親が姿を現したら、その顔面ツラを殴りかねない。


 そんなことを思いつつ、響は心を落ち着かせようと自身の拳の上にもう片手を重ねるように置く。

そして深く息を吐き出しながら、握った手の甲をそっと撫でた。


「そろそろ…2回目の判定検査の時間ね…」


 母の疲れきった声に、響は弾かれたように壁時計を見た。

それとほぼ同時に、待合室のドアが控えめにノックされた。




 医師二人が立ち会いのもと、ベッドで横たわっている姉の2回目の脳死の診断が下された。

それを聞いた途端、母は姉の上半身にすがりついて、声を上げて泣き出した。


 『心臓が止まるまでの数日間を延命措置で命を繋ぎ止めるか、それとも臓器を提供をするか』


 脳死状態の姉を診察した医師から、そんな厳しい決断を迫られた。


 姉が臓器提供を希望していたことは運転免許証の意思表示の欄と姉本人から聞いていたことだったので、確たる意思があると判断された。

 

 そして響たちもまた姉の意思を尊重することに決めて、臓器提供に同意した。

 

 それでも目の前の姉はまだ生きている状況だ。

それなのに死の宣告をされるのは、以前姉が言ったときに思った感情よりもなお辛く、そして受け入れ難いものだった。

 嗚咽を漏らす母の姿を見るのはとても辛い。

それでも、今は自分がしっかりしないといけない。


 響は姉に泣きつく母の両肩をそっと掴んだ。

そして少し引くように姉の身体からゆっくりと母を引き剥がす。


 響は最後に姉の眠る顔を無言で見つめた。


「…お願いします」


 響はそう言って、医師達に頭を下げると母を支えながら処置室を出た。




 それから一年。

 姉の一周忌が終わった頃に移植を受けた患者から一通の手紙が届いた。


 ドナー家族と移植を受ける人『レシピエント』が直接会うことは出来ない。

その代わり、レシピエント側からドナー家族へ間接的に手紙を渡すことは容認されていた。


 ドナー家族にとって、亡き家族の臓器を移植された患者への関心は高い。

 直接、移植された患者に会いたいと願う人達は多いだろう。

 今後の彼らの人生に関わり、側に寄り添いたいという気持ちもあるに違いない。


 しかしレシピエント側にとって、それが大きなプレッシャー・・・・・・になることだってある。


 お互いに「どんな人なんだろう」という関心はあっても、過度な関わり合いにならない方がいい事もある。


 『会えない』という決まりは賛否両論あるが、響はそこに関してあまり関心が湧いてこなかった。


 届いた手紙から分かったのは、姉の心臓を移植されたレシピエントの年齢が10代後半だということだけだった。

丸みのある可愛らしい自筆の文字を見ると、なんとなく女性さを感じられた。

 手紙を読んでも内容がまったく頭に入ってこず、こんな感想しか出てこない自分は、薄情者なのかもしれない。


ーそれとも姉の死を受け止めきれずに、他人事のように思ってしまっているだけなのだろうか

 

その一方の母はその手紙を読んで、泣いていた。


(いつか、俺も泣ける日が来るのか…?)


 響は姉が死んで以来、一度も泣くことが出来ないでいた。


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