第7話 束の間の一息

すばるは、学校での変化を少しずつ実感し始めていた。毎日のように続いていた恐怖と不安の中で、少しだけ希望の光を見つけた気がしていた。それは、麻子先生との関わりがきっかけだった。


麻子先生の温かい言葉に触れることで、すばるは少しずつ心を開くようになり、以前のように閉じ込めた感情を少しずつ出すことができるようになっていた。しかし、それでも彼の中にはまだ恐れがあった。家庭での暴力や母親の過干渉が続く中、学校で感じる安心感がどれだけ長く続くのか、すばるには分からなかった。


その日の放課後、麻子は職員室で雑務をこなしていた。だが、ふと目の前を通り過ぎるすばるの姿を見つけ、彼の顔に浮かぶ複雑な表情に気づいた。


「星宮君。」


麻子は穏やかな声で声をかけた。すばるはその声に驚いたように振り返り、少し躊躇いながらも足を止めた。


「麻子先生……。」


「ちょっと話せるかな?」麻子は柔らかな笑顔を見せ、すばるに向かって手招きした。


すばるは少し躊躇したものの、最終的に歩み寄ることに決めた。麻子先生の存在は、すばるにとって安心できるものになりつつあった。


麻子はすばるに隣に座るよう促し、カバンから紙を取り出した。すばるはそれに気づかぬまま、無意識に手を組んでいた。


「最近、どうだい?学校では少し元気に見えるけど。」


麻子の言葉に、すばるは少し戸惑ったように肩をすくめた。


「特に変わったことはありません。ただ……少しだけ、話しやすくなったかもしれません。」


その言葉に麻子は、優しく頷いた。彼が少しずつ心を開いていることに気づいていた。


「それだけでも十分だよ。」麻子は静かに言いながら、すばるを見つめた。彼の目からは、まだどこか遠くを見ているような寂しさが感じ取れた。


「すばる君、学校では楽しいこともあったんじゃないか?最近、少しだけでも笑っているような顔を見た気がするけど。」


その言葉に、すばるは微かに眉をひそめた。麻子先生が言うように、最近、学校で少し笑った記憶がある。しかし、それが本当に自分から湧き出たものなのか、あるいはただの表面的なものだったのか、すばるにはわからなかった。


「……笑っていたんですかね。」すばるはぼんやりとした声で言った。


麻子は静かにすばるの言葉を受け止め、軽く息をついた。


「笑顔って、誰かの心に少しだけ変化を与えるんだよ。君が笑うことで、他の人たちにも少しずつ、違った印象を与えることができるんだ。」


その言葉に、すばるは少し驚いたように顔を上げた。麻子の言葉には、無意識のうちに心を動かされる何かがあった。


「でも、家庭のことはどうしても話せないんです。」すばるは小さく呟いた。


その言葉に麻子は静かに頷き、少し間を置いてから言った。


「分かるよ。家庭の問題は簡単に他人に話せるものじゃない。でも、もし話したいと思った時には、いつでも話してほしい。私は、君がどう感じているのかを無理に聞こうとはしない。ただ、君が話したいと思うその時に、いつでも聞く準備はできているから。」


その言葉に、すばるは心の中で少しだけ温かさを感じた。


「ありがとうございます。」すばるはその言葉を呟くと、目をそらして少し照れたように笑った。


麻子は微笑みながら言った。


「君が話したいことがあるなら、それを話すことができる場所はあるよ。急ぐ必要はないし、無理に話さなくてもいいんだ。ただ、自分がどんな気持ちを抱えているのか、少しずつでも分かってくれるといいな。」


その言葉は、すばるの心の奥に響いた。麻子の優しさとその思いやりが、すばるを少しずつ楽にしてくれる気がした。


「私は、君がどんなに辛い思いをしていても、それを抱えていくことができる力を持っていると思う。」麻子は続けた。「すばる君には、必ずその力があるから。」


すばるはその言葉にしばらく黙っていた。そして、少しだけ目を閉じ、再び麻子に目を向けた。


「でも、僕……自分に自信がなくて……。」すばるは言葉を選びながら続けた。「今まで、何もできなかったから。」


麻子は優しく頷いた。


「君は、何もできないわけじゃない。君が今まで歩んできた道、そして今こうして少しずつ前に進もうとしているその姿勢が、君の力だよ。」


その言葉が、すばるの心にじわじわと染み込んでいった。麻子の言葉は、彼が長い間持ち続けていた自信のなさを少しだけ覆い隠すように、少しずつ形を変えていくようだった。


「君は、本当に素晴らしいんだよ。」麻子は続けて言った。「自分の力を信じて、少しずつでも前に進んでいけば、必ず変わる日が来るから。」


その言葉に、すばるは静かに頷いた。自分にはまだ力があるんだということが、少しずつ感じられるようになった。

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