異世界は親子の顔をしていない
青砥尭杜
第1話 聖人の投降
男の脳裏に浮かんだのは息子の顔だった。
この異世界に来てから産まれた娘の顔ではなく、元の世界で成長しているであろう五歳までの姿しか知らない息子の顔。
男は自嘲した。
父親らしいことを何もしてこなかった自分がこんな時にだけ息子を思うなど虫がよすぎる、と。
小高い丘の上に張られた天幕の中に男はいた。
ミズガルズ王国の国旗が掲げられた天幕は、本陣としてその戦場にあった。
「ダイキ
ダイキと呼ばれた男は、自分の身を常に案じてくれる青年の切迫した声で我に返った。
人払いが済んださほど広くもない天幕の中には、ダイキと青年しかいなかった。
長身の青年はダイキと揃いの純白の軍服を身に
とうに中年となってしまった自分が失って久しい、若さのきらめきを感じさせる青年に憂いは似合わないとダイキは思った。
「フォレスター卿とインプレッサ卿は?」
「遺憾ながら……」
「そうか……あの奇跡の親子が、こんなところで……アルテッツァ卿。俺はやっぱりお飾りの筆頭だったみたいだ……」
ダイキが吐露した弱気に、アルテッツァと呼ばれた青年の整った眉がぴくりと反応する。
「ダイキ卿。
アルテッツァの叱責を、大希は素直に受け取った。
「いつでも温厚な卿を怒らせちまった……すまない。そうだな……俺には、まだやるべきことがある……」
ダイキが簡素な椅子から立ち上がった、その時だった。
本陣たる天幕の周りにはべていた側近の兵士たちが、ほぼ同時にどさりと倒れる音がダイキの耳に届いた。
不穏に反応したダイキの皮膚が粟立った瞬間、何者かが天幕に侵入した。
ダイキの目で捉えられる速さではなかった。
天幕の中に黒い影が侵入した、ダイキが認識できたのはそれだけだった。
「見つけたぞ」
場違いに若い侵入者の声。
声の主は未だ少年の無邪気すら残香する若い男だった。
風属性魔法であるクッレレ・ウェンティーで加速している金髪碧眼の男は、漆黒の軍服を身に纏っている。
突如として現れた侵入者に反応したアルテッツァが、ダイキを
「グラディウス・ウェ……」
アルテッツァの魔法詠唱を
「ラーミナ・ウェンティー」
と魔法詠唱を終わらせる。
侵入者がみせた詠唱の異常な速さに、ダイキは目を見張った。
精神を集中させイメージを伝えるのに必要となる時間を無視したような速すぎる詠唱。
侵入者が発動した風属性魔法は、鋭利な風の
瞬時にアルテッツァが左腕を犠牲とする決断を下す。
風の刃を殴り付けたアルテッツァの左前腕部が吹き飛び、軌道の逸れた風の刃が天幕の天井を突き破る。
「ぐがあぁぁぁ……」
ほとばしる鮮血とともに左前腕を失ったアルテッツァが悶絶を必死に堪える。
気を失うわけにはいかぬという強い気根だけを支えとし、凄絶な痛みと大量の出血による意識の混濁に抗ってアルテッツァは立ち続けた。
「へえ、見上げた気骨だ。だけど遅い。ラーミナ……」
「待てっ!」
侵入者が再び魔法を詠唱しようとするのを遮る声を張り上げたダイキは、アルテッツァを庇うようにして前へ進み出た。
「俺はダイキ・アナン。ミズガルズ王国代表魔道士団トワゾンドール魔道士団の筆頭で総大将だ」
ダイキの名乗りを平然と聞く侵入者が口を開く。
「ああ、分かってるよ。聖人様だろ。陛下のお目当ては卿だからな。オレはラブリュス魔道士団の第七席次、ティーダ」
「そうか……卿がティーダ卿か。目当てが俺なら、これで終わりだ」
ダイキが投降の意思を示すと、ティーダは軽くうなずいてみせた。
「いいだろう。自分の立場を良く理解してる。卿に免じて、これ以上の殺生は
微笑を浮かべたティーダが投降を受け入れる。
「い……いけません……!」
アルテッツァが苦悶を裂いて声を絞り出すと、声に振り返ったダイキが、
「すまん。でも、分かってくれアルテッツァ卿。ここで卿まで死なせちまったら、俺は自分の無力に耐えれなくなる」
とアルテッツァに微笑みかけた。
「ダイキ卿……」
アルテッツァの絞り出すか細い声に無念が滲む。
二人の様子を微笑を浮かべたまま見ていたティーダが、アルテッツァの左胸に標された真紅の数字を確認してから声をかけた。
「第四席次ってことは、卿がアルテッツァ卿か。卿はいい上官に恵まれたな」
ティーダの軽い口調に、ダイキが振り返る。
「最後に治療だけ、させてはもらえないか」
「いいだろう。オレも聖人の
ダイキの申し出に悩むことなくティーダは即答した。
「感謝する」
ダイキはティーダをまっすぐに見つめたまま短く謝辞を伝えると、アルテッツァに向き直って前腕が失われた左腕に、自分の右手をかざした。
「アイディフィカーテ」
ダイキが静かに詠唱する。
ぼんやりと発光するダイキの右手から、無数の
すぐさま出血が止まり、金色の粒子が徐々に失われた前腕を形づくっていく。
金色の粒子で形成された前腕がゆっくり肌色へと変化し、アルテッツァの左前腕がもとの状態を取り戻した。
「ミズガルズを頼んだ、俺が戻ることはもうないような気がする。ドルミーレ」
ダイキはアルテッツァに語りかける言葉を、魔法の詠唱で締めくくった。
「ダイ、キ……きょ……」
アルテッツァは気を失うように眠りに落ちた。
倒れ込むアルテッツァを抱きとめたダイキが、アルテッツァをそっと地面に寝かせる。
ダイキの治癒魔法による治療の光景を凝視していたティーダが、ダイキの背中に声をかける。
「眠らせたのか?」
「ああ、こうでもしないとアルテッツァは諦めないだろうからな……」
ダイキの返答を聞いたティーダは感心を隠さず表情に表した。
「そんな芸当もあるのか。いや、しかし凄いな……欠損まで修復するのか。これが治癒魔法、聖人の、いや聖魔道士の力ってわけだ。陛下が執心するだけのことはある」
ティーダが口にした陛下という言葉にダイキは反応した。
「セナート帝国のミズガルズに対する宣戦布告は、この力だけが目的だったのか?」
「それは陛下に直接聞くといい。長居は無用だ。行こうか」
「分かった……」
小さく首肯して立ち上がるダイキに対して、ティーダが感想を口にする。
「ダイキ卿。卿は公爵だと聞いてたが、卿からは貴族っぽい匂いがしないな」
「ああ、俺は庶民だったからな。閣下なんて呼ばれるのは未だにしっくりこない。さすがに十三年も魔道士をやってると、卿と呼ばれるのには慣れたけどな」
「召喚されし者、か。卿がいた世界ってのは、どんな世界だったんだ?」
意外な問いだとダイキは思った。
「なんだ。興味があるのか?」
「オレは好奇心が旺盛でね。その好奇心には逆らわないようにしてる」
ニヤリと笑ってみせるティーダの若々しい感覚の発露に魅力を感じる自分を、ダイキは否定できなかった。
「そうか……卿とは、違う出会い方をしたかったな」
ダイキの言葉にティーダがハハッと短く笑う。
「まあ、そう言うな。オレも庶民の出なんだ。卿とは気が合いそうだし、長い付き合いになりそうだ」
ティーダが口にした楽観的な予感には、うっすらとした根拠が含まれているようにダイキは感じた。
「俺をどうする気なんだ? 皇帝シーマ、陛下は」
「他国からは畏怖を込めて魔王なんて呼ばれてるが、臣下にとっては理想的な君主だよ、うちの陛下は。まあ、会ってみれば分かるさ」
「……そうか」
ティーダとともに天幕を出たダイキが、最初に見たものは死体だった。
側近の兵士たちが無惨な亡き骸となって倒れている。ある者は首を刎ねられ、ある者は上半身とか下半身が分かれて地面に転がっていた。
(こんな光景を見るために俺は、この世界に召喚されたのか? この惨状は回避できなかったのか……そもそも俺が、この世界に召喚されてなければ……)
ダイキの胸の内で後悔よりも疑念に近い感情が湧く。
表情を強張らせたダイキを横目に見たティーダが軽い口調で言葉をかけた。
「卿は奇跡的にミズガルズって島国で平和を享受してたみたいだけどな、オレにとってはこれが日常だ。テルスの大半もそうだろうさ」
ティーダの感覚がこの世界でのスタンダードな感覚なのだろうと思ったダイキは、これまでの平和な時間をどこか遠くに感じた。
ダイキにとっては異世界であるテルスと呼ばれる世界は、激動の時代を迎えていた。
テルス聖暦一八八七年九月。
ミズガルズ王国がのちにペアホース防衛戦と呼んだ戦闘は、総大将であったダイキの投降により、わずか四日でその幕を閉じた。
戦場となったペアホースという国境の島から、大陸の覇権国家であるセナート帝国の軍は即時に撤退。
ミズガルズ王国が速やかに和睦を申し入れると、ダイキの身柄返還要求のみを拒否したセナート帝国との間に和睦は成立した。
ダイキの息子が異世界テルスに召喚される二年前の出来事である。
異世界は親子の顔をしていない 青砥尭杜 @i10mo10mo10i
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