鏡の中へ

遠藤みりん

第1話 鏡の中へ

 私はある違和感に悩まされている。その違和感はひどくぼんやりとしていて、決してその正体を明かすことはない。


 何をしてもどうにもしっくりこない。微妙に狂った調律のピアノを延々と聞かされているようだ。


 この違和感はいつからだろう?もしかしたら、幼い頃からすでに感じていたのかもしれない。


 そのぼんやりとした違和感は平凡で何も刺激のない退屈な私の日常を表すようにも感じられた。


  朝、いつものように目を覚ますと洗面台に向かい鏡を覗く。

 そこには日常に絡みつく違和感に疲れ果てた私が私を見つめていた。

 毎日、同じように化粧をして会社に出かける。

 何度も何度も繰り返される平凡で変わらない毎日。起きているのか眠っているのかわからない。 

 生きている実感の沸かない毎日。更にそれは違和感という薄い皮膚で覆われて、今にも窒息してしまいそうだ。


 その違和感は、時として急激に私にその存在をアピールしてくる。


 例えば食事の時、右手に持っているスプーンに違和感を感じてしまう。決して使いにくい訳ではない。私は本来、右利きなのだ。試しにスプーンを左手に持ち替えてみると妙にしっくりとした感覚に包まれる。

 しかし、左手にスプーンを持ったまま料理を口に運んでみても、上手く食べることが出来ない。

 なんとも、矛盾した、もどかしい状態に頭が追いついて行かなくなる。


 車を運転するときだって、その違和感は私を襲ってくる。

 運転しようと車のドアを開けると、何故が助手席である左側を開けてしまうのだ。

 私の車は日本製であり、運転席は右側だ。ドアを開けて乗り込んで初めて気付くような事も2度や3度ではない。


 気晴らしにドライブで車を走らせると左側通行に何故が違和感に包まれてしまう。

 ここは日本だ、車は左側通行である。しかし、右側通行で走れたらどんなに気持ち良いだろう、そんな事を自然と考えてしまっている。


 以前、コンビニの駐車場から出る時に誤って道路を逆走したことがあった。

 走っている風景の違いからすぐに気が付きすぐに左車線へ戻った。

 幸い、車の通りも少なく大きな事故に繋がる事は無かった。

 脳、または精神的な病気なのではないかと疑問に思い、一度病院に行く事を決意した出来事だった。


 精神科に通い、医者の話しを聞きながらネームプレートを見て違和感に包まれる。

 内心、こんな所でもかと自分自身に呆れてしまった。

 名前は本来、左から右に読む事が普通だが、私にはそれがしっくりとこない。


 あれ、逆じゃなかった?右から左に文字を読む方がしっくりくる。一度考え出すと頭から離れなくなってしまう。


 医者はネームプレートばかりを凝視する私に怪訝そうな顔する。


「ストレスですね。よく睡眠を取り、休んでください」


 そう、ぶっきらぼうに呟き診察は終わった。薬を処方されたが曖昧な診断結果と医者の態度が気に入らないことから薬を飲むことはなかった。


 違和感は食事や運転の時だけではない。

 例えば本を読む時。

 例えば使い慣れた家電のスイッチ。

 例えばデスク周りの物の配置。


 上げていけばきりがない。生活における全ての事柄に違和感を覚えてしまう。


 ある日、いつものように化粧をする為に洗面台の前に立った。やはり、いつものように違和感に包まれる。まるで、自分が自分ではないようだ。


「もう、疲れた」


 私は思わず呟いてしまった。いつまでこの違和感に付き纏われるのだろう。

 鏡の中の自分はもう疲れ切った表情をしている。軽いパニック状態に陥った私の心臓は鼓動を早めた。


“ドク、ドク、ドク、ドク”


 私は右胸を抑えた。しかし鼓動は感じられない。私は心臓のある左胸ではなく、右胸を抑えていた。


(あれ?心臓って左側だっけ)


 私の鼓動は更に早くなり、激しく混乱した。もう一度、鏡を覗き込み、映し出した自分の顔を眺める。


「あぁ、そうか」


 私は、違和感の正体に気付いてしまった。この世界、全てが鏡の中のように反転してしまっているんだ。


 鏡を覗き込み、映し出された部屋の景色と現実の景色を交互に何度も見返してみる。

 

 違和感から抜け出す、答えが見つかった。


「ここは、私の居る世界じゃない。帰ろう」


 私は、鏡を見つめていた。鏡に指先を触れてみる。ひやりと冷たい感触が指先から伝わってきた。

 触れた指先が水面に入るように鏡の中に吸い込まれていく。

 指先から鏡の中へ入っていき、やがで掌から肘にかけて鏡の中へ飲まれていく。

 水の壁へ入るように私の体は鏡の中へ吸い込まれていった。なんとも心地よい感覚だった。


 鏡の中に入り込んだ私は、今までまとわりつく全ての違和感から解放された。


 本来の利き手、部屋の景色、右側で鳴る心音。全てがしっくりと馴染む、そうだ此処が私の世界なのだ。

 違和感から解放された喜びから自然と笑顔が溢れ出してくる。


「ただいま、私の世界」

 

 私は反転した鏡の世界で呟く。


 振り向き鏡を覗いてみると、違和感から解放されたであろう、あちらの世界の私が私を覗いていた。


 鏡越しの私たちは見つめ合い、そして微笑んだ。


 






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