エトワール、落ちた
悠井すみれ
第1話
神の愛し子、天国から舞い降りた天使。地上を照らす星、輝かしい至宝。
数々の名で称えられたジュディットは、今、僕の家で聖母をやっている。
それらはもはや人目に晒されることなく、長いドレスの下に慎ましく隠されている。
白鳥の翼や
憂いや悩み、死に至る悲劇もいくらでも演じたけれど、今のジュディットが浮かべるのはほぼ常に穏やかな笑顔だけ。満場の喝采を浴びて誇らしげに輝いた青い目は、今は家族だけに向けられて。
招かれた屋敷のサロンで、パーティ会場でシャンパンのグラスを手に取る時に。夫婦で出かけた劇場で。感嘆の溜息や囁きを聞くのはいつものことだ。
あのご婦人が、あの? そう、ジュディット・バロー。かつて舞台の上で跳んで、飛んで、舞って回って輝いた
それが、今ではロージェル伯爵夫人。あの、人の良さだけが取り得のような伯爵様の? いや、案外そういう素朴さが彼女のお気に召したのかも。天使だって人間だもの。女だもの。真摯な愛を捧げられて、心が動かないはずがない。
彼女の白鳥を見たことがある。若いからもてはやされただけさ。あのていど、大人になれば化けの皮が剥がれるものだ。無理に舞台に立ち続けるよりは、ねえ? 名声を汚さずに玉の輿、賢いじゃないか。
時に、無礼で不躾な言葉もある。子供たちの耳を塞ぎたくなることも。けれど、多くの場合、僕はそんな噂話を心地良く受け止める。何も気付かない聞こえない振りで、ジュディットの白磁の頬にキスをして。そうして、何度でも、天使を口説き落とすことに成功した奇跡を神に感謝する。星の輝きを間近に眺めることができる、その幸福に酔いしれて、天使を人間に戻したことを誇るのだ。
ジュディットはもう踊らない。だが、それがどうした? 彼女には僕らがいるじゃないか。優しく寛容な夫と、可愛らしく利発な子供たち。天から与えられた才能は、人間としての幸せを捨ててまで崇め奉らなければならないものか? そんなはずはないだろう。彼女は妻として母として、女性として人として、満たされている。僕が、満たしてあげている。
だから、これで良いじゃないか。どうしてまた踊りたいなんて言い出すんだ? 君は伯爵夫人なのに。ふたりの子供の母親なのに。もう何年トゥシューズを履いていない? 筋肉だって衰えて、関節も硬くなっているだろう。何より輝くばかりの瑞々しい若さを失っているのに。
止めてくれ。笑いものになるだけだ。君のために言っているんだ。ほかの連中も言ってただろう、神の子の舞踏を汚してはいけない。君は僕の妻だろう。愛しているんだ。子供たちもいる。
止めるんだ。そんなみっともないことは。
言葉を尽くして説得すると、ユディットは美しく微笑んだ。悲しそうでもあっただろうか。けれど、非を認めてくれたのだと思ったんだ。
「星は落ちるものだと知ってたわ。だから落ちる先を選べば良いと思ったの。私は賢い選択をしたと思ってた」
そうだ、君は賢明だった。賢明だったと、人生懸けて証明してあげるから。君は幸せだ。幸せなんだ。分かるよ、幸福は時に退屈だろう。僕だって刺激的な夫ではないだろう。そんな気分になることだってあるさ。今度、バレエを見に行こうか。君の友達は、今は教師なんだっけ。きっと、かつての君のように称えられる若い才能が続々と──
「燃え尽きたほうが良かったのね。流れ星みたいに」
ジュディットが僕を見た眼差しは、きっと天使が人間を見るそれだった。違う次元の、ひどく哀れで惨めなものを見る。どこまでも冷たく突き放した青い眼差しが。言い争っていた書斎の、バルコニーの、手すりを越えて。
金の髪が躍る。手がしなる。空中で一瞬だけ描かれたこの上なく完璧なアティチュード。僕が焦がれた
そうして、星は落ちた。ああ、彼女はまだ星だったのに。
僕が落とした。落としてしまった、輝ける星を。
エトワール、落ちた 悠井すみれ @Veilchen
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