エトワール、落ちた

悠井すみれ

第1話

 神の愛し子、天国から舞い降りた天使。地上を照らす星、輝かしい至宝。

 数々の名で称えられたジュディットは、今、僕の家で聖母をやっている。


 中国シノワの神獣のように、地に触れることさえないのではないかと思わせるほどの軽やかなポワントで舞った爪先。キューピッドの弓さながらに優美な緊張テンションをもってアーチを描く甲のライン。

 それらはもはや人目に晒されることなく、長いドレスの下に慎ましく隠されている。


 白鳥の翼や風の精シルフィードの羽根にも化した長くしなやかな腕は、今は空を翔けることなく僕の腕に添えられるか、そうでなければ子供たちを抱き締めている。僕に似てやんちゃなカロリーヌと、ジュディットの髪と目の色を受け継いだ澄まし屋のエドゥアール。僕たちの大切な宝物。


 憂いや悩み、死に至る悲劇もいくらでも演じたけれど、今のジュディットが浮かべるのはほぼ常に穏やかな笑顔だけ。満場の喝采を浴びて誇らしげに輝いた青い目は、今は家族だけに向けられて。


 招かれた屋敷のサロンで、パーティ会場でシャンパンのグラスを手に取る時に。夫婦で出かけた劇場で。感嘆の溜息や囁きを聞くのはいつものことだ。


 あのご婦人が、? そう、ジュディット・バロー。かつて舞台の上で跳んで、飛んで、舞って回って輝いたエトワール。幼いころから眩い才能の光で舞台を観客を圧倒した神域の踊り手。

 それが、今ではロージェル伯爵夫人。あの、人の良さだけが取り得のような伯爵様の? いや、案外そういう素朴さが彼女のお気に召したのかも。天使だって人間だもの。女だもの。真摯な愛を捧げられて、心が動かないはずがない。

 彼女の白鳥を見たことがある。若いからもてはやされただけさ。、大人になれば化けの皮が剥がれるものだ。無理に舞台に立ち続けるよりは、ねえ? 名声を汚さずに玉の輿、賢いじゃないか。


 時に、無礼で不躾な言葉もある。子供たちの耳を塞ぎたくなることも。けれど、多くの場合、僕はそんな噂話を心地良く受け止める。何も気付かない聞こえない振りで、ジュディットの白磁の頬にキスをして。そうして、何度でも、天使を口説き落とすことに成功した奇跡を神に感謝する。星の輝きを間近に眺めることができる、その幸福に酔いしれて、天使を人間に戻したことを誇るのだ。


 ジュディットはもう踊らない。だが、それがどうした? 彼女には僕らがいるじゃないか。優しく寛容な夫と、可愛らしく利発な子供たち。天から与えられた才能は、人間としての幸せを捨ててまで崇め奉らなければならないものか? そんなはずはないだろう。彼女は妻として母として、女性として人として、満たされている。僕が、満たしてあげている。


 だから、これで良いじゃないか。どうしてまた踊りたいなんて言い出すんだ? 君は伯爵夫人なのに。ふたりの子供の母親なのに。もう何年トゥシューズを履いていない? 筋肉だって衰えて、関節も硬くなっているだろう。何より輝くばかりの瑞々しい若さを失っているのに。


 止めてくれ。笑いものになるだけだ。君のために言っているんだ。ほかの連中も言ってただろう、神の子の舞踏を汚してはいけない。君は僕の妻だろう。愛しているんだ。子供たちもいる。


 


 言葉を尽くして説得すると、ユディットは美しく微笑んだ。悲しそうでもあっただろうか。けれど、非を認めてくれたのだと思ったんだ。


「星は落ちるものだと知ってたわ。だから落ちる先を選べば良いと思ったの。私は賢い選択をしたと思ってた」


 そうだ、君は賢明だった。賢明だったと、人生懸けて証明してあげるから。。分かるよ、幸福は時に退屈だろう。僕だって刺激的な夫ではないだろう。そんな気分になることだってあるさ。今度、バレエを見に行こうか。君の友達は、今は教師なんだっけ。きっと、かつての君のように称えられる若い才能が続々と──


「燃え尽きたほうが良かったのね。流れ星みたいに」


 ジュディットが僕を見た眼差しは、きっと天使が人間を見るそれだった。違う次元の、ひどく哀れで惨めなものを見る。どこまでも冷たく突き放した青い眼差しが。言い争っていた書斎の、バルコニーの、手すりを越えて。


 金の髪が躍る。手がしなる。空中で一瞬だけ描かれたこの上なく完璧なアティチュード。僕が焦がれた風の精シルフィードが、もう一度そこに。けれど人に堕ちた彼女にはもう羽根はない。


 そうして、星は落ちた。ああ、彼女はまだ星だったのに。

 僕が落とした。落としてしまった、輝ける星を。

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