100回目の大嫌い

深海かや

第1話

 母に大嫌いだと手紙で告げたのは、これで何回目だろう。


 私は日頃から律儀にメモ帳のアプリにそれを記録している為、携帯に指を滑らせ確認することにした。


「95回だった」


 私の目の前の椅子に座り、顔程の大きさのあるジョッキをあおいでいるあずさに笑みを向けると、「え、なにが?」と上向きに伸びる長いまつ毛が少し持ち上がった。


「さっきの話。お母さんに大嫌いだって言ったの95回目だった」


 私は、回数と共に母のことが大嫌いだと書いた手紙を写真にも保存している。その写真を開いたままに携帯を手渡した。梓はすぐに人差し指と中指で画面を広げ、「えっと、文章の意味を頭の中で逆にしながら読まなくちゃだよね?」とその手紙を声に出して読み始めた。安さの割に旨いと評判の、私達もお気に入りのこの店は今日も満席状態で、周りには若い大学生やサラリーマン達が溢れており、店の喧騒に負けないようにと梓は声量をあげた。


「最近は楽しいことがありません。職場の人たちはみんな意地悪で、中々良好な人間関係を築けずにいます。つい先日は私の誕生日だったのにお祝いすらしてくれなかったです。嬉しくありませんでした。本当に、嬉しくありませんでした。返事を待ってません。お母さん、大嫌い」


 ジョッキを片手に読みながら、何度も吹き出していた。その度に胸元まで流れた指通りの良さそうな茶色い髪が大きく揺れていた。梓は高校の時の同級生で、運良く同じ大学にも通い、社会人になった今も関係が続いている私の一番の親友だ。


「ねぇ、もう少し声落として読んでよ。恥ずかしいんだけど」

「なんで? いいじゃん、記念すべき95回目の大嫌いな訳でしょ? あっ、これ美味しい」


 梓はテーブルに置かれていた揚げだし豆腐を口に運んだ。口元を手で抑え飲み込むと、ジョッキの中にある黄金色の液体で喉を潤し「でもさ」と私の目をみつめてくる。


美桜みおの家族ってほんとに変わってるよね」

「ねっ、娘の私ですらそう思う」


 頷きながら同調すると、「いや、あんたも含めてね」と付け足される。


「この奇抜な手紙のやり取りをしようっていう発想の持ち主の美桜のお母さんもおかしいけど、律儀にそのルールに従ってる美桜も美桜で一般人の私からしたら十分おかしいよ」


 母が手紙に特別なルールを設けたのは、私が大学生になってからだった。県外の大学に進学することが決まった私は、人生で初めて親元を離れることになった。知らない土地で、たった一人で、これまで築いてきた人間関係も皆無に等しい中で心細く思っていた私の元へと一通の手紙が届いたのだ。


『そちらはどうですか? お元気じゃないことを、あなたが一人寂しく過ごされていることを、祈っています。どうか身体を大事にしないで。偏った食生活をするのよ。寂しくなっても帰ってこないで。母より。』


 白い、長方形の、シンプルなかたちの手紙の封を切ると、中にはそう書かれていた。私はその瞬間、こっちでどんな気持ちで私が過ごしているのかもしらないでと激しく憤り母に電話をかけた。すると、母は一切悪びれる様子もなく「言葉は大切なものだから、本当にこの日この瞬間しかないって思った時しか本心は書かないの。あなたもそうしなさい」と諭され、面食らってしまったのだ。


 娘ながらに元から母は変わった人だとは思っていたけれど、まさかここまでとは。そう思ったのと同時に、母が言う事にも一理ある気がした。言葉は大切なものだ。たとえ相手を想い発したものでも繰り返し使っていればいつかは薄まってしまう。それならば、と私は母の設けたルールに従うことに決めた。幸いにも、ルールはシンプルなものだった。あべこべに書く。つまり、思っている事とは真逆の事を書けばいいのだ。大学に入ってから始まったこのやり取りは、社会人二年目になる今も続いている。

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