第22話 思い出は捨てられない
「泊まっていきなさいよ」という両親からの強い勧めを固辞して、わたしたちは帰ることになった。
大体、母さんはおかしい。「ニコの部屋にお布団敷いてあげるから」なんて慧人にも言ったことがない。月丘の笑顔が引きつっていた。
終電近い電車は思ったより空いていて、月丘の肩に頭を預ける。電車の揺れに寝ぼけていると「疲れたんだろうから寝てなさい」と言われる。なんだか自分が特等席にいるような気がする。
向かい側の窓ガラスにわたしたちが映ってる。月丘はいつも通り完璧だったけど、わたしたちは何処か似たような顔をしていた。疲れているだけかもしれないけど。
そっと、手が伸びてくる。ギュッと、握られる。
ドキドキする。
野球の中継のように、ガラス越しに見ている。
月丘はわたしを見ていない。吊革が揺れるのを見ているようなふりをしている。手袋の外されたその手をギュッとわたしも握り返す。
大切にされているという思いが、胸の中いっぱいに広がる。思えば、最初からずっとやさしかった。下心があったのかもしれないけど。
「ニコの家は明るいね」
「そう? 普通じゃない」
「いや、ニコに対するご両親の愛情がひしひしと伝わってきたよ。不覚にもまるで僕も家族の一員になったかのような錯覚を覚えてしまった」
「不覚にも、なの?」
「初対面なのに図々しい」
「月丘は変なことに拘るんだね。いいんだよ、
彼はようやくわたしを見た。そうして「そういう風にご両親はニコをやさしく育てたんだよ」と言った。
次に目が覚めたのは降りる駅の手前だった。月丘がやさしく起こしてくれた。
「やぁ、僕のことを覚えているかい?」
月丘風ジョーク。眠りの森にいたわたしの頭の中が鮮明になってくる。
「もうすぐ降りるよ、荷物はいい?」
「あ、そっちのバッグは重いから」
「ニコ、なんのために今日、僕が来たのかわかってないね」
「はい⋯⋯。お願いします」
◇
「今日はありがとう。お疲れ様でした」
月丘は満足気に笑った。
「どういたしまして。僕も久しぶりに遠出して気晴らしになったよ」
久しぶり⋯⋯月丘の台詞が気になる。
「月丘は帰省しないの?」
「ああ、今回はね」
「ふぅん」
男の子の親はうるさくないのかもしれない。まだ大学に入って一年目、初めてのお正月だし。これがゴールデンウィークにもお盆にも帰省しないとなってきて初めて問題になるのかもしれない。
⋯⋯わかんないな。慧人は地元だいすき人間だし。大学に拘らなかったら、きっと地元に進学してたはずだ。友達もたくさんいるし、慧人がボスみたいなものだし。
「心配しなくていいよ。親との仲は良好だし」
「うん」
「今度は僕の家に来てもらわないとフェアじゃないね」
「げ! いいよ、アンフェアのままで」
そういうのはまだまだ先でいい。
◇
今日は部屋に帰るね、とやさしく言って彼はおでこにキスをした。自分で自分のしたことに照れて赤くなる姿がかわいくて、笑ってしまう。
「明日の朝、また来るから、気をつけて」
「なにを?」
「女の子のひとり暮らしは危ないってことを忘れてるところだよ」と釘を刺される。そんなこと、慧人に言われたことがなかったのでビックリする。
両親も「慧ちゃんが一緒だしね」と、みんな緊張感に欠けていた。
そうか、月丘がいても危ないのかと思うと急に怖くなって、足元からゾクゾクするものが這い上がってきた。
「怖くなっちゃったの?」
「みんな『大丈夫』だって言ってたから」
「⋯⋯」
月丘はわたしを抱き寄せた。自分で言っておきながら、困っているようだった。
「布団をもう一組買う必要がありそうだ」
「同衾はしないってこと?」
「しない方向で」
その言葉はわたしをガッカリさせた。月丘の毛布の中に入れるのはわたしだけでいたかったからだ。
「こたつを先に買って」
「どうして?」
「毎回こたつ代わりに毛布に女の子を包むつもり?」
「⋯⋯あれは」
「わたしがどれくらい傷ついたかわかんないよ! 月丘のバカ!」
バタンとドアを閉めると、コツコツと階段を降りていく音がした。ああ、素直になればよかったなと反省する。どうして「バカ」なんて言っちゃったんだろう⋯⋯。
明日の朝、月丘の顔を見るまでわたしは反省を続けなければいけなくなった。安心できるまで。
◇
ひとりの部屋は静かすぎて、落ち着かない。
ベッドに入ってからが特にそうで、隣に誰もいないことが不思議に思える。
ほんの少し前まで、慧人が隣にいて多少寝相が悪かったせいで寝苦しい思いをしたのもデフォルトだ。
自分から別れたくせに、その体温がないことを寂しく感じる。手を伸ばせば肌に触れることがないのを寂しく感じる。
何故だろう?
人の気持ちって難しいと思う。今はどうやったって月丘でいっぱいのはずなのに、こうして部屋の中で慧人のことを思い出すのは『思い出』という名の綺麗事だけじゃ申し訳ない気がした。
月丘に申し訳ないな、と思う。
でも、触れてくれない月丘も罪な男だと思う。
あの唇で口付けされる日を心待ちにしてるのはいやらしい? バレたら恥ずかしいことなんだから、わたしはいやらしいのかもしれない。
どっちにしても独り寝は寂しい。誰かと寝ることに慣れすぎてしまったから。
◇
真冬らしい冷気が足元からせり上ってくるような朝だった。
エアコンを入れてても底冷えして、デニムの下にレギンスを履く。靴下もヒートテックだ。
いつものコートの下にタートルネックを着て、ぐるぐるに橙色のショールを巻き、手袋を忘れないようにポケットに入れる。
げ、アイラインがよれてる。月丘と会う日は気が抜けない。少しでも女の子だと思ってほしいから。
「お待たせ」
待ち合わせのカフェに行く。たまには外で約束するのも趣があっていいね、と月丘は言った。
バカなので、その一言ひとことにうっとりする。
こうなる前はどうだったんだろう? 月丘の、ちょっと回りくどい言い回しや深い声音に惹かれていたような気もする。でもこんなにキュンとしたりはしてなかったはずだ。
でなければもっと話は簡単だったはずで、わたしはすぐに月丘と恋に落ちていたはずだ。
ぐるぐるのショールだけでも外して、トートバッグに突っ込む。月丘はにこにこ見ている。
と、月丘の顔色が変わる。わたしはその目を見る。
「時に、ニコ――」
「なにかあった?」
ヤバい、やっぱりアイラインが上手く引けなかったのかもしれない。
「ニコ、そのコートはいつまで着るつもりだい?」
ドキッとする。
考えたこともなかった。高校生の時に慧人にもらってから冬は毎年着てたお気に入りのコート。最初は借り物みたいだったけど、今はすっかり身体に馴染んでる。このコートを着なくなる日のことを考えたことがなかった。
「⋯⋯考えたこともなかった。不快?」
「僕は意外と嫉妬深いのかもしれない」
「わたしだったら不快」
頬杖をついてため息をつく。はぁーっ。まさかそんなところを突っ込まれるなんて、考えたこともなかった。
「この件に関しては善処しようと思います」そう言うしかなくて、わたしは項垂れた。
茶色いツイードのおじさんコート。慧人が着てた時のことを思い出す。このコートを着ると、背が高い方とは言えない慧人も背筋がちゃんとして格好良く見えた。わたしはピンと伸びた背筋にドキっとしたものだ。
そのコートをダウンに買い換えると聞いた時、衝撃でなにも言えなくなった。店頭で試着した慧人はどこぞの誰かと同じくなってしまい、コートを着た時の凛とした良さが損なわれてしまった。
ポケットに両手を突っ込んで「寒い、寒い」なんて言われると、ほかの男との違いがわからない。わたしは心底ダウンにガッカリした。
しかも「捨てる」と言い出した時には正気を失ったと思った。
わたしと思い出のコートを捨てるなんて⋯⋯。
「欲しい!」と言ったのはそんな経緯があったからだ。
でもその理由は月丘には話せない。だってそれこそ「処分してしまえ」と言われかねない。
昔の男の匂いはさすがに消えたけど、記憶の匂いはまだまだ漂っている。
月丘をガッカリさせたくない。反面、思い出を捨てられないわたしがいる――。
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