第15話 月曜日を待ってる
翌朝はただただ憂鬱だった。雨は止まず、強く降ったかと思うと止みかかったり。
わたしは教室の後ろの窓際に座り、まるで涙を流しているようなガラス窓を見ていた。ガラス窓の向こうに、緑の葉が揺れて見える季節はもう終わっていた。
なんだか騒がしい声がして、ああ、月丘たちが来たんだなと思う。有珠の取ってるのはフランス語じゃなかったはずだから、やっぱり今日も送ってきたわけだ。マメな女。そういうところは尊敬に値するかもしれない。
わたしがもしマメな女なら、慧ちゃんをみすみす浮気させることもなかっただろうに。
はぁー、なにもかもやる気が出なくて机に突っ伏す。賑やかな声は去って、また教室のさざめくような音に戻る。
「おはよう、ニコ」
「⋯⋯月丘?」
最初、自分は寝ぼけているのかと思った。願望がそのまま夢に出てしまったのかと。
でもこれは現実で、月丘はわたしの隣の席にいつものように座った。黒いコートを脱いで。
「ニコ、昨日、僕の辞書と間違えて渡していっただろう?」
月丘のカバンから出てきたのは間抜けな黄金色の柄が飛び出た、わたしのフランス語の辞書だった。
ズキン、と胸が痛む。
月丘は銀杏の葉を挟んだ頁を広げて見せた。
「これは僕がニコにプレゼントしたものだ。このまま交換したままでいようか」
「そんなこと有珠が許さないよ」
「僕たちは契約上の恋人なわけだし、ニコとはその後もずっと今まで通りの付き合いだ。君に高田くんがいても僕が隣にいたように、君も誰にも遠慮せず僕の隣にずっといればいいのに――」
「月丘⋯⋯」
わたしは月丘の顔を見ることができなかった。何故なら、自分の手で顔を隠してしまったから。
心の中がどうしようもない気持ちでいっぱいになる。
「苦しいよ。いつの間にか付け上がってて、月丘はいつでも隣にいて当たり前だと思ってた。でも考えてみたら、そんなことないよね。月丘にだって選ぶ権利があるんだから」
両手で隠した顔をますます見せられなくなる。涙で落とすような真似はしたくない。泣いているわたしを見たら、紳士な月丘はわたしに同情するに違いない。
「ニコ、ごめんよ、そんな思いをさせてるとは思わなかった。僕が迂闊だったばかりに」
「月丘のせいじゃないよ」
ポンポンと頭の上に手が乗る。久しぶりに触れたその手の大きさをまだ覚えている。
「今さらこんなことを言えた義理じゃないんだけど、わたし、月丘のことがすきみたい。月丘がいないとダメみたい。こんな風になるつもりはなかったのに――」
月丘はわたしの両手首を掴むと、そっとわたしの手を顔からどけた。真っ暗だった視界が明るくなる。涙はぽたぽた、机の上に落ちる。
「ニコ、とてもうれしいよ。僕が今の立場じゃなかったら抱きしめてるところだ。でも今は周りの目があるから、止しておこう」
そのうちフランス語教師が入ってきて、講義は始まった。みんなの目を盗んで、月丘が持っていたハンカチで目の周りを拭いてくれる。いつものように。
そして、机の下のわたしの手を握った――。
自分はなんてバカな女なんだろうと思う。ここへ来て初めてこの人への気持ちを知ることになるなんて。この人を失うことがこんなに怖いなんて。
ノートの切れ端に書かれたのは『月曜日まで待ってて』の一言で、わたしはこくんと頷いた。
◇
フランス語の講義が終わると早速、有珠が月丘を迎えに来た。
窓の外にその姿が見える。わたしは頬杖をついて、それを目で追った。
月丘の黒い傘の隣に赤い傘。それは素敵なコントラストだった。
傘と傘の間には雫がこぼれて濡れるだろうに。余程、しっかりふたりは寄り添っているんだろう。
あれがわたしのポジションだったと思うと、虚しさだけが込み上げてくる。
ううん、わたしが鈍感だったことがすべてを招いたんだ。なにも言う権利はないのに、月丘は話を聞いてくれた。
『月曜日まで待ってて』
その文字が特別に見える。待っててもいいという許しを得た。待ってたら元に戻れるということ?
戻ることはできない。
だってわたしは気付いてしまった。自分の気持ちに――。
慧人にはなんて言ったものだろう。
「ごめん」、その一言しか浮かばない。嫌いになったわけじゃないし、一緒にいるのが嫌になったわけじゃない。浮気をしたことに嫌悪感を感じないわけじゃないけど、三年の月日の方が重い気がした。
こんな気持ちでいることを、彼は気付いているんだろうか。いつもと変わりなく見えるけど、わたしの行動の端々にそれが見えてしまう気がして、申し訳なく思う。
先に浮気をしたのは彼の方なんだから、という気持ちがない訳じゃない。でもそれを許したのは自分だと思うと、なんだ無責任な気がした。
気持ちを天秤にかけるなんてしたくない。
したくないけど⋯⋯今は駆け出してしまいたい。このまま傘も持たずに駆け出して、寄り添うふたりを引き離したいという衝動を抑える。
――なんて嫌な女なんだろう。
今まで散々、月丘のアプローチを無視してきて、他人のものになったら欲しくなるなんて。呆れたものだ。
他人のものになってしまった。
あの黒いコートも、皮の手袋も、わたししか上がったことのない意外に質素な部屋も、温かい毛布も、全部、全部。
あんなに特別扱いされてたのに、わたしは本当にバカだ。
◇
「ただいま」
帰ると部屋の明かりはついたままで、慧人の姿がなかった。「慧ちゃん?」と呼んでも返事はなく、こたつの上に付箋が一枚貼ってあった。
『まだレポートあるから帰るよ』と。
てっきり今日は泊まっていくつもりでいるのかと思っていたので拍子抜けする。どうやって話したらいいのか、帰り道、百万回考えた。
慧人に別れてもらうにはどうしたらいいのか、を。
先日の浮気騒動が沈静化したばかりのわたしたちの間にまた問題が起こって、前回、煮え湯を飲まされた彼が黙って許してくれるはずがないだろうと思っていた。
ぐずぐずとコートを脱いで着替えをする。シャワーを浴びて、こたつに入ったところでチャイムが鳴った。
「はい」
「月丘です」
わたしはインターフォンの姿をよく確認することもなく、ドアチェーンを外す。鍵を開けてドアを開くとそこには会いたい人の姿があった。
わたしから抱きしめようとする前に、月丘から抱きしめられる。
「こんな夜更けに女の子の部屋を訪問するなんて間違ってると思ったんだけど、そうでもなかったみたいでよかった」
「有珠は?」
「終電前には帰ったよ」
終電まで粘ったのかと呆れる。きっと月丘が駅まで送っていったんだろう。
「ニコ、その、もう少し暖かい服を着てくれないか? また風邪をひかれても困るし」
「あ、はい」
お風呂上がりで無防備な格好だったわたしを直視できず、彼は困っていた。上がってもらって着替えをもう一度して、髪をよく乾かす。鏡に映るところに月丘がいる。安心する。
「コーヒーでもいい?」
「飲み物なんて気を遣わないでいいから。ニコ、ここに座って。あんまんと肉まんを買ってきたよ」
こたつの、月丘の正面の席に座る。どちらもほかほかで、半分ずつ割ったあんまんと肉まんで舌を火傷しそうになる。
「いつかの風邪の時が懐かしいね」
「そうだね、そんなこともあったね。あの時のお粥、美味しかったよ」
「ニコのカレーも美味しかったよ」
「あんなカレーでいいなら、いつでも作るよ。⋯⋯その、月丘がシングルの時なら」
月丘が難しい顔をする。わたしはその顔をじっと見て、次の言葉を待った。
「週明けまで待ってほしいと言わなければいけない」
「うん」
「でも僕はニコを捕まえられる時に捕まえておきたい。実はせっかちなんだ」
「そんなことないじゃない」
わたしは笑った。ジェントルな月丘がせっかちだなんて笑ってしまう。今までそんな月丘を見たことがない。
「そんなことはあるよ、でなきゃこんな夜中に強引に会いに来たりしない」
「確かに」
時計はゆうに夜半を過ぎていた。なんでもない男女が会うにはちょっと遅すぎる時間だ。
わたしたちの間に親密な空気が流れる。なにも言わなくても通じ合えるような空気。これは四月からわたしたちがゆっくり練り上げてきたものだ。
「やはり彼を説得しなければいけないだろうね」
「そうだね」
「最近はどう?」
「最近は⋯⋯普通のマンネリカップルみたいだよ」
「仲がいいのか、厄介だな」
「でも向こうが先に浮気したし」
「取り戻したものは手離したくないものなんだよ」
諭される。
それは月丘にとってのわたしも含まれるんだろうか、と思う。月丘はわたしを取り戻したと思っているのか甚だ謎だった。
わたしは月丘の元に戻った気でいるけど、月丘にとってのわたしってどのポジ?
「ニコ、抱きしめてもいいかい?」
「うん」
グリーンノートの香りがわたしを包む。清浄な香り。
「顔をよく見せて」
上を向く。それは自然な流れで、わたしたちはその夜初めて友達を越えてキスをした。そっと触れるだけのキスをしただけなのに、その後の月丘の取り乱しようには笑わされた。顔を真っ赤にして、重なった唇の跡を手の甲で確かめるような仕草をした。
それだけで十分だった。
月丘がそこにいるという実感が湧く。
黒いコートの男は、わたしを攫いに来てくれた。
「泊まっていく?」と訊くと、彼はいそいそと帰り支度を始め、「
わたしはそんな彼の腰に、まだボタンをはめていないコートの中から手を回して「気を付けて」と言った。始終、彼は真っ赤になっていて、こんな月丘がどこかにいたんだなぁと今さら思う。
そもそも月丘から猛烈なアタックがあったことを思い出す。月の綺麗な夜もあった。確かにせっかちなのかもしれない。
わたしは結局、そんな月丘に上手く丸め込まれてしまっただけなのかもしれない。四六時中、一緒にいたらすきになってしまうのかもしれない。
そんなの陳腐だと思ったけど、この黒いコートの中に入れてもらえるのがわたしだけなら、それでいい気がした。月丘のコートの中は思っていた通り、暖かだった。
「ニコ、ごめん。こんなことになってしまって。突っぱねればよかったんだ。ヤケになってたかもしれない」
「いいよ、もう。ほら、帰らないと襲っちゃうから」
「はは、立場が逆だろう? 日曜が過ぎたら、またうちに遊びにおいで」
――遊びにおいで、とは甘美な響きだった。畳の感触、毛布の匂い、鴨居にかけられるふたりのコート。それらがわたしをうっとりさせた。
「月曜日を心待ちにしてるから」
「僕もさ。まるで囚われた気分だよ。もしこれからも付き合うことになったとしても、これでは息が詰まってしまうよ」
月丘は目を細めて苦笑した。
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