Chapter 1.3 大学生性活入門

第1話 大学生性活入門


 キャンパス全体を、まだ浮ついた雰囲気が支配しているような感じがある。授業が終わった後大人数のグループになって群れている集団を見る機会が多かった。きっと、ほとんどが一年生だろう。


 サークルを除いて、大学で大人数のコミュニティを作ることは履修する講義の違いや人間関係トラブルなどで不可能に近いのに、それもまだ知らない彼らは楽しそうに、お喋りを続けていた。


 エスカレーターの近くで群れて、邪魔だなあと思いながら俺は彼らを押し退け、講義のある502号室へ向かっていく。サークルのことを考えなければいけないけれど、それ以前に俺たちは大学生で、講義を受講することが当たり前の前提だった。


 講義が始まってから三週目、オリエンテーションをとっくに終え、本格的な内容に移行した政治学の授業は、難解だが面白い。しかし、興味のない講義にはとことん集中できず、別のことばかりしていたので、決して真面目というわけでもない。


 講義が始まってから十分、遅刻してきた学生が、そそくさと空いている座席へと向かう。この講義の教授は適当な方だったので、特に何かが起きるわけでもない。


「あれ、川端じゃん」


「お、雀野」


 小声で会話をする。彼女は俺の隣の席に座り、パソコンを開いて、講義資料を画面に映した。


「またバイトか?」


「うん。今から欠席重ねてると、また落としちゃうから。流石に出ようと思って。でも、知ってる人いて良かったー。最悪出席出してもらうから。よろしく」


「しゃーねーな」


 カタカタと、雀野がパソコンでノートを取る音が聞こえる。俺はパソコンは開いているものの、教授の言うことを集中して聞いていて、ノートを取ったりはしていない。


「そのさ。私、初週は出欠取らないらしかったから、普通に切ってたんだけど。二週目は、実は来てたのよ。後ろの方座ってて」


「おう」


「そしたらさ、前の方に貴方が座っているのが見えて、声かけるか悩んでたんだけど……貴方、PCで何してるのかと思ったら、ずっとX見てたじゃない」


「旧ツイッターと言え」


「貴方、そんな一生懸命何を見てるのよ。なんか、趣味のアカウントとか?」


「…………情報の濁流に受動的に身を預けているだけだよ」


「ま、誰が何してようか構わないけれど。なんとなくこのことをわざわざ本人に告げて、刺しておこうと思っただけ」


「酷くない?」


「へ、貴方を刺すことによって、私も気引き締めようと思ってるのよ。この前、椅子に座ったままYoutubeショート見てたら、二時間経っててマジで鬱になったわ。こういうところで人と関わりながら、宣言しとかないと息切れしちゃうのよ」


 机に肘を突き、柔らかなほっぺたを歪ませながら、彼女はつまらなそうな顔をしていた。


「コントロールできるのは自分だけのはずなのに、自分さえもコントロールできないのよね、私たち」


「……あるよなあ、そういうところ。俺たちって、やらなきゃいけないことが山ほどあるって、分かってるんだけどなあ」


 それはきっと、一人暮らしを営むための、毎日の家事であろうし。


 大学という場所で過ごす時間に意味を与えるための、能動的な活動であろうし。


 将来後悔しないために目一杯遊ぶという、刹那的な欲求の解消でもある。


 きっと彼女は、ここ最近で会った人たちの中でも、自分と近い場所に立っているような気がした。道標もない霧の中、無我夢中に手を伸ばし、辺りを探るような感じ。

 雀野が大きくため息を吐いた。


「じゃ、今は真面目に講義受けることねー。この後、部室行く? バイトまで時間あるから、行こうと思うんだけど」


「お、いいね。居てくれると助かるかな。堀江は今も部室にいるみたいなんだけど、次のコマで新入生が来る予定だから」


 ニコッと笑う。今日部室に来るのは、丹波茉美耶だった。一度喋ったことのある相手というだけで、随分と楽である。


「……なんか、声がうわずってて嬉しそうね。珍しい」


「うーん、なんだろうな。激動の大学生活だったから気づかなかったんだけど、大学で後輩持つの、初めてってことに気づいたんだよ。意外と、ワクワクするもんなんだな」


「あら、そう。夢があっていいわねー。バ先の山本さんに締め作業を教えることになってから、そんな感覚私にはなくなったかな」


「……山本さん、いくつ?」


「五十代のおじさん。もう、独りで締め作業できるようになったから、立派な戦力だわ」


 後輩自慢はよせ。



 S棟404号室。紙で塞がれた小窓から、また光が漏れているのが見えた。部室の鍵を開けるためには、大学の名簿登録手続きが必要になる。それが反映され始めるのは夏頃からだったので、まだ新入りは部室の鍵を開け閉めすることができない。すでにもう誰かいるということは、堀江がいるということだろう。


 サークル研究会という殴り書きの紙が貼られた鉄扉を開け、雀野と一緒に入り込んだ。


「お疲れ様ー」


「朝日ー! お疲れ! もう新入生の人来てたよ!」


「あっ……! お疲れ様です。川端先輩!」


「……え?」


 どうやら俺たちが来るよりも先に訪れていたらしい丹波ちゃんが、顔をぱぁっと輝かせてこちらを見ている。


 俺のことを知った素振りの丹波ちゃんを見て、堀江が大きな音に驚いた猫のような顔をしていた。ここまで顔を輝かせてしまうということは、おそらく堀江の応対がおもんなかったということだろう。


 しかし、堀江は俺と仲が良いだけのオタクくんだ。仕方あるまい。


 丹波ちゃんは春らしいシフォンワンピースに、街中でよく見かけるブランドのラベンダーカラーのトートバッグを肩に提げていた。スポーティな格好をした雀野とは正反対に淑やかな印象で、清楚系アイドルという言葉が似合う。


 堀江と丹波ちゃんは向かい合うように座っていて、一応、堀江が気を遣ったのか、机の上を軽く片付けていたようだった。纏めて置いてあった漫画のシリーズは、本棚に戻されている。しかし、時間が足りなかったのか、気がおかしくなっていた時期の堀江と俺が作った『ヘイトスピーチおよびホモソーシャル禁止』という雑な張り紙はまだ残っていた。


 もうサークルに馴染み、部室の間取りや設備を把握した雀野が、荷物を誰にも踏まれない場所へ投げ捨てた後、冷蔵庫を開け始めた。


「ねー。瑞規ちゃんが買ってきたっていうアイスってまだある?」


「うん。あるよ。宵原さんのプチアイス。わ、僕メロン味が苦手で、それだけ食べてなくて余ってるから食べてえ」


「ちょ、堀江くん。メロン味が嫌いって、昔私が飼ってたカブトムシと好み同じだわ。緑色の昆虫ゼリーばっか余って、ホント困ってたなー」


 僕のこと虫って言いたいのかな……と俯いている堀江を見て、苦笑する。カブトムシを強くするには、鍛えさせたりせず、弱い個体と戦わせて自信を付けさせるのが良いらしいが、それは彼も同じだろう。


 距離感を感じさせない目の前のやり取りを見て、丹波ちゃんが視線を二人へ行き来させていた。どうやら、面白いらしい。


「丹波ちゃんお疲れ。あれから、どう?」


「あっ……先輩! まだ探し中ですけど、接客業とかやるつもりです。きちんと頑張ります!」


「そっかあ。俺もバイト探さなきゃな。辞めちゃったし」


 プチアイスをもぐもぐと食べている雀野が、今すぐ喋りたそうにこちらを見ている。ごっくんとそれを飲み込んだ彼女が、口を開けた。


「え、その……あ、ごめんなさい。私、二年の雀野栄楽って言うんだけど、よろしくね。それで聞きたいだけど、その……茉美耶ちゃんは、川端とバ先で知り合ったの?」


「バイト先って意味だったら、あってます。私が初日、面接に行ったときに知り合ったのが先輩で、いろいろ助けてくれたんです」


 間接的な虫呼ばわりにまだ効いてた堀江が、ぎょっとして丹波ちゃんの方を見る。


「え! 例のバイトで知り合ったの!」


「……ちょっと、私もびっくりかも。え、でどうしちゃったのよ。口ぶりからして、やめたっぽいけど」


「はい。その……恥ずかしながら、怖くなっちゃって。そしたら、川端さんが助けてくれて、それで」


 丹波ちゃんは俯きながら、零すように言った。まさかこいつ、という表情で雀野がこちらの方を見ていた。堀江は裏切り者を見るかのような目付きでこちらを睨んでいる。彼らに目配せし、そんなことはないと主張した。この一瞬のやり取りに、丹波ちゃんは気づかない。


「その、元々サークルには入ろうと思っていましたし、でも、できれば良い人がいるところがいいなって。それで、川端さんが良い人だったので、来てみようかなと」


「ちょ、ちょちょちょ、あ、朝日が良い人ってどういうことさ!? こいつ、大概酷いやつだよ!?」


「え……? すっごく優しい人でしたよ? 私、その、実は泣いちゃって……そんときも缶コーヒー買って慰めてくれましたし」


「え、そんなことしてるの。映画の見過ぎだよぉ! 朝日ぃ!」


「お前だってやってみたいだろ」


「そ、そりゃできるならやってみたいけどさ!」


「……堀江くん黙って。ちょぉーっと、詳しく聞いてみたいんだけど、良い? 茉美耶ちゃん」


 ニヤリと笑った雀野が、身を乗り出す。は、はい……と押し負けた丹波ちゃんは、全てをゲロった。



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