第3話 純粋不純性愛同盟


 そういうこともあるよねえ、という顔をした社員に一言告げてから、彼女を連れて外に出る。


 雑居ビルの前に出ると、もう辺りは暗くなっていた。月を雲が覆っていて、朧月夜だな、とふと思う。ビルの隣にある自販機の光が差し込んでいて、ジー、と鳴く虫の声が聞こえた。彼女は周囲の様子を視線だけで一度確認した後、路肩に座り込む。


「ぐすっ……えっぐ、ぐす、ずず、ぐす、うぇえ……」


 いきなり男性の局部が出てきて、女の子が顔を赤らめながら──きゃあエッチ! すけべ!──みたいに消費させてくれるファンタジーは、この世に存在しない。いきなり何の脈絡もなく男性の局部が送られてくればまともな女の子であれば号泣するし、それが肉体を消費されるために誕生したキャラクターではない、真なる精神の姿だろう。


 主人公がお色気シーンのためにセクハラ発言をしようものなら、即座に女子のコミュニティで拡散され、孤立するのが当たり前だ。でも、それがファンタジーではまかり通るし、本質的にはこのチン凸と、大して変わらない。


 ファンタジーに夢見たいのは、すごく分かる。ついこの前だって俺は、ただ出会ったばかりの同学年女子の引力に、引っ張られそうになった。ファンタジーに限りなく近いことを体現した村田とあの名も知らぬおっさんのちんぽに、感情移入が全く出来ないかと言われれば、ウソになる。


 肉体に、本能に引っ張られる俺は、理性の虜になりたい。


 まだ泣き続ける少女に、どう声を掛けるのが正解なのだろうか。大丈夫、なんて聞くのは、どう見ても大丈夫ではないので愚問だし、何を言うべきか悩む。


「……ごめんね。丹波ちゃん。俺が悪い」


 やっぱり、すっと出てきたのは、罪悪感から来る、謝罪の言葉だった。


 巨額の金を払う代わりに、猥褻な写真を大量に送ってくるユーザー──それは一定数存在するし、運営からは見逃されている。彼らは金を払うことによって背徳を満たし、生活を送っているのだ。駅に向かう道中、すれ違う人の中に、そういった人がいるのかもしれない──そう思ったときは、背筋が凍った。


「い、いえ。か、川端さんは悪くないんですよ。ぜ、全部私が悪いんです。私が世間知らずで、いつもいつも守ってもらってるから、こうやってのこのこと危ない場所に出てきて、痛い目を見るんですよ」


 俺が悪くないというところには同意しないが、あながち言っていることは間違いではないかもしれない。


「いや、君が悪いってことはないよ。そもそも、送ってくる奴が悪いに決まってるんだからさ。ね? それに、俺は先輩として、ちゃんと注意を払うべきだったって反省してるの」


「で、でもぉ……出る途中、ちらっと別の人の画面が見えましたけど、あのおばさん、眉一つ動かしてなかったんですよ? じゃあ、私に問題があるじゃないですか」


「……あの主婦さんは、いつも駐車場に停めた車の中で電話してるんだけど、シフト上がった後も家帰らないで電話してるし、どう見ても浮気っぽいんだよね。丹波ちゃんとはまた別の生き方してる人だから、安心して」


「みゃ、みゃあああああああ……」


 顔を歪ませて、号泣する。泣き方と驚き方だけは、独特だった。


 たまたま持っていたハンカチを彼女に差し出しながら、ボディタッチはしないように、近くに座る。


「まあなあ。俺も分からんのよ。丹波ちゃんの言うとおり、限りなく黒に近いグレーだからさ、これ。最初の頃は俺も悩んだし罪悪感に駆られたんだけど、あり得ない数の局部見てからは、この化け物たちを俺が食い止めてるんだって気持ちになってたわ」


「…………ひっく、ひく」


 立ち上がって、自販機の前に行く。


「何飲む?」


「…………」


 返事はない。それなら、と俺はホットのブラックコーヒーを二つ買って、そのうちの一つを開けた後、彼女に手渡した。


「みゃ」


「丹波ちゃん、あげる。それ。飲みな」


「い、いただきます……」


 ごく、と思い切って彼女が缶コーヒーを呷る。彼女は表情を歪ませて、ぺ、と吐いちゃいそうな勢いだった。

「に、にがいです」


「今日みたいな味?」


「はい。いつも、お砂糖とミルクを入れるので。初めての味、です」


 彼女に遅れて缶コーヒーを開けた俺は、それを一気飲みする。そのままそれをゴミ箱に投げ入れて、彼女の方を見た。


「この後、どうする? やめるなら、やめちゃって大丈夫だと思うよ。そもそも、ネットで応募したときと業務内容違うし、すぐやめる人なんて、沢山いるから」





 初めてのバイト。初めての面接。ドキドキして向かった先で起きた出来事は全部、私の今までの世界を壊しちゃうようなものだった。


 マッチングアプリ、なんて言われたけれど、そもそも誰かとネットで知り合って、会って恋人になろうとするなんてこと信じられない。


 何故、人のことを騙してまでお金を稼ごうとするのか分からないし、何故それにみんな納得して仕事をしているのも分からない。


 分からないことばかりで、ぐるぐるしちゃっている中で、川端さんは沢山説明してくれたけれど、彼の言うことの根本にあるものに私は突っかかってしまって、何度も聞き返してしまったし、困らせてしまった。


 私の住んでいた世界はどうやら無菌室のような世界だったみたいで、私は培養されて生まれたような箱入り娘だった。


 挙げ句の果てには、泣き出してしまって、皆から奇異の視線で見られたし、ずっと相手をしてくれていた川端さんにも、迷惑をかけてしまった。


 彼はやめても大丈夫だと言うけれど、怖くて仕方がない。自分で決めることにいつもドキドキしてしまう私は、自分で決断をすることができない。


 やめても大丈夫だよ、という言葉を聞いて、また、泣き出しちゃいそうになってしまった。


「……俺には、バカにすることはできないな」


 そう、川端さんが小さく呟いている。


 目つきが悪いせいで最初は少し怖い人なのかと思っていたけれど、単に眼光が鋭いだけの優しい人だった。


 カフェイン中毒っぽそうな割に肌はきれいで、隈さえ取れれば端正な顔立ちが映えるのにと思う。無意識のうちに彼の長い首筋や腕の筋肉に目が移る。


 彼のくたびれたワイシャツが、当時大好きだったけれど何をしていたか知らない親戚のお兄さんに似ていた。


「今さ、自販機にあったいちごミルク買わないで、ブラックの缶コーヒー買ったの、わざとなんだよ」


 彼は全く、関係ないような話をし始めた。私を落ち着かせようとしているのだろうか。そういう俯瞰的なことを考えてしまうから。彼のその善意に甘えて、その言葉の流れに乗ってしまえばいいのに。私は自分のことを責めるスパイラルに乗って、落ちていってしまう。


「偏見言ってゴメン。いちごミルク、大好きでしょ」


「な、なんで分かるんですか」


「さっき泣いちゃいながらもさ、視線が自販機のいちごミルクの方行ってたから」


「みゃ、みゃ」


 見抜かれたようで、気恥ずかしくなる。泣きわめいているくせに、好物に視線は行ってしまうような、子どもだと思われたかもしれない。


「そんな甘ったるいのが好物だったのに、いきなりブラック飲んで、本当に苦かったでしょ?」


「はい……苦かったです。奢ってもらったところ悪いですけど、美味しくなかったです」


「顔もすっごい顰めちゃってさ、面白かったわ。正直。今から言うのは物の例えでしかないんだけど、丹波ちゃんはそのブラックコーヒーを飲まないで生きてこれたんだと思う。でもきっと、丹波ちゃんの周りの人たちは、同じくらい嫌だけど、それ飲んで生きてると思うんだよね。飲まなきゃいけないから。少しずつ、慣れていってさ」


「…………」


「でも、今日飲まされたのはブラックもブラック、インスタントコーヒーの底に残った粉そのまま食ったみたいな感じだからさー。あんま心配しなくて良いと思うのよ。そんなん他の人も別に食ってねえから」


「はあ……」


 納得できるか微妙な、独特な例えと、変わった言葉選びだと思う。でも途中で、その言葉遣いが、私に優しい眼差しを向けているものだって気づかされた。


 おい世間知らず、世の中には悪い人が沢山居て、そんなことも分からないのか。彼はそう言うんじゃなくて、私がただ、この苦いコーヒーを飲んだことがないだけだと言っている。


 まだ残っているコーヒーを、もう一度呷ってみた。


「やっぱり、にがいです」


「ん、落ち着いた?」


 彼は笑っている。私は理解した。彼が、この苦いコーヒーが私の口に合うよう、砂糖とミルクをたっぷり入れて、かき混ぜてくれていたことに。それでも、その苦みが少しでも分かるように、気を遣ってくれていたことに。


「はい……ごめんなさい。私、どうしましょう。さっきの社員さんに、やめるって言えばいいんですよね」


 心臓の鼓動が早鐘を打って、病的なまでに早くなる。またスパイラルに乗りそうになって、ぎゅっと握った缶コーヒーを胸元に置いた。それはまだ少し温かくて、私に不思議な力と、苦みをくれる。


 大丈夫。ただ、そう一言告げるだけだから。大丈夫。彼も、やめちゃう人は沢山いるって言ってたから。


「まあ、ちょうどいいか」

「え?」


 振り向いて、彼の方を見る。



「一緒に、辞めちゃおっか」



 自販機の白い光が、彼の顔を照らしている。

 好奇心に満ちた子どもみたいな表情を浮かべて、彼は笑った。


 彼が、大人なんじゃない。彼が、やさしいんだ!





 三ヶ月に一回会社名が変わる場所でバイトをするというのも、リスキーだと思う。一年間働いたわけだし、もう、十分だろう。丹波ちゃんが来たのは転機だと思って、俺は辞めることを切り出した。


「え、嘘! 川端くんもやめちゃうのかー」


「いや、すいません。ちょっと、やりたいことも出来ちゃって。前々から相談はしてたと思うんですけど」


「まあ、沢山人紹介してくれたしねー。いいよ」


 やめられ慣れている、ということもあるのか、拍子抜けするほど簡単に辞めることができた。しかし、またバイトを探さなきゃいけない。



 駅まで送る、と丹波ちゃんに告げて、俺は自転車を押しながら、彼女と道を歩いていた。


「川端……先輩。先輩って、サークルとか、どこ入ってるんですか?」


「ん? サークル? サークル研究会ってとこ一つだけ。そこの幹事長してる。そっか。新入生だから、これから新歓イベントとか沢山参加する感じか」


「そうなんですよ。法学部のサークルとかにはもう入ったんですけど……他でどこ入ろうか悩んで。なんか、ぐいぐい来る人も多いですし……」


「そうだねえ。サークルの内容ってよりかは、やっぱり人だから。その法学のサークルも、いくつかあるでしょ? 最初にいくつか顔出して、考えるといいよ。合うとこ。新歓期間中に八個くらい入って、そっから絞ったりとか、かな」


「へ、へえ……そんなに皆さん入るんですねえ」


「うん。なんかSNSで聞いた話だけど、新歓期間中だったら奢られるからって、タダ酒飲み歩いてる奴がいるって聞いた。あ、丹波ちゃんっていくつだっけ?」


「まだ十九です」


「最近は強要するようなサークルもなくなってきたとはいえ、気を付けてね。たまにいきなり大学に告発したりする学生とかモンスターペアレンツがいるから、五月蠅くなってきてんだ。ほどほどにしなよ」


「いえ、絶対に飲まないので」


「いいね」


 彼女の小さな歩幅に合わせて、ゆっくりと歩いていく。


 カラカラ、と鳴る自転車の音が心地よくて、春の陽気をベースに、メロディを刻んでいた。


 最寄り駅のロータリーまでついて、一度立ち止まる。


「住みはどこなの?」


「大学近くの学生マンションです。長崎から上京してきたので」


「そう、良いところだね」


 ボロアパートに住んでいる俺よりも、財力を感じる。


「その……先輩。連絡先とかって、貰ってもいいですか?」


「もちろん。困ったこととかあったら、何でも聞いていいからねー」


「いえ、その……先輩のいるサークルに、入りたくて」


「……大丈夫? まだ、サークルでどんなことしてるとか、そういう話してないと思うけれど」


 ニコッと笑った彼女は、今日一番の大きな声を出す。


「先輩は、内容じゃなくて人って言ったじゃないですか」


 駅の改札まで小走りで駆けた丹波ちゃんが、振り返る。


「これから、よろしくお願いしますねー!」


 とびっきりの笑顔で、笑えるんだな。あの人は。

 サークルはその性質上、入りたいと言う人を拒絶することが難しい。もちろん彼女のような良い人を弾く理由はないけれど、恐れが湧き上がってきた。俺たちのサークルに、一年生で入る子たちがもうすでに何人かいる。


 俺は幹事長として、居場所を作り、守る人間として、彼女たちの大学生生活に、ある種の責任を持つことになってしまう。


 堀江との悪ノリで始まったと言ってもいい。そうやって歩き始めたのにもかかわらず、もう俺たちは引き返すことのできない場所までやってきてしまった。


 ティロン、とスマートフォンの通知が鳴る。堀江から、加入手続きの案内に関する資料ができたという話と、宵原と雀野から、サークルに正式に加入したいという連絡がやってきていた。どうやら彼女たちは、よっぽどあの話が面白く、そして桃鉄が楽しかったらしい。


 冷静になって考えてみれば、また同じように局部が関わる話をあの丹波ちゃんに触れさせることになってしまう。できる限り彼女の前で、いや、他のサークル員にその話はしないようにしようと、自分に念押しをした。


 高揚と不安が折り重なって、波のように押し寄せてくる。責任が自分の足を縛り付けて、動けなくする。


 彼女の幻影ミューズを、俺は見た。彼女の笑みとさよならを告げる声が、懐かしい、在来線の音に紛れて聞こえてくる。



 なあ、月葉つきは

 俺は、寂しいよ。



 頑張って、大学に入ったけれどさ、ここには、俺の絶望を簡単に変えてくれるようなものは、何もなかった。


 俺はこの大学生活に、何を見出すのだろう?



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