シェフターリの誘惑

悠井すみれ

第1話

 彼はシェフターリのことが好きだった。

 たとえ彼が皇帝の血を引く皇子のひとりでも、宮殿サライにいる女奴隷ジャーリエの数がいかに多くとも、彼女シェフターリほどにしてくれる者はいないから。


 未熟な青臭いメロンカヴンに蜂蜜をかけたり、宮殿サライを律する沈黙の掟を破って歌を歌ったり。


「シェフターリ。来て」

「はい、殿下」


 闇に包まれた寝室に、猫のようにするりと忍び込んだり。

 寝台が微かに軋み、柔らかく温かい肢体が彼に寄り添う。鼻先から侵入はいり、肺を満たし脳髄を痺れさせる甘い香りは、たぶん桃のそれではない。甘いだけでなく微かな酸味を帯びて、粘りつくように重い。包み込まれると、安心する。


 しなやかな指が彼の髪を梳き、耳の裏をなぞり、首筋に辿り着く。蛇に絡みつかれたよう。でも、シェフターリの指は蛇の鱗などとは違って温かく優しい。


 指先と同じく優しく、香りと同じく甘やかな声が彼の耳に囁く。


「今宵もお眠りになれない?」

「うん」

「十にもなる御方が、仕方のないこと──」


 くすくすと笑う吐息がうなじを撫でるくすぐったさに、彼は身をよじる──けれど、シェフターリの左腕が枷となって動けない。剣を持ったこともない女奴隷ジャーリエの癖に、この娘の力はやけに強い。

 あるいは、彼のほうで逃げてはいけないと心得ているからだろうか。この後の、後ろめたく蕩けるような心地良さを、彼はよく知ってしまっている。


「ぁ」


 彼の唇から、あえかな喘ぎが零れた。


 シェフターリの右手が彼の首をしっかりと覆い、五指に力を込めている。頸動脈の流れが妨げられて、頬に溜まる血が、熱い。肺が新鮮な空気を求めて痛み、生命の危機を感じた心臓が激しく脈打つ。そうして、かえって彼に生の実感を与えてくれる。


 ああ、生きている。


 息苦しさに朦朧としながら、彼は女奴隷ジャーリエを見上げてふんわりと笑んだ。霞む視界に映る彼女の顔はぼやけ歪んで、水──違う、温かい湯に沈んで見上げるよう。

 シェフターリの手に重ねた彼のそれが、ぴくりと痙攣する。苦しい──気持ち良い。目の前が暗い──ちかちかとする。シェフターリと星空に浮かんでいるよう。このまま目を閉じたら、きっとすごく安心する。もう二度と目覚めたくないくらいに。でも──


「──っ、は」


 不意に肺に流れ込んだ息の激しさに、彼は咳き込んだ。口中に溜まっていた唾液を、絹の褥に吐き出して。彼の口元を拭いながら、シェフターリは笑う。


「十、数えました。これ以上はいけません」

「……うん」


 もう一度、と言いたいのを呑み込んで、彼は頷いた。どきどきと高鳴ったままの心臓を抱えて、柔らかい女の身体にしがみつく。仮にも皇子の首を絞めよ、などという願いを叶えてくれるのはこの女だけ。だから彼はシェフターリが好きだった。


 この国には、帝位を継がない皇子は新帝の即位に伴って殺される倣いがある。地上に帝王はただひとり、無用の争いを招かぬために。

 新帝の最初の命令は弟たちの死を命じること。その名を受けた無言の処刑人は、幼い皇子の寝室に押し入って、絹の布帛を細い首に巻き付けて締めつけるのだ。


 そう聞いた時、彼はすでに死んだ身なのだと知った。怖かった。悲しかった。泣いた。そして怒って父と母を詰った。彼にはすでに年の離れた兄たちがいる。どうせ殺すのにどうして生んだ、と。

 乳母ダーエ守役ダドゥも締め出して、部屋にこもって泣き叫んで──癇癪を起した末に、彼はターバンを手に取った。いずれ来る死に怯えて生きるよりも、自分でを選んだほうが良い。

 ターバンを首に巻き付けて、さて次はどうすれば良いのかと、窓やら家具やらを見渡していた時──甘く重い香りが、彼の喉を塞いだ。と、感じられた。


 ──尊い肌に痕が残ってはいけません。もっと良い──気持ち良いを教えて差し上げましょう。


 それ以来、彼はシェフターリの手指によって何度となく忘我の境地を楽しんだ。頭が痺れるような苦楽の狭間、生死のあわい。揺蕩って、浮かんでは沈んで。そして我に帰れば女が柔らかく優しく出迎えてくれる。抱き締めてくれる。

 この女奴隷ジャーリエのお陰で、彼は安眠を取り戻した。父の死と共に兄に殺される運命を、どうにか忘れられている、だろうか?


「おひとりで眠れるようになりましょうね。いつまでこうできるか分からないですもの」


 どこまでも優しい囁きが、けれど無慈悲な刃のように彼の胸を貫いた。この女を失うことは、今や死ぬよりも辛く恐ろしい。


「いやだ。そんなの」


 女奴隷ジャーリエが打算なく危険を冒すはずがないのは分かっている。皇子の秘めた望みを叶える見返りを、彼は暗に求められている。──良いだろう。


「こうすれば良いんだろう? 兄上も、父上も」


 シェフターリの喉を両手で捉えると、血が流れる音が、鼓動が掌を通して。相手の命を掌中に収める感覚は、こんなにも血を滾らせ彼を昂ぶらせる。頭をのけぞらせる女奴隷の、苦痛も快楽も身をもって知っているからなおのこと。


 彼はシェフターリが好きだった。この女のためなら何でもできる。

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