その旅路、遥なり
神崎あきら
第1話
残照が鱗雲を茜色に照らしている。この間まで残暑が厳しかったのに、秋も足早に過ぎていこうとしているように思えた。豊かに実った稲穂が涼しい秋風に揺れている。
乾いた稲の匂いが懐かしく、
孫景はトレードマークのフライトジャケットのポケットに両手を突っ込み、西日が差し込む埃っぽい倉庫に足を踏み入れる。倉庫には古びた二トントラックが停まっていた。
「時間通りだな」
日焼けした髭面の男がトラックの前に立っている。擦り切れたジーンズに黄ばんだ白いTシャツをまくり上げて腹を丸出しにしている。中国の農村風景、オヤジのビキニスタイルだ。本人は涼しくていいのだろうがオヤジのの太鼓腹を見せられているこちらはいただけない。
「明日の正午までに上海黄浦江の倉庫へ運んでくれ。高速は使うな、監視カメラに映るとまずい」
男が孫景にトラックのキーを投げてよこす。
「ここから地道か、面倒だな」
孫景はチッと舌打ちをする。
「文句を言うな、ブツを運ぶだけで大金が手に入るんだ。それと、そこの男が今回の相棒だ」
「なんだと」
そんな話は聞いていない。孫景は眉をしかめ、影の中にいる男を見やる。細身で長身の男は無言のまま微動だにしない。この至近距離で気配を一切感じさせないことに微かな畏怖を覚える。
「ここから上海まで約500キロ、ちょっとしたドライブだ。運転も交代ができれば楽だろう」
文句を言うなということか。孫景は観念して荷台の荷物を確認し、トラックの運転席に乗り込んだ。使い倒したカーキ色のリュックを後部座席へ投げ込み、エンジンをかける。一呼吸置いて荒々しい音を立ててエンジンが回り始めた。古い車両なので振動が酷い。クッションも最悪だ。ここ温州から上海まで悪路500キロの旅とは思いやられる。
助手席に相棒となる男が乗り込んできた。黒いサングラスをかけ、唇を一文字に引き結んでいる。黒いコートに仕立ての良いスーツ、臙脂色のネクタイを締めて洒落た格好をしている。何の仕事か聞いていないのか、孫景は怪訝な顔で男を値踏みする。
「俺は孫景、よろしくな」
男は孫景を一瞥し、無言のままだ。色白の生っちょろい肌をしている。まだ年も若い。
「名乗らないのか」
孫景は男の無愛想な態度に苛立つ。
「名前などどうでもいい」
「なんだと」
孫景は思わず声を荒げる。孫景のいかつい外見、腹の奥に響くの大声にも男は動じない。
「早く車を出せ。夜が明けるまでこうしているのか」
孫景は歯噛みした。しかし、ここで仲間割れしても仕方がない。ギアを入れ、トラックを発進させる。倉庫を出て、埃舞う農道を北へ走り出す。舗装の無いでこぼこ道にクッションの悪いトラック、相性は最悪だ。水たまりを避けてハンドルを切る。左右に揺れる車体は不機嫌そうに廃ガスを吹き出しながらガタガタと音を立てている。
「お前も運び屋なのか」
舗装された道に出て、孫景は助手席のふてぶてしい相棒に声をかける。
「……違う。本業は暗殺」
「殺しのプロが、なんでこの仕事に呼ばれた」
「バイトというやつだ。この時期は閑散期でな」
「殺しの仕事も旬があるのか」
人の本業をバイトというのも癪に障るが、一応会話はできるらしい。この男は綺麗な標準語を喋る。孫景は自覚しているが、南部なまりがきつい。
窓の外はいつしか日が落ちて紫色の空には星が輝いている。
ヘッドライトが古びたコンクリートの道路を照らす。夜道に対向車は少ない。のんびり走る農家のトラックや普通車を追い越して時間を稼ぐ。
「お前は運び屋を何年やっている」
寝ているように静かだった男が再び口を開いた。
「そうだな、ガキの頃からトラックを転がしてたな。かれこれ十年にはなるか」
男はサングラスを取り、胸ポケットにしまった。切れ長の瞳、高い鼻筋、モデルのような端正な顔立ちだ。
「お前の運転はヤバい」
「……なっ」
孫景は言い返したくなるのをぐっとこらえた。自分がもう五年若ければ裏拳を飛ばして減らず口を叩けないよう気絶させているところだ。孫景は大人になった、と自分を褒めた。
「お前、本当に態度悪いぞ」
「腹が減ったな」
田舎の町並みを眺めながら男が呟く。何だこいつは全く人の話を聞いていない。孫景はあきれ果ててため息をついた。
トラックを道ばたに停める。オープンテラスと言えば聞こえがいいが、埃っぽい屋外にプラスチックのテーブル、丸椅子を置いている小さな田舎食堂に立ち寄る。トラックは目の届く場所で監視が必要だ。
「この辺の地のものを適当に見繕ってくれ」
男は椅子に座って真鍮のジッポでタバコに火を点けている。孫景は良いご身分だなと苦言を呈そうとしたが、男の視線はトラックの方を向いている。役割分担を考えてのことかと合点がいった。
「こんばんは」
店内の円卓では家族連れやおっさん同士が賑やかに飯を食っている。小汚い食堂だが、味は間違いない。
ガラスケースに並ぶ食材を選べばアドリブで調理をしてくれる方式の店だ。メニューはない。冬瓜、ナスとピーマン、小さな川魚、鶏肉、枝豆を選んだ。メインは高菜チャーハンだ。ビールを飲みたいが、運転役なので我慢する。孫景はミネラルウォーターのペットボトルを二本買い、テーブルに戻った。男は長い脚を組み、タバコを吹かしている。
「一本くれ」
男は無言で赤いマルボロを箱ごと投げて寄越す。この無愛想ぶりにも慣れてきた。孫景はライターで火を点けて煙を吐き出した。
「この先の街で一泊するか」
孫景の提案に、男は最後の紫煙を吐き出し、タバコを地面に捨てて靴底で火を消した。
「このまま進み続ける。運転は交代してもいい」
こいつが運転をするというならそれでもいいか、と孫景は考えた。上海まで高速を使わずに行けば八時間はかかる。運転は好きだから苦にはならないが、この男が横で何もせずにいるのにずっとハンドルを握っているのは癪だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます