5話:嵐の兆候
──数日後、ワシントンD.C. アメリカ国務省本庁舎の記者会見室──
イーサン・コールドウェル氏はことし39歳。ワシントンD.C. に本拠をおいた企業ワシントン・ポストにつとめている。ワシントン・ポストのような大手新聞社では、フルタイムの正社員記者にはバイウィークリーで給料が支払われており、隔週給は4,615ドル(約70万円)。年俸は12万ドル(約1,800万円)であった。フリーランス寄稿やコメンテーターとしての副収入も時たまあり、総収入で14万ドルが超えることもあった。ワシントンD.C.の平均世帯年収は約85,000ドル、平均を上回る高水準だと言えた。
メトロバスを用いてワシントン・ポスト本拠まで40分ほどに位置するジョージタウンに住まいはある。20年のローンが残っているが、一軒家の持ち家であった。生活は少しばかり苦しい、少なくとも彼はそう感じていた。
年利4%のローンの年間支払額は48,000ドル(約740万円)。とどまることを知らない物価の上昇を前に、彼の正社員としての年収12万ドルからすると、やや負担が大きい感は否めなかった。
家庭では、目の下にクマを作った妻エミリーが、生まれたばかりである次男をあやしているはずだ。かつて、ありあまるほどのパワフルさでマーケターとして働いていた妻。子育てのため、専業主婦となった彼女にワーカーのときの面影はすでにない。教育に関して、特別な思想を持っている妻は、5歳になる長男を私立幼稚園に通わせていた。コールドウェルの資質を受け継いだ長男はマナチャンネル(先天的に魔法を扱える資質)を持っており、妻は長男を人後に落ちない魔法使いへと育て上げようというのだった。現代社会において、魔法の資質を磨き上げることがどれほど意味のあることなのか、コールドウェルは懐疑的だったが、家庭内に余計な不和を生まないため、妻の教育方針に口は出さなかった。次男もきっとそうなるのだろう。住宅ローンと子供の教育費、それが彼の頭痛の種だった。
平均的な意味合いで良き夫であり父であろうとするイーサン・コールドウェルは一見十分と言える正社員としての収入を得つつも、それ以上にフリーランス業による副次的な金銭的報酬をもとめてやまなかったのである。
その日、コールドウェルはアメリカ国務省本庁舎の記者会見室、その前列中央に陣取っていた。
彼のノートPCの画面には、「日本とマナシンクロナイザーを取り巻く国際情勢」と仮タイトルのついた下書きが開かれている。
この記者会見には、CNN、BBC、NHKといった世界中の報道機関の記者が集まっていた。すべての視線が壇上に向けられていた。
「お集まりいただきありがとうございます。 本日は、日本が開発した薬剤、マナシンクロナイザーに関する見解についてお話いたします」
報道官が言葉を発し始めた。
「先日から、日本とマナシンクロナイザーのライセンス生産を含めた輸入について交渉を開始しました。 しかし、この薬剤はまだ試験段階にあり、実用化されていないため、日本は独自管理の方針を主張しています。 そのため、アメリカへの輸入については合意に至っていません」
すでに秋であるというのに、室内には形容しがたい熱量であふれていた。報道官は水を一口含んで続ける。
「アメリカとしては、マナシンクロナイザーが地域の安全保障に及ぼす影響を慎重に検討しています。 何かご質問はありますか?」
コールドウェルが手を挙げると同時に、隣にいるBBCの女性記者も手を挙げた。彼女は名門私立大学を卒業した英才であり、男性の股間を熱くさせる魅力な肢体を備えた女性だった。報道官はその女性を指した。
「マナシンクロナイザーの軍事利用について、アメリカはどのように対応するのでしょうか? 日本との協議は進んでいるのですか?」
「軍事利用に関しては、日本政府が慎重な姿勢を示していることを承知しています。 アメリカも同様に、国際的な平和と安定を損なう方向に利用されないよう、協議を続けています。 現在、具体的な介入の必要性はないと考えています」
間髪を入れずに別の男性が手を挙げた。アジア方面の国際的な観点において、いささか以上に特殊な思想を持つフリーのジャーナリストとして有名な男だった。
「中国国防省は、マナシンクロナイザーによる軍事力強化と、昨年の日本国憲法第九条改正を踏まえ、日本の軍国化を指摘しています。 東アジア地域での外交的・軍事的圧力を強めている状況について、アメリカはどのように考えていますか?」
「アメリカは常に同盟国との協調を最優先にしています。 昨年の憲法第九条改正は、条文と運用上の実態の乖離を是正するものであり、日本の国家主権に基づく当然の権利行使だと理解しています」
「では、アメリカは日本の自立した防衛を支持するという理解でいいのでしょうか?」
「日本の国家主権を支持する、という認識で間違いありません」
「つまり、アメリカは日本に対して『単独で戦え』と促していると解釈してよろしいのでしょうか?」
これこそがいささか以上に特殊な思想を持つと言われる所以だった。彼はアメリカが世界に果たすべき責務に対し、王道的な考えの持ち主だった。その性質ゆえ、報道官には嫌われがちだったが、聞きたいことを引き出してくれる点で他のジャーナリストからは好かれていた。あくまで実務的な意味合いにおいてだが。報道官はにこやかに微笑みながら、模範的な答えを返した。
「我々は、日本の独立した防衛能力を尊重しているだけです」
コールドウェルは小さくため息をついた。こういう答えが返ってくることは予想していた。彼の手はすでにノートPCのキーボードの上を滑り始めていた。
ワシントンは、日本の独立を支持すると言いながらも、その真意は別のところにある。マナシンクロナイザーの確保こそが、本当の狙いなのだ
記者会見が終わると、彼は急いでスマートフォンを取り出し、東京の情報筋にメッセージを送った。
記者会見を見ているか? 日本政府内の反応を知りたい
短い返信が返ってきた。
官邸内では慎重な姿勢。 しかし、一部の高官はすでにアメリカの意図に気づいている
コールドウェルは軽く笑い、コーヒーを一口飲んだ。彼の記事のタイトルは決まった。
日中有事に対するアメリカの本当の意図とは?
カメラのフラッシュが飛び交う記者会見室で、コールドウェルは深いため息をついた。
マナシンクロナイザーと日本、中国、そしてアメリカを結びつける視点は、彼だけのものではないが、どれほどの人間が気づいているだろうか。そこまで多くないに違いない。
アメリカと中国、大国間の思惑に挟まれ、木の葉のように揺れるしかない日本に同情する気持ちはあるが、コールドウェルの側面では日中有事を望んでいた。もし日中有事が発生するとしたら、すでに原稿を用意している彼が報道の主導権を握れるはずだし、最高にうまくいった場合、彼の頭痛の種である家計に少しばかり以上の余裕が生まれるかもしれない。そうなれば、エミリーの笑顔も戻ってくるはずだ。子供たちの教育費の心配も少なくなるだろう。
平均的な男性であるイーサン・コールドウェル氏にとって、遠い異国で起こる実感しづらい不幸より、目の前の家庭こそが確かなリアルである、平均的とはそういうことだった。
──今夜はいつもより早く帰ろう。
ジョージタウンの自宅では、エミリーが次男をあやしているはずだ。
長男のノアは、もう眠っているだろうか?
最近、妻との会話は減っていた。家計のこと、子供の教育のこと。口を開けば、何かしらの不満をぶつけられるようになっていた。
エミリーが彼に冷たくなったのは、彼女のせいではない。彼自身が、家にいる時間が減り、仕事にのめり込んでいたからだ。
「帰ったら、ノアに恐竜の本でも読んでやるか……」
イーサン・コールドウェルはそう思いながら、記者会見室を後にした。
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