第18話 …ありがとね

学校からの帰り道、俺はいつもより遠回りをして帰ることにした。何となくまっすぐ家に帰る気分じゃなかった。夕方の柔らかい日差しが街を照らしていて、通りを歩く人たちもどこか穏やかに見える。


ポケットに手を突っ込み、指先でペンダントをいじる。何も起こらなかったけど、ふとした拍子にまた震えたり光ったりするんじゃないかと思っていた。しかし、今日は静かなままだ。まるで何事もなかったかのように、冷たい感触だけが指に伝わる。


「特に反応はないか…」


少しホッとするような、少し拍子抜けするような気分で足を進める。昨日のような非日常がもう一度起こるなんて、正直考えたくない。でも、何かの拍子にまた――なんてことも頭の隅で考えてしまう。



歩いているうちに腹が減ってきた。ちょうど目の前にコンビニが見えてきたので、軽く買い食いでもしようと店に入る。自動ドアが開く音とともに、冷たい空気が肌を撫でた。


「何にしようかな…」


棚を見渡しながら、菓子パンを一つと、缶コーヒーを手に取る。いつもならそれで終わりだけど、今日はちょっと変わった行動をしてみる気になった。レジに並びながら、店員さんの動きを観察してみる。丁寧に袋詰めをしているその姿に、ふと感謝の言葉が頭をよぎった。


順番が回ってきた時、俺はお金を渡しながら小さな声で言った。


「ありがとうございます。」


それだけのことなのに、店員さんは少し驚いたように顔を上げて微笑んだ。


「こちらこそありがとうございます。またお越しください。」


その一言が、思った以上に心地よく感じた。たったそれだけのことで、俺の中にほんのりとした温かさが広がった。


買ったものを手にして店を出ようとした時、ドアの向こうから中に入ろうとしている人が見えた。普段なら気にせず通り過ぎるところだけど、今日はなぜか手を伸ばしてドアを開けてあげた。


「どうぞ。」


言葉が口をついて出たのは自分でも驚きだった。その人は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに柔らかな笑顔を浮かべて頭を下げた。


「あ、すみません、ありがとうございます。」


その言葉に思わず「いえいえ」と返してしまった自分が、なんだか可笑しかった。普段ならしないことをやった結果、予想外の反応をもらえるのが少し嬉しかった。


店を出て歩き出しながら、缶コーヒーを開ける。炭酸がはじけるような音とともに、冷たいコーヒーの香りが広がった。


「こういうの、案外いいな…」


ふと呟くと、軽く笑いがこみ上げてきた。店員さんや通りすがりの人とのやりとりはほんの一瞬だったけど、いつもなら気にも留めないような些細なことが、今日はどこか特別に思えた。


家に向かって歩きながら、ペンダントの存在を忘れるくらい穏やかな気持ちでいた。非日常な出来事が起こらなくても、こうやって誰かとの小さなやりとりで気分が良くなるのも悪くない。


俺は菓子パンをかじりながら、少しだけ自分を好きになれた気がした。



家に帰ると、妹がリビングのソファに座ってスマホをいじっていた。制服を脱いで部屋着に着替えた俺がリビングを横切ると、妹がちらっとこちらを見る。


「おかえり~。何その顔?なんかあった?」


「ああ、別に何もねえよ。ただいま。」


いつもなら適当に返して自分の部屋に直行するところだが、今日は少し違った。何となく、妹と話してみてもいい気がしたのだ。


「なんかお前、また同じゲームやってんのか?」


妹がスマホをいじる手を止め、驚いたようにこちらを見た。


「え、どうしたの?珍しく私に話しかけてくるじゃん。」


「いや、ただ目に入っただけだって。どんなゲームやってんのか気になっただけ。」


そう言いながらソファの背もたれに軽く手を置くと、妹は少し得意げに画面をこちらに向けてきた。


「これ、最近流行ってるやつだよ。育成ゲームなんだけど、キャラがめっちゃ可愛いの!」


画面には、確かに派手な衣装を着たキャラクターが表示されていた。俺はあまり興味がなかったけど、「ふーん」と相槌を打つ。


「よく飽きねえな。前も似たようなのやってただろ?」


「こういうの、何回やっても楽しいんだよね。お兄ちゃんには分かんないでしょ?」


妹はそう言いながら、わざとらしく笑う。それがいつもの調子で揶揄っているようにも見えたが、その目はどこか嬉しそうだった。


「まあ、お前が楽しいならそれでいいんじゃないか。」


「…え?何それ、急に優しいこと言うじゃん。今日どうしたの?なんか悪いものでも食べた?」


妹は目を細めて疑うような視線を送ってきたが、口元には小さな笑みが浮かんでいる。


「いや、別に。お前が機嫌いい方が家が静かで助かるからな。」


適当に誤魔化しながらリビングを離れようとすると、妹が小さく呟く声が聞こえた。


「…ありがとね。」


「え?」


「何でもない!」


振り返ると、妹はスマホに視線を戻していたが、耳がほんのり赤くなっているのが見えた。俺は少しだけ笑いをこらえながら、自分の部屋に向かった。



部屋に戻り、机にペンダントを置く。今日も何事もなく終わったけど、少しずつ自分が変わっているのを感じる。人とのやりとりが、こんなにも気分を良くしてくれるなんて思わなかった。


「…明日もこんな感じでいくか。」


ベッドに転がり、スマホを手に取る。家族との何気ない時間が少し心地よく感じられるようになった自分に、俺はほんの少しだけ満足していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る