第8話 落ち着ける場所を探さないと

霧が薄れて、周囲の景色が少しずつ戻ってきた。足元には見覚えのあるリュックがぽつんと転がっている。僕が家を出る時に背負っていたものだ。視線を落とし、そっと拾い上げる。中を確認すると、教科書や筆記用具、そしてコンビニで買った菓子パンがそのまま入っている。


「これは…僕のだよな。」


当たり前だ。でも、目の前で広がる異常な出来事が、日常の記憶を遠いものに感じさせる。まるでリュックの中身が、もう一人の自分の遺品のように思えるほどだ。


一方で、僕の外見は――いや、もはや「僕」と呼べるのかすら怪しい。肩まで伸びた黒髪、しなやかで細い腕、鏡を見なくてもわかる美少女の姿。それが今の僕だ。


「これで帰るなんて無理だよな…」


苦笑しながら水たまりに映る自分を眺めた。制服姿の男子高校生の影はどこにもない。あるのは、魔法少女の姿をした誰かだ。家族やクラスメイトにこの姿を見られたら、どれだけ説明しても信じてもらえないだろう。それに、この姿では母親にも田中にも僕だと認識されないはずだ。


「とりあえず、連絡を入れないとな…」


僕はリュックからスマホを取り出した。手袋越しに画面をタップするが、指紋認証が反応しない。そうだ、今の僕は元の体じゃない。指紋も声も、何もかもが変わっているんだ。


「パスコードでいけるかな…」


慎重にパスコードを入力すると、画面が開いた。いつもと同じホーム画面のはずなのに、なんだか別人のスマホを使っているような気分だ。


まず田中だ。さっきの異常な空間で、彼は無事に逃げられたのだろうか。とはいえ、この姿で声をかけるのは危険すぎる。直接連絡を取るより、様子を見る形にする方がいいだろう。


<メッセージ:田中>

【大丈夫か?急にいなくなって心配してる。無事なら返信くれ。】


簡潔に、今の僕から直接の関与を疑わせないような言葉を選ぶ。すぐに既読が付く気配はないが、それはそれで問題ない。田中の無事が確認できればそれでいい。


次に、家族への連絡だ。家に帰らないとなると、母親には理由を伝えておかなければならない。特に妹の美羽(みう)は何かと僕の帰宅時間を気にしている。普段なら「また遅刻したの?」とか「塾の帰りに寄り道してるわけ?」なんて嫌味を言われるが、今日はそんなやりとりすら難しい。


<メッセージ:母>

【今日は友達の家に泊まることになった。急だけど、明日には帰るから大丈夫。】


送信ボタンを押して数秒後、母親からの返信が返ってきた。


<返信:母>

【わかった。明日はちゃんと帰ってくるのよ。美羽にお土産でも買っておいてね。】


ほっと息をついた。母親はいつも通りだ。この程度の嘘なら簡単に通るのがありがたい。僕が家に戻れない理由を追及される心配はなさそうだ。


「それにしても…これからどうするんだ?」


僕はスマホを見つめながら呟いた。友達の家に泊まるといっても、それが事実になるわけじゃない。元の姿に戻らなければ、どこにも行けない。今のこの姿で人前に出る勇気なんてないし、説明のしようもない。


「くそ…どうやって戻るんだよ。」


もう一度ペンダントを手に取って眺める。だが、どう見ても普通のアクセサリーにしか見えない。さっきのように光を放つこともなく、ただ無機質にそこにあるだけだ。変身する方法はわかったが、戻る方法は何一つ手がかりがない。


「これじゃ…今日はどこにも行けないじゃないか。」


ため息をつきながら周囲を見渡した。辺りは元の世界に戻っている。少なくとも、さっきの異常な空間からは脱出できたらしい。でも、それだけでは問題は解決しない。


「ひとまず、落ち着ける場所を探さないと。」


家に帰れない以上、どこかで時間を潰すしかない。リュックを背負い直し、これからの行動を考えながら歩き出す。戻れるまでには、まだ多くの困難が待ち受けていそうだった。

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