針の音

遠藤みりん

第1話 針の音

 針の音が鳴り止まない。


 最初は気付かない程にとても小さな音だった。音は徐々に近づき、いつのまにか耳元まで迫って来ていた。

 今では鼓膜にねっとりと張り付き決して消えることのない針の音。早く時計を止めなくては。


 俺は今、売れない作家をしている。数年前にある小説のコンテストへ応募し、それが見事に賞を取った。瞬く間に書籍化になり、それなりに売れた。初めて印税を手にした時の喜びは忘れられないだろう。

 自信を付けた俺は勢いで仕事を辞め、それ以来作家を名乗っている。


 しかしここ数年は本を出せていない。それどころか書くことさえ全く出来ないのだ。

 アイデアはふつふつと湧くが、結末まで書き終える事なく、煙のように消えてしまいこの手をすり抜けていく。その連続だった。

 前職で蓄えた貯蓄は底が見え始め、時間だけがただ過ぎていく。気が付けば、もう中年と呼ばれるには充分な年齢となり、俺は焦っていた。

 ある夜、いつものように書けない小説に頭を悩ませていた。机の灰皿には煙草の吸い殻が溢れかえり、破り捨てた原稿は部屋中に散乱している。


「書けない、書けない、書けない」


 気がつけば独り言を呟いていた。徐々に、そして確実に減っていく貯蓄に反比例して増えていく破られた原稿の山。部屋の掃除まではとても手が回らない。

 破られ、丸められた原稿の山を眺めていると自分に才能が無いと改めて突きつけられているようだった。


 俺は相当、追い込まれていた。


 椅子に座り頭を抱え、髪を掻きむしっていると、ふとある音か気になり始めた。


“チッチッチッチッ”


 音の正体は、無機質に鳴り響く規則正しい、時計の針だ。どうして今まで気にならなかったのだろうか。しかし意識してしまうとそればかりが気になってしまう。

 気にするほどに音は大きくなっていくような錯覚を覚える。


 俺は音の出所を探した。それは壁に掛けられた時計だった。猫のシルエットになっており、秒針に合わせて尻尾が揺れる仕組みだ。

 デザインが気に入り購入した掛け時計、しかし針の音で気が散ってしまいこのままでは執筆どころではない。時間が見れないのは不便だが、壁から時計を外し、時計を止めた。

 

 針の音は止まり、部屋には静寂が戻った。俺は時計をクローゼットの中へ乱雑に片付けると仕事を再開させる為に机に戻った。

 

 針の音が消えたとは言え、執筆が進む事はない。諦めた俺はベッドに入った。


“チッチッチッチッ”


 しかし夢の中に入る瞬間、針の音は聞こえてきた。眠りに落ちるタイミングを逃し、俺の目は完全に覚めてしまった。

 リビングの時計は止めた筈だ。一体何処から聞こえてくるのだろうか。時計を探すには面倒だが目を閉じても眠れそうにない。俺はベッドから起き、時計を探すことにした。


“チッチッチッチッ”


 音の出所はどこだろうか、まずはクローゼットを開けてみた。さっきしまった猫の掛け時計は確かに止まっている。クローゼットを覗き込み耳をすませてみても針の音は聞こえない。どうやらクローゼットには時計はないようだ。


“チッチッチッチッ”


 気のせいだろうか、音が更に大きくなる。クローゼットの扉を締めてリビングを手当たり次第に探す。部屋中の棚を開き時計を探したが何処にも見当たらない。

 床に破り捨てられた原稿が歩くのを邪魔をする。


「どこだ、どこだ、どこだ」


 いつのまにか独り言を呟いていた。苛立ち始めた俺は棚に入ってる物を掻き分け時計を探す。しかし時計は見つかることはない。

 

「見つからない、見つからない、見つからない」


“チッチッチッチッ”


 音は更に大きくなり、まるで神経を刺すように響く。

 リビングにはないようだ、俺はキッチンまで歩き、冷蔵庫を開けた、冷気がひやりと顔を撫でる。

 こんな所に時計はあるはずないだろう。俺は冷静を欠いてしまっていた。

 冷蔵庫に入っている食品や調味料を床にばら撒き、奥まで時計を探したがもちろん見つからない。


“チッチッチッチッ”


 針の音は俺をあざ笑うように聞こえてくる。すぐ耳元で鳴っているようだ。一体、時計は何処にあるのだろうか?俺は部屋を眺めたが酷く散らかった部屋に時計は見つからない。


“チッチッチッチッ”


 バスルームの扉を開ける。見渡しても時計などない。それでも針の音は消えることはない。俺は扉を強く閉めた。


“チッチッチッチッ”


 ここはアパートだ。もしかして隣の部屋から聞こえてくるのではないだろうか?俺は、壁にぴたりと耳を当てて音の出所を探した。聴覚に神経を集中させる、額に汗が滲んできた。

 一通り、壁越しに音を探してみても見つからない。


“チッチッチッチッ”


 探すのに疲れ果てた俺は床に座り込み、頭を抱えた。

 針の音は絶えることなく頭の中に響いてくる。

 もう一度、目を閉じて音に集中してみた。すると不思議なことに、身体の中から鳴っているように感じた。


「そんな筈はない」


 独り言を呟くと、俺は身体中を探ってみた。衣服をくまなく探す。やはり音のするような物はない。俺は無我夢中で全身を探した。

 音は一層強くなり全身を刺すように鳴り響いていた。


「一体、何処なんだ。早く見つけないと頭がおかしくなる」


 俺は衣服を脱ぎ捨て裸になる。それでも針の音は鳴り止むことはない。


「見つからない、見つからない、見つからない」


 次第に爪を立て体を掻きむしりはじめる。爪は割れ、掻きむしった傷跡から血が滲み出してくる。

 ふと、血だらけになった右手を左胸に当ててみた。


“チッチッチッチッ”


「やっと見つけた。ここだったか」


 針の音はどうやら心臓から鳴っているようだった。


「早く針の音を止めて、眠ろう」


 俺は机の上から商売道具であるペンを取り出すと左胸に深々と突き刺した。


“チッチッ……”


「やっと、止まった」


 俺は、床には溢れ出した血液の上に倒れ込み静かに目を閉じた。


 針の音は止まった。



 




 

 







 



 



 

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