第7話 頂点の疾走 その1
小次郎は、夢を見ていた。
六年前、紗々を留学へと送り出した、あの日――
「ねーちゃん行っちゃやだぁぁぁぁぁ!!」
空港の、天下の往来で、幼い小次郎は激しく泣いた。
紗々が、海外留学してしまうからだ。
「やだ……行かないでねーちゃん!おれ良い子になるから!ねーちゃんのベンキョー邪魔しないから!シイタケちゃんと食べるから!」
優しい義姉が行ってしまう。
夢だった、ヴァルキリーになる為に。
遠い異国の、全寮制の学校に行ってしまうのだ。
小次郎は泣いた。母の夜子が、うんざりして耳を塞ぐほどに泣いた。
「コジロー、本当にごめんなさい」
紗々は、つい数週間前に小学校を卒業したとは思えない、優しい大人びた笑みで、しゃくり上げる小次郎の頭を撫でた。
「夜子ママを守ってあげてね。私も諦めない……絶対強くなって帰ってくるから」
小次郎の視界は涙で歪んでいたが、それでも、紗々の瞳は優しく、そして力強いことが十二分に見て取れる。
「お姉ちゃんみたいな……ううん、お姉ちゃんよりも、速いヴァルキリーになるから……!」
「…………」
幼いながらに、小次郎は理解する。
いくら泣こうが喚こうが、
「……ばるきりーになったら、おれもマシンに乗せてくれる?」
観念した小次郎の問いに、紗々はその小指を、小次郎の小さい小指に、絡ませてくれた。
「うん、一緒にドライブしようね……!」
※※※※
「コジロー……コジロー?」
「うぅ~~ん…………は!?」
耳をくすぐる優しい声に、小次郎は覚醒する。
「コジロー?大丈夫――」
「ねーちゃ……どああっ!?」
目の前に大好きな紗々の顔が、瞳が、唇があるものだから、小次郎は驚いて、NSXの天井に頭をぶつけた。
「痛…………っってぇっ!!」
「……大丈夫?」
「だ、大丈夫大丈夫……」
……しょうじき、滅茶苦茶痛い小次郎だったが、紗々の前で悪い格好は出来ない。
「やっぱり、眠たかった……?」
「…………」
小次郎は何も言えない……。
まさか、紗々の走りに
凄まじい急加速。瞬間的な車線変更に伴う、横Gの連続に、小次郎の意識はものの見事にノックアウトされてしまったのだ。
「コジロー本当に大丈夫?何か飲む?お茶?コーヒー?それともコーラ?」
「えっと……温かいお茶が、できればほうじ茶――」
そこまで言って、小次郎はハッとした。
首を傾げる紗々の背後で、真紅のラ・フェラーリが停まっているのに気付いたからだ。
先ほど、NSXを追い駆け回していた、あのラ・フェラーリ……そのガルウィングドアが開く。
車内から、ヴィンテージのデニムに包まれた、細い脚が伸びる。
朝日に、蜂蜜色のポニーテールをなびかせて、鋭い目付きの少女が姿を見せた。
やはり……!小次郎は息を飲んだ。
この少女を、知っていたからだ。
顔見知りではない……が、有名人だ。
確か……昨年のブリッツ・ヴァルキリーに出場していた――
「ジーニアスの妹……志奈村 しのぶ……だ!!」
※※※※
「何だ何だ?期待のルーキーは朝っぱらから彼氏とデートかよ?」
冷やかしの笑顔、歩み寄って来たしのぶに、紗々は改めて向き直る。
「コジローは私の弟です。彼氏なんかじゃありません」
『彼氏なんかじゃない』と言われた小次郎が助手席で項垂れた……のに気付かず、紗々はしのぶに向かって頭を垂れた。
「改めて、月美 紗々と申します」
「志奈村 しのぶ。お前より0.3秒速ェ女だ」
差し出されたしのぶの手を、紗々はドライビング・グローブを外した手で、確りと握手した。
「存じております。先年のブリッツ・ヴァルキリー……留学先で拝見させて頂きました。素晴らしい走りでした……!」
「そ、そう……?」
握手したまま、紗々は真っ直ぐにしのぶを見た。
その、白肌の頬が、興奮に紅潮する。
「最終戦のスピンアウトは本当に惜しかったです……!でも、タイヤが磨耗しきっているでしょうあの最終コーナーで、臆することなく突入するあの度胸……決して諦めない精神……!私、感動いたしました……!」
「あ、あ、ありがとな……」
小鳥の囀ずるような美声でありながら、饒舌に称賛する紗々。
しのぶは、たちまち紗々に気圧された。
※※※※
紗々は、握手したまま、しのぶの手を離さない。
てっきり、『いきなりハイウェイでバトル仕掛けてくるなんて何様ですか!?』だの、『勝つのは私よ!』なんて、苦情や挑戦を言われることを覚悟していたしのぶは、瞳を輝かせる紗々に面食らった。
――このチョコレート女、結構良い奴じゃん……!?
姉の真知恵に比べて、少々単純な思考のしのぶは、すっかり紗々を気に入ったのだった。
つづく
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