宿泊者名簿
「こちらの旅館、幽霊が出るんですよ」
チェックインの際、フロントの老人が笑いながら言った。
「ははは、ご冗談を。そんな話、信じませんよ」
ビジネスマンは苦笑いしながら宿泊者名簿に名前、住所、電話番号を記入し、部屋の鍵を受け取った。疲れ果てていた彼は幽霊の話などとっくに忘れ、宿の温泉にゆっくりと
※ ※ ※
取引先との会食を終えた帰り道、今日泊まる宿に向かう為、カーナビに宿の電話番号を入れると、ナビに従いながら車を走らせていた。しかし、山道に入ったあたりから記憶が曖昧である。雨でぬかるんだ道、ヘッドライトに映るガードレール・・・次の瞬間、視界が反転し激しい衝撃を感じた―――はずだった。
だが、気づくと彼は無傷でこの旅館の前に立っていた。何か妙な感じがしたが強い疲労感で、あれこれと考える事など出来なかった。
※ ※ ※
夜中に、不意に物音がして目を覚ますと、障子の向こうで何かが動いた気がした。
「ネズミ?」
目を凝らすが真っ暗で何も見えない。確かに畳を踏むような音がする。
「誰かいるのか?」
当たり前のことだが返事はない。男は少しイラつきながら布団をかぶった。
「幽霊のイタズラってか?ばかばかしい・・」
そうつぶやき再び眠りについた。
***
翌朝、ビジネスマンはフロントで清算を済ませながら、昨夜の出来事を思い出し苦笑いした。
「結局、幽霊なんて出ませんでしたね」
するとフロントの老人はにこりと笑い、こう言った。
「幽霊なんて・・・いませんよ」
「ほらね」
ビジネスマンは得意げな顔で答える。
「お客様も…もう存在しませんから」
ビジネスマンの笑顔が凍りついた。
「は?」
「そろそろお帰り下さい」
老人の言葉に驚き、何を言っているのか理解できないまま反射的に後ろを振り返る。
そしてフロントの脇にある大きな姿見に目をやると、映るはずの自分の姿が・・・ない。
「俺は・・・?」
その瞬間、記憶がよみがえる。
車の中、雨の音、滑るタイヤ、落ちていく感覚——ビジネスマンは崖下に転落したのだ。
旅館の外は、白い霧に包まれていた。
フロントの老人は深々と頭を下げる。
「どうか、もう二度と迷われませんように・・」
ビジネスマンの意識は次第に薄れ・・・やがて消えていくのだった。
その後、別の宿泊者が名簿の最後の欄に名前を記入するが、そこにはあのビジネスマンの名前はなかった。
❴ 完 ❵
この世界は仮説です【短編小説集】 あさき いろは @iroha-24
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