死にたい男は愛を探す
柏木椎菜
一話
「ねえ、別れたいんだけど」
彼女に突然そんなことを言われたヴァレリウスは「は?」という顔を向けて隣の恋人を見つめた。おしゃべりしながら公園を散歩した後、どこかでお茶でも飲もうと店を探している最中のことだった。
「別れたいって、俺と?」
彼女の面倒そうで困ったような目は、明らかに彼を見て言っているのに、ヴァレリウスは一応確認のために聞く。すると彼女は小さく頷いて見せた。
「どうして……理由は?」
落ち着いた声で聞くと、彼女は視線をそらしてから答えた。
「その、あなたといても、何だか、つまらなくて……」
ヴァレリウスは微動だにせず、その言葉を聞いていた。
「最初はね、優しい人だなって思って、話すのも楽しく感じてたんだけど、だんだん、何て言うか……話してるだけっていうか……」
「話がつまらなくなった?」
彼女は考えるような表情を浮かべる。
「そんなんじゃないの。楽しい話もあった……はずなんだけど、あなたと話してても、まるで恋人じゃないような感覚にされて……上手く説明できないんだけど、一緒にいるのは私じゃなくても、誰でもいいんじゃないかって思えてきて……」
難しい曖昧な理由を言う彼女だったが、ヴァレリウスには十分納得できる言葉だった。だから無駄に彼女を引き止めるつもりもなかった。
「そうか……じゃあしょうがないな」
薄い苦笑を見せると、彼女も同じように苦笑する。
「うん。もっといい人見つけて。さよなら……」
別れの言葉を残すと、彼女はヴァレリウスから離れ、さっさと人通りの中へ紛れてしまった。一瞬でもためらったり、振り返ったりすることもない後ろ姿からは、彼女が彼に対してその程度の気持ちしかなかったことが察せられる。遠くへ消えた恋人を見つめながら、ヴァレリウスは茶の頭をポリポリとかいた。
「はあ……また始めからか。ま、あの娘は最初から期待薄だったからな。次を探すか」
振られた割にはまったく落ち込まず前向きなのは、彼が無類の女好きで遊び人だからではない。彼には彼なりの、重く深い理由があった。
先ほど行ったばかりの公園に戻ったヴァレリウスは、薄汚れたベンチに腰かけ、真っ青な頭上を見上げる。
「あそこへ行ける日は、いつなんだろうな」
紺色の瞳が見つめる遥か先……空よりも高い場所にあるとされ、誰も見たことはないのに誰もが存在を知る天の国。ヴァレリウスはそこへ行くことだけを強く望んでいた。つまりそれは自らの死を望むこと――彼は、どうにかして死にたいと思っていた。しかしそんなこと、勇気さえあれば簡単なことだと思うだろうが、彼の場合は至極困難で、不可能とも言えた。ではなぜ難しいのか。それはこの世に生まれる不可思議な生命があるからだ。
生きるものには等しく死が待ち受ける。病や事故、寿命で生を終えるのがこの世の理だが、そこに当てはまらない人間が存在する。彼らには死という終わりがなく、永遠に生き続ける生命が宿っていた。剣で貫かれようとも、回復困難な病にかかろうとも、数日から数週間も経てば元の健康体に戻ることができた。当然寿命もない。彼らは生きるもの達の最大の恐怖である死を克服した存在として、奇跡の人類、神が遣わせし子、などともてはやされ、注目された。だが一方では、自分達と違う彼らを不気味に感じる者も多くいて、何をしても死なない存在など、もはや人間じゃないと忌み嫌う者もいる。だが不死者と呼ばれる彼らは望んで死なない生命を授かったわけではない。
不死者の研究は昔から行われていたが、どういう理由で彼らが生まれるのかはまったくわかっていない。普通の両親から突然生まれるのだ。その逆もあり、不死者だからと言って、その産んだ子が同じ不死者になるわけでもない。血や遺伝というより、突然変異的に不死者は生まれる。その確率は低いものの、当たれば幸運と言えるのか、はたまた不運と言えるのか、それは当人の考え方次第だ。
死を克服した存在の不死者だが、もう一つ克服していることがある。それは老化だ。不死者はある年齢に達すると老化が止まり、そのままの容姿を保つことができた。つまり老化が止まった容姿年齢で永遠に生き続けることになるのだ。研究では二十代から四十代の間に止まる者が多く、不死者であるヴァレリウスの場合は二十五歳で止まっている。若いうちに止まれば体力や記憶力も保たれ、その後の人生を軽やかに過ごせる。しかし老化がいつ止まるのか、それは本人にもわからないし、人それぞれだ。七十歳で止まれば足腰が弱り、思うように動けなくなるだろうし、三歳で止まれば誰かの助けがずっと必要になる。これは極端な例だが、ヴァレリウスは老化に関しては運がよかったと言えるだろう。
「……空見てたって意味ないな」
大きな溜息を吐くと、ベンチから立ち上がったヴァレリウスは気だるそうな足取りで公園を後にする。彼は別に失恋にまいったわけではなく、ただ疲れていた。身体的な意味でなく、人生そのものに疲弊しきっていた。彼はこう見えて、すでに長過ぎる年月を生きていた。どうやっても死ねない身を抱えながら、それでも生きる努力をしなければいけなかった。この先に大きな褒美でも待っていればいいが、長く生きる彼はすでに知っている。進んだところで何も変わりはしないと。だから心は半分死んだようだった。それを先ほどの彼女は感じ取っていたのだろう。恋人といても心は凪いだようで、まるで熱がない。そんな彼をつまらなく思ったのだ。ヴァレリウスはそれを自覚していた。決して無気力なわけではないが、熱心にはなれない。だから彼女を引き止めることはしなかった。次の女性を見つければいいと。
街中を歩きながらヴァレリウスはすれ違う若い女性達に目をやる。友人と楽しそうに笑っている者、店先で品定めしている者、家の前をせわしなく掃除している者……それらを眺めるが、声をかけることはない。手当たり次第にそんなことをして相手を困らせたり怒らせれば、その噂はすぐに辺りへ広まるだろう。そうなれば悪目立ちしてこの街にいられなくなってしまう。些細なことでも、生活の基盤を失いかねない行動はできるだけ避けるべき――長年の経験で彼が学んだことだった。一から生活を立て直す苦労を知っているからこそ、妙な目立ち方はしたくなかった。だから行動も選択も慎重にする。それが心がけていることでもあった。
ここで一つの疑問があるだろう。彼は死にたいはずなのに、なぜ恋愛など死とは無関係なことにまい進しているのか。ヴァレリウスにとって恋愛は正直どうでもいいことで、その過程を楽しむ気もなかった。それでも恋人を作ろうとしているのは、その結果で生まれる愛が欲しいからだ。
数十年前も、ヴァレリウスは今と大して変わらない暮らしを送っていた。各町村を転々としながら、食べるために働き、疲れたら眠り、そしてまた働く……そんな退屈な日々を繰り返していた。不死者なので食べなくても生きられはするが、飢えの苦しみはある。その苦痛から逃れるには食べる他なく、そのためには金を稼ぐしかない。
そんなある日、持て余した暇な時間に、彼は街の古書店に入り、面白そうな本はないかと探していた。趣味とまでは言わないが、ヴァレリウスは読書をするのが好きだった。特に古ければ古い本ほど興味をそそり、時折こうして古書店などへ退屈しのぎに訪れていた。そこで見つけたのが一冊の本だった。大分古そうな色あせた本には、各地域の民間伝承がずらりと書かれていた。知っている話、知らない話、どことなく嘘っぽい話など、様々な言い伝えがある中、文章を追う目がある言葉で留まった。
『不死者を死なせる方法――』
ヴァレリウスの頭は一気に覚醒し、見開いた両目がその先を読み進めた。
『――不死者を傷付けてはいけません。彼らは死ねない病にかかっているのです。その病を治すには、我々の愛が必要なのです。溢れるほどの愛を与えた後、その命を止めれば、不死者は人間として天国へ召されるでしょう』
不死者が死ぬ方法とはつまり、深く愛してくれる者の手にかかること――ヴァレリウスは胡散臭いと思った。この本自体も少し怪しい部分があり、すべてを信じることは到底できなかった。しかし古書店を去った後も、彼の頭にはこの方法がよぎり続けた。眉唾物の言い伝えに過ぎないと思いながらも、その片隅ではもし本当の話だったらという小さな期待が残っていた。そんなわけがないと思うのに、その期待は日が経つにつれ大きくなる。無視していいのか? やっと死ねるかもしれないのに。でたらめだと決め付けて後悔するかも――自分の中の声に耳を傾けた結果、ヴァレリウスはこの方法を試すことにした。試したところで特に損も害もなく、何より暇な時間を有効に使える。もしこれで上手く行けば、こんなに楽な死に方はない。恋人に自分を殺すよう頼むだけなのだから。だが、それを実行してくれるかどうかが最大の問題ではあるが。何にせよ、自分を愛してくれる恋人を作ればすぐに試せる方法を、ヴァレリウスは期待を抱いて始めた。長年の望みが叶う――その喜びだけを目指して恋人にするべく女性を探した。
これまで生きてきた中で、ヴァレリウスは何人もの女性と出会い、付き合ってきた。だが結婚に至ったり子をなすまでには至らなかった。単に性格が合わなかった者もいるが、ほとんどは彼が不死者と知って去って行くのだ。自分だけが歳を取り、恋人はいつまでも若々しいまま……そんな二人でいる将来を想像できなかったのか、したくなかったのか。
ヴァレリウスはそれでも不死者であるのを隠すことはしなかった。そうしたところでいずればれてしまうものだ。だったらそれも含めて愛してくれる人を探せばいいだけのことだ。しかし、そんな愛に溢れた女性が都合よく現れるわけもなく、何十人、いや何百人という女性との出会いと別れを繰り返し、現在に至っていた。
はあ、と大きな溜息を漏らしてヴァレリウスはぼろい借家へ帰る。これほどまでに上手く行かないのは想定外だった。楽な方法と始めてはみたが、こんなに疲れるのでは試さなければよかったとも思えてくる。だが結果にはまだ届いていない。本に書かれていた言い伝えの真偽が判明するまでは諦めたくなかった。わずかな希望でも、自分の命を終えられるのなら最後まですがりたかった。それほどまでに彼の死への渇望は強かった。
そんな事情からヴァレリウスは恋人を作ろうとしているわけだが、愛した上で自分を殺してくれる女性など、普通に考えてまずいないだろう。愛した相手とはできるだけ長く一緒にいたいのが人の気持ちというものだ。殺せばそれが壊される。恋人の望みとは言え、叶えてあげたいと思う女性がいるとは彼自身も思っていない。しかし人の心は複雑怪奇でもある。世界中の女性に当たって行けば、いつかはそんな相手と出会えるのではないか。心の内は外からは見えない。恋人を殺してあげようと決心してくれる女性もいないとは限らない。かなりの低確率ではあるだろうが、幸い彼には無限の時間がついている。見つけ出すのに限界はない。
「ふあ……疲れた」
小さなあくびをしてベッドに倒れ込んだヴァレリウスは、そのまま目を閉じて眠りに落ちる。生きるのも死ぬのも大変なことを、彼は今日も実感しながらこの日を静かに終えるのだった。
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