ペンギンパレード

さいとうきいろ

ペンギンパレード

「今日は、行かなくてもいいか」


 キュウジは、まだ薄暗い窓の外をぼんやり眺めながら、ベッドの上で大の字になっていた。スーツとネクタイが、クローゼットの中で待っているのは知っていたが、どうしても着替える気になれなかった。日々、繰り返される仕事に虚しさを感じ、嫌気が刺していた。結局、キュウジは起き上がり、スーツに着替えた。


 しかし家の外を出ると、彼の足は自然と会社とは逆の方向へと向かっていた。仕事のことでいっぱいの頭の中とはうらはらに、体は休息を求めていた。「もう職場がどうなってもいいや」と、キュウジは、歩き続けた。空の色がだんだんと明るくなっていく。


 都会の街並みを歩きながらふと彼の目に入ったのは、デパートの巨大な建物だった。特に目的もなく、キュウジはその中に足を踏み入れ、エレベーターに乗った。「飛び降りてしまうのも悪くないな」と、屋上に向かうボタンを押した。エレベーターの扉が開くと、空飛ぶバス乗り場と書かれた看板が立っていた。キュウジは、自分がどこに向かおうとしているのかわからないが、この場所に立ちバスを待った。やがて空から雲を斜めに突き抜けてバスが降りてきて、キュウジの目の前に停車した。キュウジは、そのバスに乗り込んだ。バスはキュウジを乗せて静かに浮かび上がり、空へと旅立った。

 

 バスの中には既にたくさんの乗客がいた。席を探していたら、一人の二十代前半くらいの若い女性と目が合った。彼女はキュウジを見ると、座席に置いていた大きなリュックサックを膝の上に乗せ両手で抱えた。「すみません」と軽く頭を下げ、キュウジは彼女の隣に座った。バスは空を滑るように進み続けた。都会の喧騒が徐々に遠ざかっていく。


 長くバスに揺られていた。キュウジは、どこに向かっているのかもわからないまま、バスのリズムに身を任せていた。時が経つに連れ、彼は空腹を感じ始めた。床を蹴ったり、洋服を爪で引っ掻いてみたりしながら、鳴り始めた腹の音を誤魔化そうとした。それに気がついた隣の席の若い女性は、リュックサックからパンを取り出し「どうぞ」とキュウジに差し出した。キュウジは、感謝しながらパンを受け取り、一口ずつゆっくりと食べ始めた。女性の優しさに触れキュウジの中にほのかな暖かさが生まれた。パンを食べ終わったキュウジは、自分のことをぽつりぽつりと話し始めた。


「君にこんなこと言っても仕方ないかもしれないけれど、今日、ぼくは仕事を誰にも言わず休んでしまったんだ」


 女性は何も言わず、キュウジの話を聞いていた。


「毎日、朝から晩まで働き詰めで、休みもほとんど取れない。上司からは絶えずプレッシャーをかけられる。どんなに仕事を頑張っても感謝の言葉は一つもない。ぼくは、なんのために頑張っているんだろうね」


 女性も口を開き、自分のことを話し始めた。


「私は、今、大学に通っているんですけど、授業に興味を持てないし、就職活動も全然うまくいかなくて。親に言われて大学に進学したけれど、なんのために大学に通っているのかよくわからなくなってしまいました。どこかに逃げようと思い、気がついたらこのバスに乗っていたんです。なんとなく似てますね、私たち」


 女性のゆっくりした優しい口調に、キュウジは少しだけ胸がときめいた。キュウジが名前を尋ねると、女性は「マホコ」と答えた。


 やがて、バスの窓から都会の夜景が見えてきた。上空から見る無数の灯りが、どこか物悲しげだった。だが、バスは進み続ける。長い雲のトンネルを抜けると、いつの間にか、外の景色は白銀の世界に変わっていた。バスは「雪の国」と呼ばれる場所に到着した。何もないこの場所だったら、現実世界のことを忘れられそうな気がした。二人はこの地で降りることにした。


 降り積もる雪と、冷たい風が吹き荒ぶ雪の国。ぬくぬくとしたバスの中からでは、想像できないほど辺りは冷え切っていた。マホコは、リュックサックからジャンパーを取り出して身につけたが、間に合わせの防寒着では少し絶え難いものがあった。防寒具など何も持たずにこの地に来てしまったスーツ姿のキュウジは、寒さで頭がぼんやりし、意識が遠のいていくような感覚だった。マホコは、使い捨て懐炉をキュウジに渡した。さらに、2枚のビニール袋をキュウジに差し出した。


「靴下の上からこのビニール袋を被せれば、靴の中に雪が入ってきても、足が濡れるのを多少は防げますよ」


 キュウジは、マホコに言われた通りに靴下の上にビニール袋を被せた。なんでも用意しているのだなあと、キュウジは少し感心した。


「寒すぎ…死んじゃうのかな」

「だめですよ、死んだら。キュウジさんがいなかったら、私、この地に一人になっちゃいますから」

「え、なんて言った、最後のほう」


 降り積もる雪にマホコの声がかき消され、なんと言ったのかキュウジには聞こえなかった。マホコは、なるべく大きな声でキュウジに話しかけた。


「キュウジさん、歩きましょう。歩けばきっと体が温まるはずですから」


 「そうだね」と、キュウジは返事をして、二人はただ黙って歩き続けた。人も動物もいない。建物もない。歩いても歩いても、同じような景色が続いていた。二人の体が限界を訴え始めた。


(このままここでマホコちゃんと寄り添って死ぬのも悪くないかな…)


 と、キュウジは考えた。しかし「だめですよ、死んだら」というマホコの声が、頭の中で何度も再生され、マホコから貰った使い捨て懐炉を強く握りしめ、歯をグッと食いしばった。気がつくと雪がやみ、日がさしていた。少しだけ歩きやすくなった気がした。


 しばらく歩き続けると、遠くのほうに灯りが見えた。二人が駆け寄ると、一軒の小さな小屋が立っていた。キュウジは小屋の扉をノックした。


「誰かいませんか」


 何度かノックしたが、誰もいないようだった。ドアノブを握ると、鍵が空いていて、二人はおそるおそる中に入った。小屋の中は驚くほど整っていた。棚には食料が並び、壁には防寒具が掛けられていた。まるで二人のために準備してくれたのかのようだった。


「ここでしばらく休もう」


 と、キュウジが言うと、マホコは静かに頷いた。「何もしない」という暗黙の了解のもと、二人はその小屋で夜を過ごすことにした。


 夜中、マホコは、ふと目を覚ました。外は一層冷え込み、静寂が辺りを包んでいた。マホコは窓から外を覗き込み、目を疑った。何十匹ものペンギンたちが小屋の前を歩いている。彼らは食料を持ってきて、小屋の前に置き去っていった。マホコは驚いて、キュウジを起こしに行った。


「キュウジさん、起きてください」


 キュウジは、眠い目を擦りマホコと一緒にその不思議な光景を見守った。空を見上げると、たくさんの星と美しいオーロラが夜空を彩っていた。ゆらめく緑とピンクのオーロラを切り裂くかのように、流星が長い尾を引いて素早い速さで消えていった。


「あ、流れ星。見ました、キュウジさん」

「ああ、見えた」


 キュウジの顔を見ながら、無邪気にはしゃぐマホコ。キュウジは、そんなマホコの顔を見つめ彼女の唇にそっとキスをした。マホコは少し驚いたが、不思議とその行為を受け入れた。ペンギンたちは、まるで二人を祝福するかのように踊り始めた。


 二人は、その後も雪の国での生活を楽しんだ。ペンギンたちと釣りをしたり、二人で料理をしたり、ギターで弾き語りをしたり、何もせずひたすらベッドの上で寝ていたり、誰にも邪魔されず何不自由のない生活を楽しんだ。


 しかし、やがてこの完璧な世界にも飽きてきた。雪の国での生活は、二人にとって理想的なものだったが、それはあくまでも現実からの逃避に過ぎなかった。キュウジもマホコも、永遠にこの場所に留まることはできないと、頭のどこかで理解していた。いつかは自分たちが逃げ出していた現実に向き合わなければいけない。


 ある日、空を見上げると、再び空飛ぶバスが現れた。


「そろそろ、戻ろうか」


 と、キュウジが言うと、マホコも静かに同意した。二人はバスに乗り込み、二人掛けの席に並んで座った。バスがデパートの屋上に着くまで、ずっと手を握っていた。やがて、キュウジにとって懐かしい街が見えてきた。夕日が街をオレンジ色に染めていた。


「ここまで来たら、元の生活に戻るしかないんだよな」


 キュウジが静かにつぶやいた。


「お互いに成長したころ、また会えるよ」


 と、マホコは優しく微笑み、キュウジも頷いた。


「いつかまた、お互いがもっと強くなって、もっと自分に自信が持てるようになったらまた会おう。今度は、お互いの道を支えあうために」


 二人は静かに見つめあい、その約束を心に刻んだ。バスがデパートの屋上に到着した。


「ありがとう、キュウジさん」

「こちらこそ、ありがとう。また会える日まで元気でね」


 バスから降りたキュウジは、マホコの乗ったバスを見送り続けた。

 バスが夕焼けの中へと消えていく。

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