しまいおしまい

佐藤風助

殺人少年の場合

「あ」


 ガチャンと音がして花瓶が割れた。自分、義彦が水替え当番だったので、その最中のことだった。腐った茎で汚れた水が古いタイルに、床に広がっていく。


「どうしたんだい?」


 ガラスが割れる音を聞いて駆けつけてきたのは初老の神父で、この孤児院の経営者であった。つまり孤児である義彦にとっては親のようなヒト。その人が心配そうに義彦のところまで駆けつけてくる。


「ああ、落としてしまったのか。大丈夫、ここは私が片付けておくから、掃除道具を持ってきてくれないかな」


 神父は優しげに語りかけて、目線を合わせて義彦の頭に手を置く。小学六年生の男児にするにはいささか距離が近いとも言えるが、いつもこんな調子なのでそういうものだと思っていた。


「……ご、ごめんなさい?」


 やっとのこさでした返事も、自分の言葉であるはずなのに耳に入ってこなかった。神父が何か言っている。

 それよりも、たった今勝手に発掘されてしまった古い記憶を振り返り、今の知識で正しく理解することの方が重要だった。より鮮明に。よりクリアになって思い出す。

 ……礼拝堂の奥にある、神父の自室。引かれた手。機嫌の良い神父につられて笑う、何も知らない自分。まだ幼い記憶。確か五年ほど前のもの。

 こじんまりとした部屋のベット。脱がされた服。覆い被さる神父。秘密だよと囁かれた時の、ぞわりとした感覚。撫でられた頬が感じた、神父のガサついた肌。素肌に触れるシーツのくすぐったさ。それから、それから、それから! 


 つまり義彦は、この神父にレイプされて──。


 置かれた手を反射的に振り落とした。神父が驚いたような、そんな顔をする。


「ど、どうした?」


「……ごめんなさい。ちょっと、気分悪くて」


「そうだった、のか。季節の変わり目だからかな。自室でゆっくり休んでなさい」


「……すみません。そうさせてもらいます」


 ただ、この神父の隣に居たくなくて、なるべく早足で立ち去った。吐き気を堪える。涙が落ちないように拭う。とにかく逃げたい。いつもの廊下が嫌に長く感じる。響く足音が、神父のものだと考えてしまって、そんなはずないのに恐ろしくてしょうがない。

 やっとのこさで辿り着いた自室の扉を開けると、ルームメイトが騒がしく出迎えてくれた。


「おっかえりーにいちゃん! 今度こそ決着をつけようぜ!」


 まだ小学校に上がったばかりのこのわんぱく坊主は、今日こそババ抜きで義彦をギャフンと言わせようとやかましく吠える。小さい弟分の声が頭に響いて痛かった。


「……ごめん。ちょっと体調悪くて、勝負はまた今度」


「え、そうなの? 大丈夫?」


「寝りゃ治るから気にすんな。起きたら相手してやるから特訓してな」


 嬉しそうに笑う彼にそれ以上声をかける気になれなくて、二段ベットの下の段に潜り込んだ。布団を被る。

 ……もう全部、忘れてしまいたかった。

 自分の体がひどく汚れてる気がしてならない。こんなところにいたくない。じゃあどこに行きたいのと聞かれても返事はできないであろう、そんな気分。あんなに好きだったはずの老人が、恐ろしい。見つめられただけで背筋が凍る。怖い。逃げたい。でもどうしようもない。だって、義彦は子供だから。

 どうにもならない現実から逃げ出したくて、目を瞑った。



 ……



「にーちゃん、起きて。ご飯だよ」


 ルームメイトである少年の声でやっと目が覚めた。

 部屋の中は暗い。だいぶ時間が経ったようだった。もう一生動きたくなかったけど、無視するワケにもいかないから起き上がる。ひどく目覚めが悪い。


「今日はシチューだって。早く行こうよ」


「……ごめん。食欲ないわ。休んでるって伝えといて」


 少年は納得していなさそうな顔で「わかった」とだけ言って渋々部屋を後にしようとしたところで──部屋の扉が開いた。


「……体調はどうかな?」


 扉を開けたのは、初老の神父だった

 予期せぬ訪問者に肩が震える。冷や汗が落ちる。ただ恐ろしくて、逃げ出したいのに声も出てくれなかった。


「あ、せんせー! にーちゃん具合悪いってさー」


 嬉しそうに少年は笑って神父に抱きついた。

 慌ててベットから落ちるように降りて引き剥がす。触らせたくない。この何も知らぬ少年を、こんなやつに。


「どったの、にーちゃん」


「……別に」


 困惑する少年を背に隠して神父を睨みつける。神父は困ったような顔をする。まるで嫌われる理由が思いつかないとでも言いたげな表情で、さらに嫌悪感が増した。


「アー……、熱はあるかい?」


「ないですけど気分は悪いんで、夕飯は入りません」


「そ、そうか。じゃあ、お大事に。春陽、行こうか」


 名を呼ばれた少年は嬉しそうに神父に駆け寄っていく。自然と眉間にシワが寄った。そのまま部屋の外に出る二人を苦々しく見つめ、緩慢な動きでベットに戻る。

 もう聞こえていないモノとしたのか、二人の会話が聞こえてきた。


「そうそう、春陽に手伝ってもらいたいことがあってな」


「なーにー?」


「──夕食後に私の部屋に来て欲しいんだ。誰にも内緒だぞ」


 ……だめだ。

 より一層記憶が鮮明になる。だめだ。行っちゃいけない。だって、義彦はその後にあんな目に。あんな、恐ろしい目に遭っちゃいけない。この弟のように大事で大切なこの子だけは守らないと。

 シーツを握りしめる。覚悟を決める。恐怖で震える情けねえ体を叱咤して、少年を悪魔の元に行かせないように思考を回した。



 ……



 こんこんこん、と部屋の扉をノックした。ギイと内側から扉が開かれる。

 礼拝堂の奥の部屋。神父の部屋。本来ならば呼び付けられた少年がやってくるところを、代わりと言わんばかりに義彦が立っていた。出迎えた神父が驚いたような顔をして首を傾げる。


「……春陽はどうしたんだい?」


「代役です。別に誰だって良いでしょう」


 逃げろ逃げ出してしまえと叫び続ける脳みそを無視してぶっきらぼうに答えた。どうにも視線が定まらない。グラグラする。でもここで撤退するワケにもいかぬ。


「誰でもいいって──」


「アンタは!」


 やけに息が荒い。ああ言いたくない。逃げ出したい。逃げるな。逃げて何になる。こわい。でもあの子が犠牲になる方がもっとこわい。言葉を紡ぐ。神父の視線が突き刺さる。


「……アンタは、犯せるなら誰だっていいでしょ……」


 すうっと、神父が目を細める。沈黙が恐ろしかった。視線を外す。

 神父が義彦の頬に触れる。気持ち悪い、気持ち悪い! 振り払いたいのを必死に堪える。


「……それで、身代わり。なるほど殊勝な心がけだな」


「お、俺がやるから、だから、ほかの子には手ェ出さないで……」


「……では、その決意を見せてくれ」


 しゃがんで視線を合わせた神父が薄く嗤う。ぐるぐる思考が回る。泣き出したい。けど泣いたら終わりだ。覚悟を決めたはずだろ。


 ──唇に触れた感覚は、自分からやったはずなのにひどく不愉快で。きっと地獄があるのならここがそうなのだろうと、直感的に理解した。



 ……



 アア、運がないなあと思った。

 本日の義彦、齢十四歳はまことに運が悪い。アンラッキーでタイミングが悪く星の巡り合わせが良くなかった。朝のニュース番組でやってる星座占いがビリだったからかなあ。ラッキーアイテムなんだっけ。赤色のハンカチとか、そのへんだったはず。でもそれだったら今手元にあるしナア……。どうしようもねえなあ……。

 しかしほんとに運がない。まさに絶不調。ノビをしながら義彦はぐるりと現在たたずんでいる場所を──廊下を見渡した。

 義彦は孤児院の、礼拝堂につながる廊下にいた。十数年渡り続け歩き続けてきたココの、古い古い壁にもたれかかるような肉塊が一つ。


「……どうしたモンかねえ」


 電燈と年月でクリーム色した壁を赤色に汚す、修道服を着た男性の、死にたてホヤホヤな死体を眺めながら、義彦はため息を吐いた。

 ……ことの発端はこの死体──義彦にとって親ガワリだった初老の神父である。

 義彦が花瓶の水替えをして、さあ戻りましょと廊下を歩いていたとき、この悪徳神父を目撃してしまった。

 孤児院に来たばっかの女の子と、何やら話し込んでいる。なんだか尋常じゃない気配だったのでとりあえず立ち止まって様子を見ることにした。それがいけなかった。

 神父はしゃがんで壁際に立つ女の子と目線を合わせて、優しげに語りかけている。女の子は嫌がっていて、目線を逸らしている。それから神父はしびれを切らしたのか腕を引っ張って女の子を礼拝堂の方に、つまり自室の方に連れてこうとして──


 アア、コイツはほんっとうに救いようもねえなと思って、無防備な背中に近づいて花瓶でその頭をかち割った。


 だって、義彦は被害者だったから。このどうしようもなく身勝手な色欲魔の、哀れな生贄の山羊スケープゴート。自分だけならまだいいやいやよくねえな殺そうと常日頃からそう思い続けて。それで、また同じ愚行を繰り返すのなら──その時は、殺してやるのだとそう決心した瞬間だったから。だから。

 ……しかしそうは言っても、もうちょいタイミングを伺うべきだった。ただいまの時刻は午後四時半。白昼堂々とは言わずともまだまだ人気は多く、陽の光がほんの少しだけ地上を照らす冬の夕暮れである。どうしようもなくヤバい。そもそももっと事前に準備して完璧に証拠隠滅できるような環境を整えてから殺すべきだったのだ。

 助けたハズの女の子は初めて見た死体と殺人現場にクラクラしている。今にも吐きそうな、そんな表情。せめて頬についた血液ぐらいは拭ってやろうとハンカチを取り出して、返り血を吸って使い物にならなくなったことを思い出してしまった。女の子は怯えている。当たり前すぎる。

 学ランは赤く染まってしまって、制服って高いんだよなあと呑気な悩みが浮かんで消えた。クリーニングに持って行くワケにもいかないから捨てるしかない。まったくもう、ヒドイ話だ。

 ……これから、どうしようか。

 死体の解体って初心者でもできんのかな。共同のお風呂場はあんま汚したくないが、他にできるとこってあったっけ。ねえな。じゃあしゃーないか。とにかく運んで、バラして、それから捨てる。しかし壁についた血痕はどうにもできぬ。どうやったって目撃者がいる。アレ、これ捕まる? バラそうがそのままほっとこうがどうしようが証拠も証人も残る。ウーム、逃げ切れるビジョンが思い浮かばぬ。終わったかも。

 じゃあ、どうする? 死体をほっとくのはみんなに悪いから運び出すとして、それから義彦はどう行動すべきなんだろうか。

 カアカアカラスが鳴いているこの夕暮れに、義彦は。


「……逃げよ」


 そうだ。もう終わってしまった話ならとことんまで逃げよう。行き先さえ決まらぬ逃避行に身を投じるのも悪かない。どうせなら、どうせ終わるなら、最後まで自由に。

 とにかく死体を運ぼうとして、人間大のモノが入るビニール袋ってあるのかなアと思った。



 ……



 残念ながら人間がスッポリ入るようなビニール袋は見つからなかったので、古くなったシーツで代用することにした。埃っぽいシーツに血が染みて、案外人間の血液量って多いんだなんて感心してみたりする。廊下が血まみれになるまで殴ったせいでたくさん溢れたというのに。

 結構重いし台車なんて便利なモノはないのでとりあえず教会の裏側にあるダストボックスに捨てることにして、半分引きずりながら運んで行く。死人の体液が点々とした模様を作る。気持ち悪いなあ。

 使われなくなって久しいダストボックスは錆び付いていて、あんまり触りたくなかったけど開かなきゃどうしようもないので渋々開けた。ギイィと甲高い音がして、それでも口が開いて──


 ──中に先客がいた。


 イヤ、死体ではない。ちゃんと生きている。呼吸をしている。義彦と同い年ぐらいの少年、つまり十四歳程度の男の子がコチラを見上げていた。初雪みたいに真っ白い髪に、熟れたりんごみたいな赤色の瞳。死人のような冷たい、白い肌。


「……どいてくんね?」


「ああ、なんか入れるの。そりゃゴメン。すぐ出るよ」


 まだ声変わりしていない甲高い声で少年は返事をした。よっこらせとダストボックスから這い出る。入院着を白色に染めたような、個性的にも程がある服装だった。ちなみに裸足。寒そう。

 少年は義彦が引きずってきたシーツを見ておお、と声を漏らした。変なヤツ。そういやコイツも目撃者になるのかななんて思いついて、どうしようかと考えを巡らせる。適当に放り込んだ死体はダストボックスの中に落ちてゴスン! と鈍い音がした。


「誰の死体?」


「クソッタレ小児性愛者ペドフィリア


「ふーん……。君がやったの」


「そう、ついさっき」


「死にたてホヤホヤだねえ。新鮮だ」


 ……なんなんだろう、コイツ。

 変に度胸がある、同い年ぐらいの少年。ダストボックスから出てきて、ヘンテコな服を身に纏って。死体を見ても、殺人鬼を会話をしてもあっけらかんとしている。マジでどこのだれさんなんだろう。


「てかお前だれ?」


「君が先に名乗ってよ」


「俺ェ? ……義彦」


「ヨシヒコ君ね。僕は……そう、彰」


「彰か、ヨロシク。……彰はゴミ箱に入って瞑想するご趣味でも?」


「ないよ。人類でそんな稀有な趣味持ってるヤツいないよ」


 そう言って彰はケラケラ笑った。イマイチ笑いのツボがわからない。


「で、見事に殺人と死体遺棄の称号を獲得したヨシヒコ君はどうするのさ」


「逃げる」


 そう、逃げるのだ。ありったけの金を神父の部屋から盗んで、適当な服に着替えて、こんな地獄から形だけでも逃げ出す。それからのことは考えていない。考えずともわかる。この小一時間で義彦の寿命は大いに縮んでしまったから。


「……どうせならいっしょに逃げようか?」


「……なんで。お前、家出少年?」


「いいや、君と同じ地獄からの脱走者さ。お仲間がいたほうが愉快でしょう?」


 そう言って彰はニコリと笑って囁くのだ。


「どーせエンマ様に会いに行くのなら、いっしょに堕ちようぜ」



 ……



 義彦と彰は夜の繁華街をふたりいっしょに歩いていた。

 そう、結局逃げることにしたのだ。この怪しげな身元不明の少年といっしょに。愚かしく阿呆らしい決断だ。笑うなら笑え。

 服装はもちろん血まみれ学ランでも真っ白入院着でもない。義彦はいかつい虎の刺繍が入ったスカジャンで、彰は黒色のパーカーだった。義彦のお下がりだ。目立つ真珠色の髪も隠せて一石二鳥。やったね。


「今更だけど、どこ行くの」


「……決めてねえ。逃げれんならどこでもいいだろ」


 神父はどうやらタンス貯金なるものをしていたらしく、今義彦の財布の中はこれまでにないぐらい潤っていた。資金は十分。文字通り日本国内ならどこへでも行ける。


「じゃあ北のほうに行こうよ」


「なんで」


「雪見てみたい。かまくらとか作ってみたくない?」


「いいけど……防寒具とかはどうすんだよ」


「現地で買う」


「行き当たりばったりだな」


「エンマ様に会うまでの寄り道なんてそんなもんでいいのさ」


 とにかく北に行こうということになって、その前に近場のスーパーで食料を買い込んだ。ちょっぴりオシャレな、普段のスーパーよりお高めなとこ。そこで弁当やらお菓子やらを好きなだけ買う。


「これ買っていいー?」


 お菓子コーナーで彰はねればねるほど色が変わるタイプのお菓子を手にしていた。しかも二種類。そんなねってどうするんだ。


「……知育菓子なんて懐かしいモノを」


「作ったことないんだよねえ。いいでしょ? どうせ長旅だ」


「ま、いいか。水いるから買っとこうぜ」


 他にも気になるモノはとりあえずカゴに放ってみて、重たくなったから少し減らした。どうせそんなに食えない。結構お札が消えていってビビったけど、まだまだお金はある。大丈夫。

 スーパーを出たら、本格的に暗くなっていた。


「終電って何時だろ」


「さあ、でも夜中でしょ? だいじょぶだよ」


「また楽観的な」


 夜の空気は冷たい。

 ネオンライトに照らされた繁華街を、身を寄せ合って歩いた。なんだか場違いな気がした。ポツポツとくだらぬ世間話をする最中に、なんで一、二時間前まで他人だったヤツと一世一代の逃避行を繰り広げているんだろうと、ぼんやりそう思った。でも巡り合ってしまったから。ロマンチックな言い方をすれば運命というヤツ。この謎ばかり湧き出る白色の少年と出会ってしまったのが運の尽き。それは強盗殺人に死体遺棄をかました中学生と出会った相手も同じだろうけど、とにかく義彦も彰も、星座占いの通りに運が悪かった。あんなチンケな朝番組のちっちゃいコーナーを信じても仕方ないことではあるが、とにかく運が悪いのは事実であろう。

 ようやく到着した駅は空いていた。

 古びた駅構内で、ふたりは終点までの切符を買った。新幹線って高いんだなあ……。彰が乗り方がわからないとかほざくので、義彦が四苦八苦しながら案内してなんとか乗り込んだ。結構ギリギリ。乗り込んだ瞬間に発車のベルが鳴ったんだもの。

 とにかく空いている座席に向かい合うように座って、一息ついて。そこでまたおしゃべりしながら夕飯である弁当を食べた。さすがお高いだけあって美味しい。

 義彦は唐揚げをつつきながら窓の外を眺める。真っ暗な上にものすごいスピードで景色が過ぎ去って行くから、ほとんどわからなかった。


「唐揚げいっこちょうだい」


「じゃあエビフライくれよ」


「えー……。レートがあってない。せめて煮卵にして」


「それなら唐揚げは半分だ」


「……ま、いいや。取引成立ってことで」


 煮卵を頬張りながら彰を見やる。

 結局コイツは何者なんだろう。ジゴクの底ツアー水先案内人? 違うような、違くないような。名前以外の情報がないせいでますます謎は深まっていくばかり。


「なんで彰は逃げたかったんだよ」


「えー、言わなきゃだめな感じ?」


「そりゃ相方の過去ぐらい知っときたいだろ」


「……そりゃそっか。そうだよね」


 うんうんと、自分を納得させるように彰は頷き黒い窓を見て、ため息を吐いた。そのままありもしない景色を眺めながら口を開く。


「……僕ね、カミサマだったの」


「どうした頭でも打ったか病院行くか」


「シツレイな。残念ながらすごぶる健康だよ。……ホラ、新興宗教ってヤツさ。そこで色味が珍しいから神の子だって祭り上げられて、少なくとも大人はそう信じてた。どうやったって人の子なのに、笑っちゃうよねえ」


「……じゃあ、なんだ。カミサマ扱いに反吐が出て退職届でも叩きつけてきたのか?」


「いえーす。あまりの職場環境に嫌気がさしたのさ。残業手当もないし、パワハラはひどいし、有休消化率はゼロ。いいとこないよ」


「おー、そりゃひでえ。労基に訴えときな」


「地獄に労働基準法なんてモノはあるのかなあ」


「そりゃ、ジゴクだって鬼にとっちゃあ仕事場だぜ」


 くっだらない、軽い調子で話す彰を見つめながら、とりあえず人となりを知れて安堵した。

 車内の暖かさと満腹感に目を細める。まだまだ到着まで時間がかかるだろう。少し、眠い。とりあえず動くのがかったるくなる前にゴミだけまとめた。彰がいつの間にか買った琥珀糖を開けていたので一つつまむ。甘くておいしい。ジャリジャリする。


「……崇拝って差別だよねえ」


 綺麗な赤色の琥珀糖を口に放り込んで、彰は続ける。


「侮蔑も哀れみも信仰も、自分達とは違いますよねって一線を引くのに変わり無い。ひどい話だけど、そういうこと」


 半分夢の世界に浸りながら、そんな彰の話を聞いて、列車はまだ止まりそうにないなと思った。



 ……



 次に目を開けたら夜が明けていた。一つあくびをする。

 なんとなしに寝ぼけ眼で見やった窓ガラスの向こうは打って変わって白一色になっていて、それで一気に目が冴えた。慌てて寝ている彰を起こす。


「お、おい! 起きろ!」


「……うー。まだ、終点じゃ、ないでしょ……」


「終点じゃないけどホラ! 雪だ!」


「ほんと!?」


 変わり身の速さ世界一な彰は素早く起き上がって窓ガラスに張り付いた。義彦もマネして、冷たくなった窓ガラスに少しだけ驚いた。

 それよりも、雪だ。外はテレビの中でしか見たことがない雪景色だった。まさに銀世界。触れたらよかったのになんて思って、外の寒さを想像したらほんの少し怖気付いた。まだあったかい車内にいたい。現代っ子は神の子でも風の子でもないのだ。


「そうだ、あれ作ろうよ」


「ああ、あの知育菓子? いいぜ。雪景色の中で風情があるしな」


 どう風情があるのかはわからないが、とにかく非日常ならなんでもいいのだ。買ってきた知育菓子を開封し、粉を取り出す。ちなみにソーダ味。


「こんな感じなんだねえ」


「そ、作り方は後ろに書いてあんだろ。その通りに」


 順番通りに粉をトレーに出し、水を入れ、混ぜ合わせる。もこもこ膨らんでなんだかよくわからない物体になっていく。


「わ、ほんとに色変わるんだ」


「ちなみにあんま美味しくないぞ」


「ネガキャンはやめてよ。これから食べるんだからさ」


 そんなこと言われてもなあ。このお菓子は作るのが楽しいのだ。味は二の次三の次。案の定、こんなもんか……とでも言いたげな表情で彰はトレーを机に置いた。言わんこっちゃない。水が少なかったのか、少しだけ粉っぽいクリーム状の物体を舌に乗せて飲み込んだ。


「……いる?」


「自分で作った分は自分でドーゾ」


「くそう……」


 とりあえず食べ終わって、ベタつく容器を片付けているとアナウンスが響いた。もうすぐ到着。あったかい夢の中はおしまい。これからの現実逃避はご自分の足で。


「降りたらどうすんの」


「宿でも探すか。その前に防寒具とか買わなきゃだし、観光もしたい」


「こっちらへんで有名なのなんだろ」


「木彫りのクマ?」


「そりゃお土産だよ」


 色々言い合ってたら列車が止まった。降りなければいけない。きっと外は寒いだろうなあと、ちょっぴり車内を惜しみながら明るい外に踏み出した。



 ……



 駅ビルに入っていた服屋で適当に防寒具を買って、ついに外に踏み出した。

 今まで経験したことのない寒さが義彦を襲って、思わず足がすくむ。買ったばかりのマフラーが寒風でバタバタなびく。


「さっむいねえ!」


「いやまじでそう! 一回中戻ろうぜ!」


「戻ってどうすんのさ!」


 くそう。義彦は寒さに弱かった。できることなら暖房が効いた駅ビル内に戻りたい。しかし駅ビルで暮らすワケにもいかぬ。どうしようもないことを確認してなんとか歩を進めた。

 周りには登校中だろう学生がたくさんいた。そうだ、今日は火曜日。ど平日。本来ならば学校に行く時間帯。

 今頃無断欠席にでもなってんのかなあなんて思って、それ以上に騒ぎになってるだろうと考え直した。あんな場所に隠した死体なんてすぐ見つかるだろう。足どりがバレてなきゃいいけど。


「ま、とりあえずあそぼうよ! ホテルは夕方になったら探そう」


「賛成。できる限り屋内で」


 近場に古びたゲーセンを発見したのでこれ幸いとふたりで向かった。正直に言ってしまえば舞い上がっていた。見知らぬ異国の地に降り立って、現実から逃げられたのだと、そう思い込んでいた。浮かれてしまった。まだ夢見心地で不思議の国ワンダーランドで遊んでいるような感覚で。だからそこで。

 そこで、現実が追いついた。


「──そこの君、ちょっといいかな」


 大人の、警官の声だった。

 どちらが呼ばれたのかはわからないけど、アアまずいことになった! と直感的に思って急いで呼ばれた方向に振り向いて彰を背に隠す。寒いのに汗が流れて、でも顔は青ざめる。どうしよう。どうする。逃避行はここで終わり? そんなバカな話あるか。でもどうすればいい。まずい。逃げられない。逃げなきゃいけないのに。警官は何か喋っている。話が入ってこない。ただ、やばい、まずい、おかしい。まだ雪景色を歩いていない。かまくらも作ってない。彰と遊んでない。ここで捕まるなんて、そんなこと。そんな三文小説は。

 絶体絶命で、逃避行を終わらせたくなくて、だから、ただひたすらに必死で。


 だから、警官の腹にナイフを突き立てたのだ。


 ずぷりと肉を侵食する刃物の持ち手の感覚が気持ちわるい。警官の言葉が遮られて、これでまだ逃避行を続けられるのだと仄暗い安堵が心を支配した。息が荒い。呼吸が苦しい。腕が震えて、焦点が定まらない。警官はゆっくり倒れ込む。血が、赤い赤い鮮血が、神父とおんなじ色の液体がレンガ調の歩道を汚す。

 刺さったままのナイフを抜かなきゃと、そう思って警官に手を差し伸べて。


「逃げるよ!」


 彰の言葉で我に返った。

 手袋をした、その雪色の手で引っ張られて、跳ねるように走り出す。よく晴れた寒空の朝日は眩しかった。ああ、ナイフ置いてきちゃった。どうしよう。まだ刺さったままなのに。あの警官の腹に、刺さったまま──。


「……あ」


 そこで、ようやく理解した。

 義彦は、人を刺したんだ。

 あのクソ神父ではない、善良な警察官を、ただの一般人を、善意と正義に溢れた正しい人を刺してしまった。殺すつもりはなかったなんて言えない。だって、あの時の義彦はここで警官がいなくなれば逃げられるのだとそう思っていた。本気で排除しようとしていた。本当に、殺すつもりで。


「お、俺、俺は……」


「分かってるから、今は考えないで。とにかく走って!」


 そもそも人殺しなんて間違っているのだ。どんなクソ野郎でも、自分が被害者だったとしても、一個人のエゴで殺すなんて間違っている。倫理観とか、道徳心とかじゃなくて、単純に背負いきれないのだ。重くて歩けなくなるのだ。押しつぶされて、ぐちゃりと倒れて、それでも離れてくれないから。だから、法律なんてものがあって裁判制度が整備されている。個人で人の命を背負うことが、どんなに大変か分かっているから。

 でも、義彦は殺した。

 花瓶で、親ガワリの老人を撲殺した。何度も何度も頭を殴って、原型を留めないようにした。顔を見たくなかった。死人の表情が、目が恐ろしかった。マトモのまんまじゃ狂いそうで、だからと言ってすぐに狂人になれるワケもなくて、だから平気なフリをして見て見ぬふりを続けたんだ。ありきたりな正義感とそれなりの恨みつらみを振り翳して。


「俺は……!」


「違うよ。間違ってなかった。君の行動は正しいんだ」


 彰が何か言っている。わからない。事実は覆らない。凍えた空気が頬を切り裂く。朝日が網膜を焼き付ける。繋いだ手がひどく熱い。ただ、呼吸がしづらい。

 滲んだ視界の後ろ側に、頭の割れた神父とハラワタが飛び出した警官がいる気がして、恐ろしい。


 ──結局のところ、義彦はどうしようもない殺人鬼だった。



 ……



 それから走って、走って、とにかく足を止めずに進み続けて、街の喧騒が遠のいたところで、ふたりは止まった。義彦は座り込む。疲れなのか、精神的なものなのか、わからなかった。ただそうしたかった。立ち止まってしまいたかった。

 静かな住宅街の真ん中で、ふたりは放心する。


「……行こ」


「……どこに」


「海辺。できれば人気のないとこ」


 しゃがんで動けなくなった義彦の手を優しく引っ張り上げて、ノロノロと歩き出そうとして、どうしても義彦が動かなかったので諦めた。ただ、ひどく寒かった。


「……俺、間違ってたのかな」


「ううん、間違ってない。僕らの逃避行を邪魔したあいつが悪いんだ。君はどこまでも正しいよ」


 上から見下ろす彰の声はひどく平坦で世間話の延長線にいた。逆光で表情がよく見えない。


「でも、人殺しはいけないことだ」


「あんぐらいじゃ人は死なないよ。だいじょうぶ」


「ちがう!」


 義彦は叫ぶ。彰が押し黙る。


「……お、俺、もっとだめな人間なんだ。許されないことを、いっぱい、いっぱいしてきて、だからもう、最初から間違ってて」


 聖書には、男色は罪であると書いてあった。

 ウソをつくなとも、隣人を殺すなとも書いてあった。そう神が仰った。守らなきゃいけなかったのにあの日から全部崩れてしまって、かと言って懺悔する勇気すらなくて。もういっそのことあの神父と地獄に堕ちてやるなんてそれっぽく決意してみてもやっぱり恐ろしくて死ぬのが怖かった。


「……ほんとは、お前みたいな、きれいな人に触れる資格もないんだよ……」


 情事が終わるたび、風呂場で皮膚が赤くなるまで擦った。神父に触られたところがひどく穢らわしく感じて、まるで汚水が染み込んだような、そんな気がしたから、意味なんてないって分かってもずっとずっと擦り続けるしかなかった。気持ち悪かった。自分が触れたら汚れが移ってしまうような気がして、人に触れるのが怖くなった。触れられるのも怖くなった。

 彰は何も言わない。嫌われたかな。もうどうでもいい。結局義彦は許されないことを再確認できたから。どうしようもない罪人なんだって、やっと心の底から納得できた。

 彰がやっと口を開く。


「──それがなに?」


 彰はイラついたような、分からず屋の子供を説得するような口調で続ける。


「別に僕だって君が思ってるほど綺麗な人間じゃない。それとも何? 君は突き放して欲しかったの? そんな罪人とはいっしょにいられませんって言われたかったのかい。馬鹿馬鹿しいね。人間を正しく裁ける存在なんていないんだよ。神も仏も誰もかも他人のジゴクに足を踏み入れ評価する資格なんてないのさ。……それでも、君は僕に糾弾して欲しかった?」


「それは、ちがうけど」


「じゃあなんて言って欲しかったのさ」


 言葉が詰まる。彰が膝をついて目を合わせてくる。その紅玉の瞳が陰鬱なまでに綺麗で、陳腐な表現だけど吸い込まれそうだった。


「──君は許されたかったんだろ」


「俺、は」


「君は自身の犯した罪を、誰かに裁いて欲しかったんだ。それこそ神に、救い主に、聖霊に。祈って変わらなかった君は絶望して、許されないって思い込んで、ずっとずっと引きずってた。違うかい?」


「でも、俺、許されなくて。ほんとに、神様に祈ってもだめだったんだ。だから」


「君の神が許さないなら僕が許す。それでも自分が自分で許せないって言うなら僕のジゴクに堕としてあげる。君の傍でずうっといっしょに苦しんであげるよ」


 白い白い少年はどこまでも蠱惑的に微笑んで。


「──君のカミサマになってあげる」


「かみ、さま」


唯一神ヤハウェが君を見捨てるのなら、地獄ゲヘナに堕とすのなら、富士山光復会ふじやまこうふくかいの御神体であるこの僕、蓬莱ほうらいが拾ってあげよう。君だけのカミサマになって、君だけを許してあげる」


 義彦だけのカミサマ。

 ひどく傲慢で恐れ知らずな物言いだ。創造主を差し置いて自分こそが神であると高らかに宣言して。きっと聖書の中じゃ悪魔だって後ろ指を刺されちゃうような行動に、確かに義彦は救われた。悪魔の甘言に惑わされて、くらりと堕ちた。

 繋いだ手があたたかくて安心する。ようやく自分の足でノロノロ歩き出す。


「……カミサマはやめたんじゃなかったのか」


「大衆向けの仕事はもうたくさんだけど、君だけなら、いいよ。カミサマになってあげる」


「そりゃいいや……。とびっきりのゼータクだな」


「はは。崇め奉ってくれたまえ」


「……そうしたら許してくれるのか」


「……うそ。もうとっくに許してるよ。君にもう罪はない。崇められんのは嫌いだしね」


 からっぽの住宅地をとにかく歩いて、バス停が見えたから行き先も分からずに待った。終点の名前が亜尾崎漁港とあるから海辺かもしれない。変なところで運がいい。

 三十分ほど待って乗り込んだ古いバスの座席はガタゴト揺れていた。暖房が効いていて暖かい。ようやく一息つけた気がした。

 他に乗客はいない。最後列にふたり寄り添って座る。


「どうせなら夏がよかったな……」


「漁港なら関係ねえよ。冬の海もなかなかいいもんだぜ」


「お魚食べる? 名物かもよ」


「……いい。食える気しねえ」


「言っといてなんだけど、僕も」


 外はヤになっちゃうぐらい憎々しい晴天で、清々しい青空を見せていた。窓ガラス付近は冷たくて、このぬるい夢から覚めそうだったから触らないように、彰にもたれかかる。彰は黙って受け止める。ひどく心地よかった。そのまま眠ってしまいたかった。文字通りの現実逃避がしたい気分。

 だって──頭の割れた神父と、ハラワタを出した警官が後ろで睨んでる気がするんだもの。



 ……



 漁港はひどく閑散としていた。

 小銭がなかったから仕方なくお札で払って、降りたバス停の周りには人気が全くない。ただ波の音が遠くから聞こえてきて、ほんのり潮の匂いがした。


「寒いねえ」


「それな」


 割れたコンクリートの上を歩きながら、ひたすら漁港を彷徨い続けた。じゃり、じゃり、と靴底が鳴る。


「……これからどこ行くんだよ」


「三途の川を越えてジゴクの三丁目。エンマ様の御前まで」


 漁港は終わった。

 単純に行き止まりだった。ざらついたコンクリートは途切れて空色の水に変わっている。古ぼけた、もう使われていないであろう船がひとりぼっちで浮かんでいるだけの、空虚な海。でも色はムカつくぐらい綺麗で、やっぱり夏の方がよかったなあなんて思った。


「……海の底って三途の川に繋がってんのかな」


「さあ。そこは試してみないと分からないね」


 あんなに綺麗に見えたのに、近くで覗いたら案外汚れていた。その方がいい。綺麗なものを汚すのは忍びないもの。

 海を背にして、コンクリートギリギリに立って彰に向かい合う。彰はひどく悲しそうで、少しだけ笑いが漏れた。


「……あのとき」


 ぎゅうっと両の手を握って。


「あのとき、助けてくれてありがとう」


 そのまま彰は義彦に抱きつくように倒れ込んで、もちろん義彦は支える気なんて毛頭ないから、コンクリートから落ちて──


 さいごは、カミサマの真珠色の髪と、青空しか見えなくて、神父と警官がいないことに心の底から安心した。

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