櫻子さんの事が気になります!

絢瀬桜子

不安

神奈川県立芙蓉高等学校。

市内でも評判の良い公立高校。校舎は新しく、進学実績も良くて、生徒達の生活の充実度はかなり高いと言われている。

そして、僕橘椿樹たちばなつばきは、県内の他校から一身上の都合で、この学校に転校することになったのだが、正直言って、何もかもが不安だ。


転校生に限らず、誰しも最初は不安を感じるものだろう。クラスに馴染めるのか、周りの生徒に学力で遅れを取らないか、そういった漠然とした不安が頭をよぎる。

特に、最初に直面する「自己紹介」なんてものは、僕にとって一番苦手なイベントだ。


自己紹介の典型的な流れは、名前、出身校、部活動、そして最後に一言。これがほとんどのパターンだろう。


僕はその「一言」に込められた暗黙の期待が嫌いだ。


初対面の人たちに、自分をどう印象付けるかというプレッシャーがすごく重い。だからこそ、どんなに短い一言でも慎重に選ばなければならない気がして、毎回緊張してしまうのだ。


ただ、転校初日の自己紹介は、少し違う。

この場合僕は「既に決まった輪」の中に飛び込む形になるわけだ。クラスメイト達は既に友達を作り終わっていて、新しく友達を作ろうと必死なわけではない。そんな中でどう打ち解けるかが非常に難しい。


そんなことを考えていると、いつの間にか僕は教室の前に立っていた。

そして息を整え、もう一度自己紹介のテンプレを確認した。


「名前、出身校、部活動、皆に一言…よし、大丈夫だ。」


と呟いたその時、隣から声がかかる。


「なんだ、緊張しているのか?安心しろ、うちのクラスは良い奴しかいない。仮に馬鹿にしてくる奴がいたら、永久に追放してやる。」


その声は、僕のクラス担任である神崎沙羅かんざきさら先生だった。

凛とした顔つきに、艶やかな黒髪。モデルでも通用しそうな美貌を持つ顔が、肩越しに僕に微笑んだ。

さっきの発言には驚かされたが、僕は少し見惚れてしまった、とは言っても本当に惚れてしまった訳では無い。


「それなら安心しました。でも仮に馬鹿にしてくる人がいても、永久追放だけはやめてくださいね。本当に、注意だけで大丈夫ですから。」


苦笑交じりにそう答えた。


もし本当にそんなことになったら、僕に向かって怒りの矛先を向けられそうだから、絶対にやめて欲しい。


「なぜだ?まぁいい、もう朝礼が始まるから入るぞ、心の準備は大丈夫か?」


え、冗談で言っているのではないのか?

沙羅先生は容姿に反して、性格はかなり厳しそうだ。


「だ、大丈夫です。」

いよいよ新生活のスタートだ。


教室には、既に何人かの生徒が座っており、僕が入ってくると視線が一斉に集まった。

その中に、ひときわ目を引く黒髪ロングの女の子がいた。

彼女は、僕が教室に入った瞬間から、驚いたような顔で見つめてきていた。


どこかで会ったような気がするが、思い出せない。


「それではみんな、知っていると思うが、今日から共に生活していくクラスメイトの橘椿樹だ。橘、自己紹介を頼む。」


沙羅先生の指示に従い、僕は緊張しながらも自己紹介を始めた。


「はい、一華高等学校から転校してきました、橘椿樹です。

部活動はまだ決めていませんが、2年間、皆さんと楽しい思い出を作っていきたいと思っています。よろしくお願いします。」


自己紹介を終えると、教室に拍手が響いた。

拍手の音に包まれ、無意識のうちに僕は安堵の息を吐いた。

一人の人間をこれほど精神的に追い詰める自己紹介というもの、ほんとに恐ろしいものだ…。


「橘、お前の席は、最後列の窓際から二番だ。」

先生の声が教室に響く。

どうやら、あの子の隣の席らしい。


僕は指示された席に向かい、その途中で再び目が合った。

彼女は先程の驚いた表情から、どこか嬉しそうな表情に変わっていた。


「これで朝礼は終了だ。みんな、橘には優しく接してあげてくれ。それと、この学校のことが分からないだろうから、学校案内も任せたぞ。」


先生の言葉で、朝礼は終了した。

そして、すぐに教室の空気は和やかになり、僕は声掛けられ待ちの姿勢をとった。


「橘君。」


すると隣から声がかかる。

僕が顔を向けると、先程からずっと僕を見ていたあの黒髪の女の子が、優しく微笑んでいた。


「私は櫻子。綾瀬櫻子あやせさくらこ。これからよろしくね、橘君。」

彼女はただ自分の名前を言っただけだったが、彼女の一言に僕は心を奪われていた。その美しい黒髪、可愛らしい顔、天使のような笑顔、全てが愛おしく感じる。


「こちらこそよろしく、櫻子さん。」


彼女と話すと、なぜか懐かしい気持ちになる。

不安だらけの新生活が、少しだけ、暖かく感じられる瞬間だった。

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