第35話


 先月同様、とっても不機嫌だ。

「そ、そんなことを言われても困るよ。だって中学三年のバレンタインて」


 中学三年生の二月十四日。

 家庭科の時間でチョコレートを作り、

 夏希がチョコと引き換えに俺の貞操を迫ってきて、

 男子たちはチョコをいくつ貰えたかを競い、

 俺は惨めで情けない想いでいっぱいだった。

 そんなとき、数人の女子たちと何か言い争っている春香の姿が目に入った俺は、春香に泣きついた。


「春香さまぁ! 神様仏様春香様ぁ! どうかわたくしめにチョコを、僅かばかりのお慈悲を恵んで下さいぃ!」


「え!? う、うん、ほら」

「いやったぁあああああ! もらえたぁ! うっほほーい!」

「はぁ、何あんた春香なんかのチョコで浮かれているの? そんなゴリラチョコなんかより、私のチョコをあげましょうか?」

「へ?」


 小学校時代、女子たちから六年連続激辛チョコを渡された俺は、論理的かつ冷静に考えた。


 相手はクラスでも高いヒエラルキーに位置する美人女子。そんなこいつが、俺にチョコを渡す訳がない。


 小学校の黒歴史が俺に警告を発する。これは罠だと。

でなければ、秋宮にチョコを渡すという罰ゲームだろう。

「誰がお前のチョコなんて食うか!」

「はぁ、あんた、この私のチョコがいらないってどういうことよ!?」

「やっと見つけたよ幹明。さぁ、ボクの愛のチョコを受け取っておくれ」

「げっ夏希。俺は春香のチョコだけあれば何もいらないんだ! じゃあ俺はこれで!」

 そう言って、俺は走って逃げだした。

 以上、回想終了。


 三か月前の記憶を手繰り終えてから、俺は言った。


「あの時は、俺が春香に泣きついて家庭科の時間に作ったチョコレートを恵んでもらっただけじゃないか。感謝するのは、むしろ俺だろ? あのチョコレートは今でも神棚に飾っているよ。俺が人生で唯一、女子から貰ったチョコだからね」夏希は実質男子なのでノーカンだ。


「食べなさいよ!」

「断る! あれを食べたら次はいつ貰えるかわからないんだぞ!」


 俺の毅然とした男らしい態度に、春香は不意を突かれたように瞬きをしてから、唇を噛んで視線を逸らした。


「チョコくらい、来年もあげるわよ。だから、早く食べちゃいなさいよ気持ち悪い」

「え、まじで?」


 俺は表情のワット数をぐいっと上げた。


「本当よ、言っておくけど、義理だからね!」


 俺の目から涙が溢れ出す。


「うぅ、ありがとう春香ぁ、結婚してくださいぃ!」

「義理だっつってんでしょ! 男がチョコで泣くんじゃないわよみっともない!」

「男だからこそ泣くんだい! チョコを貰えない男のバレンタインがどれほど惨めか春香にはわからないんだ!」

「あんたこそ」


 涙をちょちょぎれさせながら訴える俺に、春香は恥じ入るように言い返してくる。


「あんただって、バレンタインにチョコをあげる相手のいない女子の気持ちなんてわからないでしょ?」

「え?」


 俺がきょとんとすると、春香は気を取り直して俺の手を引いた。


「ほら、とにかくイベント終わったんだから、みんなにメッセージ送って一度集まりましょ」

「う、うん……」


 彼女に手を引かれるまま歩き出すと、春香が一言。


「今夜、ビーフカレー作るんだけどあんたも食べる?」


 西日をバックに背負い、ためらいがちにそう尋ねてくる春香は、なんだか可愛かった。


 それに、春香の料理の腕は、前に食べた肉じゃがで知っている。

 パン耳ライフも悪くないかなと、一抹の幸せを感じた。


   ◆


 五月の月末試験の朝。

 俺は……揚げ物の音で起きた。


「ん? なんだこの音?」


 目を覚ますと、時刻は目覚ましをセットした時間の一分前。

 枕元では、くまお君がねじり鉢巻きにはっぴ姿で太鼓を打つ準備をしている。


「今日はもういいよ」


 そう言ってくまお君の頭を指でつつくと、くまお君は頭上に【?】アイコンを浮かべてから、『早起きえらいくま』と言って、太鼓を片付け始めた。


 可愛いな。朝から癒されつつ、揚げ物の音に意識を向けた。


 我が家の壁には、春香の部屋に繋がる穴が空いている。穴の位置はベッドの足元だ。


 隣の部屋の調理音がこちらに貫通してくるのはよくあることだ。

 けど、それにしては音が大きい。

 上半身を起こしてみれば、我が家の台所がなにやら騒がしい。


「あ、幹明おはよう」


 ハート柄の黄色いエプロン姿の美奈穂が、ひょっこりと顔を出した。


「おはよう。あんた起きるのいつも遅いわね」

「やぁ幹明。おじゃましているよ」

「凡民の朝は冴えないですわね」


 猫柄の赤いエプロン姿の春香、イヌ柄の青いエプロン姿の夏希、無地の純白エプロンだけど肩口をレースであしらったエプロン姿の美咲が、次々台所から出てくる。ここは女子寮か!


「美奈穂と春香はわかるけど、いや駄目だけど、なんで夏希と美咲までいるんだよ!?」


 非現実的な出来事に俺はやや素っ頓狂な声を上げる。

 なのに、女性陣はいたく冷静だ。


「ワタクシが先勝祈願にと神戸牛を持参しましたら、美奈穂さんが開けてくださったんです」


「幹明の部屋からチャイムが聞こえたのにドアを開ける音がしなかったから、わたしが押し入れの穴からこっちに来てカギを開けたんだよ。偉いでしょ?」


「たいへんよくできませんでした!」

「ボクも朝ご飯でも作ってあげようと思って管理人さんから合鍵を借りてきたら鍵が開いていて」


「それから神戸牛をカツにするための人手としてあたしが呼ばれたのよ」

「揚げ物は手間がかかるからね、ボクも助かったよ」

「ワタクシも、料理は学園に来る前に覚えましたが、揚げ物は苦労しますわ」

「飛び跳ねた油の処理とか、後始末も面倒なんだよねぇ」


 わいわいきゃいきゃいと料理談義に花を咲かせる女性陣。

 だけど君たち何か忘れていませんかね? この部屋の主とか俺とか俺とか俺とか。


「あと夏希、なんでお前はしれっと合鍵を借りてんだよ?」

「はっはっはっ。よくぞ聞いてくれたね」


 自慢げに平らで色気の欠片もない胸を張りながら、夏希は待ってましたとばかりにドヤ顔を作りながらエプロンを脱いだ。


「まず、こうやって食材を入れたスーパーの袋を体の後ろに両手で持って、ちょっと内股になる。それから肩を縮めて頬染めながらもじもじと上半身をくねらせながら視線を伏せてためらいがちに」


 次の瞬間、


「あ、あのぉ、あたし、三〇三号室の秋宮くんに朝ご飯を作りに来たんですけど、彼、まだ起きていないみたいで、カギ、貸してもらえませんか? あ、ダメだったらいいんです。でも、早くしないと、お料理まにあわなくなっちゃう」


 そこには、古今無双の美少女が立っていた。

 ば、馬鹿な! 夏希が可愛く見えるだと!?


 落ち着け俺の心臓! 鎮まれ俺の下半身! あれは実質男子の夏希だぞ!

 俺と同じ、Y染色体の化身だぞ!


 恋に落ちないよう、俺が危ういところで闘っていると、夏希はシャキッと背筋を伸ばした。


「とまぁボクの圧倒的な色気の前に管理人のおじいさんはゆでだこのようにメロメロさ。ちなみに、普段よりスカートを五センチ上げておいたのも策略だよ」


「すごいわね夏希。あたし今一瞬あんたのことがマジで女子に見えたわ」

「夏希カワイイ」

「ふぅん、貴女にも意外な才能があるのね……」


 珍しくモテモテの夏希。

 べ、別にうらやましくなんて無いんだからね!


 とか、頭の中で謎の負け惜しみを言うと、夏希が、イタズラっぽい笑みでウィンクを飛ばしてきた。


 その一撃で俺の本能は足を踏み外すが、恋の谷底へ落ちる前に人道のふちに手をかけ、なんとかよじ登った。


 三秒ルール三秒ルール。

 自分に必死の言い訳。我ながら、情けない姿であった。

  

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