第5話

「おれ、鮎川あゆかわ寛人。きみは?」

岡崎おかざき……じゃなくて……梨本です。梨本千紗ちさ


 お母さんが再婚する前の苗字を言いそうになり、慌てて言い直す。

 わたし、『梨本さんの娘』になったんだっけ。


 梨本千紗――心の中で繰り返してみるけど、やっぱりまだ変な感じ。


「千紗ちゃんね。覚えた!」


 鮎川という子が、わたしの隣でにかっと笑う。

 わたしは仕方なく苦笑いをする。


 転校初日の昨日は自分の席に座ったまま、一日中うつむいて、誰とも話さず過ごした。

 新しい友だちなんかいらない。早く高校を卒業して、あの家を出たい。

 わたしの望みはそれだけだから。


「へぇ、寛人と同じクラスなんだ?」


 前を見ると、バックミラー越しの女のひとと目が合った。


「よろしくね。うちのバカ息子を」

「母ちゃん。バカは余計だ」


 やっぱりこのふたり、親子だった。

 鮎川の声に、お母さんがけらけらと明るく笑う。

 そして車内に流れていた音楽のボリュームを、少し上げた。


 海沿いの道路を走る車。

 少し開いた窓から吹き込む、さわやかな風。


 流れてくる音楽は少し昔の、お父さんが好きだったロックバンドの曲だ。

 小さいころから何度も聴かされて、すっかり覚えてしまった。


 それにピアノでも……何度も弾いた。


『上手いぞ、千紗。さすがおれの娘だ』


 わたしが弾くと、いつもお父さんはそう言って、あの大きな手で頭をくしゃくしゃと撫でてくれたっけ。


 心地よいメロディーを聴きながら、目を閉じる。

 このままずっと、こうしていられたらいいのに。

 音の海で、溺れていられたらいいのに。


 だけど車はすぐに学校に着き、校門の少し手前で停まった。

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