いつかもう一度告白を

左原伊純

碧と詩維奈

 私は生まれてから何年も、自分が何者かを意識してこなかった。それが全ての元凶なのだろう。



 幼馴染の詩維奈しいなと毎日一緒に登校していた小学生時代。二人の仲を何度からかわれても私にはその意味が分からなかった。


 恋人かと言われても何のことかと考えもせず、『違うよ』と言ってからかった人たちを小突いていた。詩維奈はどんな気持ちだったのだろう。


 きっと詩維奈は迷惑していただろう。


 詩維奈に誘われて少年野球チームに入った時もそうだ。


 詩維奈とばかり練習していると皆にからかわれた。

 詩維奈は、『私は女の子達とキャッチボールするからあおいは男の子達とやって』と私にはっきり言った。

 その顔は少々困惑していたと思う。私の鈍さのせいで詩維奈にそこまで言わせてしまったのだ。



『女の子なのにキャッチャーなんて、強気すぎるかな?』


『まさか』


 詩維奈はコーチにショートを薦められたが、キャッチャーになりたいと言って譲らなかった。


『僕だってピッチャーだよ?』


 キャッチャーに負けず劣らず強気なポジション選択ではないか。


『だって碧は男の子だから』


 今思えば、その時に早く気付けよ。



 私と詩維奈はチームのエースと正捕手として活躍した。


 私はリトルシニア入団を薦められてテストを受けに行くことになった。


『ねえ、詩維奈は?』


 詩維奈の実力は高く、女子でありながら六年生になるまで一度も正捕手の座を譲らなかった。


 彼女は中学のソフトボール部に入ろうと考えていたらしいが、迷っていた様子だった。


『私はもう、レギュラーとか気にしないことにしたよ』


 迷いを晴らした詩維奈の笑みは輝き、彼女もシニア入団を決意した。


 詩維奈はファーストにコンバートし、ついに公式試合に出場できるまでになった。その間、私はずっとエースだった。


『お前らはまるで恋人みたい』


 何度言われても私は笑って受け流していた。


 詩維奈は嫌な思いをしなかっただろうか。それだけが心配なのだ。



 昨日から高校生。

 私は野球を辞める。


 昨日と同様に顎までの長さの髪を解き、薄い桜色のリップクリームを塗る。少し濃いめの眉はあらかじめ薄くしている。少し経ったらまた切らなきゃいけない。


 女子とは継続する物なのだ。


 毎日の走り込みが足腰を作るように、毎日のスキンケアが顔を作る。


 良いフォームが良い球質を生み出すように、良い服と髪が良い印象を生み出す。


 相手チームを研究するかのごとくファッション誌を読み、いかに自分の決め球で勝ちに持って行けるか――持って生まれた自分の容姿でも可愛くなれるかを探求する。


 私は川田碧という。

 昨日から女子高生。


 ぱりっとしたプリーツスカートの下にトランクスを履きはしない。鍛えた脚を少しでも隠すために、美脚効果のあるタイツを合わせる。髪が顔にかからないように、綺麗になるように慎重にピンを留める。


「大丈夫」


 鏡に唱える。ずっと前からしてきたこと。

『大丈夫だ、僕はエースなんだ』と今までは言ってきた。その時は勝気な顔を作っていた。


「大丈夫だよ。私は普通の女の子なんだから」


 今は花のような笑顔を作ってみせる。



 登校二日目、友達はゼロ。

 周りの女子は緩やかにグループになっている。


 まとまるのが早すぎはしないか。男子たちはまだのんびりとばらけている人もいるのに。男子が羨ましい。

 私も隣の子に声をかける。


「今日は何ページからだっけ?」


「五ページからだよ」


 にっこり笑顔で私に返した隣の女子はすぐに他の子と話し出す。


 これだよ。女子は仲良くなる気がない相手にも礼儀正しく笑顔だ。それは美徳なのだろうけど分かりにくいったら。


 話題がない。一応、入学前に女子が好きそうな音楽とか芸能人とか調べたけどそんなもの役に立たない。


 話題は作るものではなくのっかるものだということ。


 私の持っている話題なんて、こないだのトレードだとか、キャンプとかそういうのばかり。男子相手ならまあいいのかもしれないけど、女子は野球に興味がない。あったとしても隠す。ねえねえ、こないだのトレードなんだけどさ、なんて自分の好きな物を切り出しはしない。


 全員隠し球持ち。研究の余地なし。

 私は女子になれるのだろうか。



 昼のお弁当の時間。なんとなく輪の中に入れてくれたけど私に話を振る人はいない。いつでも外される一軍と二軍の間。まあそれでもいいか。


「あ、馬鹿!」


 まだ芽吹いたばかりみたいに緊張感のある教室に緊迫した声が跳んだ。


 野球ボール――それも硬式――が教室にぽんっと転がり、女子グループの手前で落ちた。


「ごめんごめん」


 野球部に入るらしい男子たちの手から滑り落ちた、というよりうっかり投げてしまったらしい。ふざけていたのかな。


 馬鹿だなあという目を女子たちと同じように向けようとしつつも、体が勝手に床のボールを拾っていた。


「サンキュ」


 男子が気楽に言うが女子から浮きたくない私はそっけなく、何も言わずに投げ返した。


「おおー。ナイスピッチ」


 馬鹿、騒ぐなといらっときた。

 男子の皆は何も気にせずでかい声で、あのトレードはさあ、と話しまくっている。話を聞かない人がいても一切気にしない。ああ羨ましい。


 私は中学が終わるまであの中にいた。女子っぽいなといじられつつも。



 体は男性だが心は生まれつき女性。


 それなのに野球が得意で大好きな私は何の不都合もなくリトルシニアでエースを任されて生きていた。

 男子社会に適応しすぎたせいで本当は女子なのに女子と仲良くできないでいる。


 このまま男子社会で生きようかと思いもしたが、リトルシニアの監督と高校の監督が私を推薦するかどうかの話し合いをしているのを見て、男子社会は居心地がいいけど男性社会は微妙だと感じた私は、早めに女性社会に慣れようと思った。


 ここの学校は制服に融通が利く。そして私を知る人がいない遠方だ。

 それなのに。


 結局、今日も何もできなかった。

 クラスで一人、最後まで残った私は、この先の予定を考える。親戚の家に下宿しているので家も居心地がよくない。


 このまま食事でもするか、でも一人でご飯を食べるのを誰かに見られたら、ますます周りが仲良くしてくれないかもしれない。


 せめて女子らしいものを食べればいい? クレープ? タピオカ? 違う。こういうのは複数人で食べるからこそいいのだ。試合後の焼肉みたいに。


 ああどうしよう。このままじゃ男にも女にもなれないや。


 がら、といきなり教室のドアが開く。びくっと背筋を正した。


 廊下からこちらを覗くのは詩維奈だった。


 何故、詩維奈がこここの高校に? と叫びたいのをこらえて私はスマホに目を落とすふりをした。


「あの、すみません」


 詩維奈が私におそるおそる声をかける。よかった、さすがに一目ではばれないみたい。


 私の声はかすれているから、男子でも女子でもどうにか通用しそうだ。


 だけど詩維奈は誰よりも私そのものの声を知っている。

 声を出さず、なんですかと言いたげに首を傾げた私に詩維奈が愛想笑いを浮かべた。それだよ、女子がする礼儀正しい笑顔。


「川田碧って人を知りませんか?」


 なるべく驚いていない風に首を振る。


「そうですか」


 ぺこっと会釈して詩維奈がドアを閉めて去っていった。


 こうしてみると詩維奈は女子だ。私と同様にずっと男子に近い所にいたのに。いや違う。詩維奈は周りの男子から女子だと認識されていた。皆で抱き合うとき男子は詩維奈に抱きつく前に三秒くらい迷っていたものだ。


 そういえば、ここには女子野球部がある。家から遠いのに詩維奈が入学するのも頷ける。このクラスには入部する人はいないのだろうか。でも、だとしてもなんて会話すればいい? 川田さんはどうして入らないのと聞かれたら……と、そこまで考えて私は気が付いた。


 マネージャーになればいい。


 夜、私は女子を継続するために洗顔後に化粧水と乳液を塗った。三月からの継続のおかげで中学時代のニキビ跡が目立たなくなってきた。努力は継続してこそ。


 髪を解き、ヘアケアのスプレーをつける。女子の匂いがする。だって私は女子だから。


 友達がいないまま三日目を迎えるけどきっと大丈夫。マネージャーになったら誰かと話せるはず。



 翌日の放課後。私はマネージャーになるのを断念した。


 更衣室が一つしかなかった。私自身にそんな気がなくても、周りの子は私の体を見れば一緒に着替えるのを躊躇するに違いない。


「マネージャーにならなくていいの?」


 何も知らない顧問が言う。私の制服の事情は校長と担任以外は知らされない。


「はい、自信を失ってしまって。すみません」


 女子らしい礼儀らしい引き際の笑顔ができたかな?


 女子は隠れて着替える。見られてはいけないから。でも私は体を見られても平気。


 私は女子になれるの?


 今日もすぐに帰ろう。下宿の家は居心地は悪いけど隠しごとをする必要はない。


「あの」


 私を追いかける声は詩維奈のものだ。

 私は振り向くだけだ。


「キャッチボールしようよ。ね?」


 私のことを碧だと気付いているのかな。私は首を横に振った。


「私、ここに入部するってまだ決めていないの」


 詩維奈が突然、私に歩み寄って小さな声で言った。


「男子の野球部のマネージャーになることも考えている」


「どうして」


 私の馬鹿。声を出すな。詩維奈は女子の笑顔をしたから、私だとばれたかどうか私には分からなかった。


「先輩が性格が悪い人がいてさ。噂話とか大好きなの」


 何故か、いや、意図的だろう。警告してくれた。


「まあ野球部にいい人がいるかどうかも知らないけど?」


 詩維奈は女子の顔ではなく詩維奈の顔で笑った。やはり私だとばれていた。


「実力さえあれば許される。今までもそうしてきたでしょう? 碧」


「だけど」


 私の声に涙がにじむ。私は泣きそうだったのだと今初めて分かった。


「大人の男性にはなれない」


「女子になるのは大学生になってからでもいいと思う。ここは狭すぎる」


 そんなに優しい顔をされると女子になろうとした決心が砕けそうだ。



 私たちは他の女子たちみたいに二人でファストフード店に入った。私は遠慮する必要がないことに安心してハンバーガーを三つ頼んだ。詩維奈はハンバーガーは一つだがポテトを最大のサイズにしている。


「私が女子だって、どうして認めてくれるの?」


 詩維奈に私の性別を打ち明けた日、彼女は泣いていた。


 私よりも悲しんでくれたのが何故なのか私には分からなかった。可哀想だと思ってくれたのだろうか。


「認めるに決まっている。碧が本当のことを言ってくれたから」


 そう言いつつ、今もまさに泣きそうな瞳をしている。だけどそれをすぐに変えてポテトをつまんでしまう。


 幼馴染のことさえ分かってあげられない私だから、女子になれないのだろうか。


「男子の野球部に入ったら? 事情を話したって戦力を欲しがるに決まっている。私がマネージャーになって碧を助けるから」


「どうしてそこまで?」


 何言っているの、と得意そうな笑顔になる。懐かしい笑顔だ。小学生の時にマウンドでたくさん見せてくれた。


「私は碧のバッテリーだから。ファーストになってからもずっとそう思ってきた。おかしい?」


「おかしくない」


 詩維奈に投げてけん制死させるとき、二人は紛れもないバッテリーだった。詩維奈の技術をどの男子も認めていたけど、私が一番認めていた。


「だからこれからも一緒に戦うから」


 詩維奈は女子硬式野球部できっといいキャッチャーになるだろう。人を安心させる力があるのだから。


「私はキャッチャー姿の詩維奈を見たい」


「野球部で壁になればいい」


「捕れる?」


 女子に男子が投げる硬球がぶつかって欲しくないのだ。私が言うのは変だけど。


「碧はストレートしか投げないでしょ」


「そうだけどさ……」


 投げられないの間違いだけど。


「いつも打球がぶつかっても耐えていたでしょ?」


「でもあれば中学生の打球で」


「私のこと舐めてんの?」


「まさか。でも体が女の子だから」


 くすくすと詩維奈が笑った。


「面白い言い方だ」


「ごめん」


「いいの」


 二人でいると性別さえ笑い話にできる。



 リトルシニアを卒業した次の日のことだ。


 詩維奈に話があると呼び出されて彼女の部屋に行った。いつもと違い詩維奈はスカートを履いていた。


 詩維奈はなかなか切り出さなかった。


 私はそれまで詩維奈にさえ本当は女子であると話していなかった。というより、私自身がどこに属する者なのかを知らなかった。知識が無かったので、自分が少数派だと思いもしなかった。


 詩維奈にだけは言った方がいい。初めてそう思った。当初は詩維奈にも隠してこの町を出ようとしていた。


 幼馴染だ。男子と女子なのにずっと親友だった。私も女子だったと知れば詩維奈は何を思うのだろう。伝える怖さはあった。


 詩維奈が私に笑った。綺麗な笑みだった。小さく首を傾げて、ふわりとした前髪とおさげ髪が揺れる。それは彼女の癖のようなもので、これから話していいかなと私に呼びかけるためのものだ。


 これから何を言われるか分からない。一刻も早く真実を告げた方がいい。

 私は先に口を開いた。


「あのね詩維奈」


 詩維奈は傾げていた首を元に戻し、私の話を聞き終えると泣いた。


「ごめんね。ずっと騙していたようなものだよね」


 付き合っているとからかわれて嫌だったでしょとは、さすがに怖くて聞けなかった。

 詩維奈はしばらく泣いたが、最後には笑顔になり、


「大丈夫」


 と言ってくれた。


 男子と女子なのに親友だった二人なのだ。二人はこれからも親友でいられるのだ。


 私は大変な人生でも、詩維奈と会えたのだから幸せなのだと思う。


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