第一話 

 おばあちゃん、まさか「ちょっとトイレ行ってくるわー」と言い残して、それから三十年以上も帰ってこないなんて。


 夜丘やおか瑞世みずせちゃんへ、と青いマジックペンで書かれたカセットテープを古いラジカセから抜き取る。このカセットを聴くのはこれで何千回目だろうか。

 埃を被ったカーテンを開いて、雲ひとつない青天を仰ぐ。白い太陽がまぶしい。眼精疲労のせいで、眩しすぎてつらい。


「今日も天晴れ便秘日よりかな……」


 下腹を「の」の字に撫で回しつつ、寝起きからすでにバキバキに凝っている肩をぐるりと回す。はぁ、つらい。肩も首も背中も限界寸前。肉体も心も社畜モードが抜けない土曜の朝。とほほ。

 昨日は課長にしこたま怒られたせいで、華金どころか泥金・・の平日終わりとなった。金曜の夜は、古い洋画を布団の上で観ながら寝落ちする――これだけが私の平日疲れを癒やす唯一のストレス発散方法だったというのに。昨晩は夕飯も食べずに畳の上で気絶して、気付けば日付を越えて午前十時前……肩や背中どころか腰も後頭部も、いや、もう全身が痛い。

 いい加減に運動とかストレッチをしないとなぁ……と思いつつ、眼鏡のレンズの曇りを袖で適当に拭う。眼鏡拭きもどこにやったっけ、と思いながら胡座をかき、カセットをB面に裏返してからラジカセにセットし直す。


「すっばらすぅい~……」


 Y、M、C、Aと小さく頭を左右に振ってリズミカルに歌う。ゴミ出しに行ったきり帰ってこない母もこの歌が好きだったらしい。母が消えた当時、私は一歳。おばあちゃんが消えたのは私が五歳の時。消える前の母はそこそこ有名な舞台俳優だったらしいが、私は彼女のことをほとんど知らない。当然だ。母は地元の商店街にあった古い演劇舞台の舞台俳優で、超がつくほど貧乏だったし子育ても他人任せだった。

 写真はチンドン屋とピースサインをして映っている一枚しかないし、携帯も持っていなかったとのことで母の連絡先を知る者はいない。平均年齢八十歳を超えた商店街の皆さんの朧気な記憶の中にしか、母が生きた証は残っていない。My Little Loverかよ。


 おそらくMy Little Loverな私の母が実際はどういった人間だったかを教えてやるにも、自分が死んでいたら……とおばあちゃんも危惧したのだろうか。遺言をカセットテープに録音していてくれたようだが、B面には西城秀樹のヤングマンが録音されていて、数十秒のブランク明けからは鈴木さんとおばあちゃんの漫才が収録されていた。ヤングマン……そこはMy Little Loverじゃなかったのか。いやそれよりも、漫才。ネタのほとんどが身内ネタの素人漫才を聞く三十五歳の誕生日の朝ときたら。


『やってられませんわー!』


 こっちの台詞だよ! と思いながら、おばあちゃんたちの漫才をBGMに尿意を催してトイレに立つ。


「すっばらすぅ……くねー。生理きつー!」


 おお、神よと思いながらトイレットペーパーを右手に巻きつける。シングルで一番安いやつを買っておいてよかった。手に厚めに巻いたトイレットペーパーでやさしく股を拭いてから「これ安いやつやー……」と指先についた血に心がげっそりとする。

 三年ほど前から急に生理痛が酷くなった。子宮内膜症というやつらしい。「嫌なやつ」って月島雫ばりのムッキー顔でナプキンを交換しながら、日々体力の衰えを実感する。私の下腹部は常にエレクトリカルパレード状態。某ねずみーらんどにはまだ行ったことがないが、多分「ここ」にはヴィランしかいない。強烈かつ凶悪なヴィラン様のご活躍のおかげでホルモンバランスは崩れに崩れて月の数日しか元気な日がない上に、ついでに十年前に発症したうつ病の名残で逆流性食道炎と慢性的な痔もある。持病のオンパレード。まったく楽しくないパレード。


「はーあー……」


 しばらく赤いものは見たくない……と思いながら手を洗ってトイレを出ると、


『絶体絶命になってからが本番やでっ』


 とタイミングよくおばあちゃんと鈴木さんがユニゾンで励ましてくれる。

 いや、いかにも自分達が考えた決め台詞みたいに言っていますけども。


「それを言ったのは本田宗一郎」


 孫として儀式的にツッコミを入れて、今朝の『鈴木・夜丘~ズ』の漫才鑑賞会を終える。(この場合、鑑賞会と言っていいのかは不明だが)

 このラジカセは二十年前の中古品を市の骨董市で買ったもので、アンテナが折れているのでラジオは聴くことができない。不良品じゃないかと思ったが、店主は断固として値引きに応じなかった。そのほかにも、部屋にある卓袱台や本棚、椅子に机もすべて中古品をリサイクルショップで手に入れたものだ。どうせなら新品がいいけれど、なにせお金がない。お金がない人間はNOが言えない。ざらついた木材の表面には以前の使用者の落書きが彫られてある。


『よしりんとみぽりん。結婚しましたー』

『なんなの……姑と国鉄ときたら』

『みぽりんと離婚しました』


 よしりんとみぽりんに一体何があったのか。

 その思い出の傷になんの思い入れもない他人の私。九畳のワンルームで、ひとり三十五歳の誕生日を迎えるにはあまりに寂しいのではないか……いや、どう足掻いても寂しい。


「……仕方ない!」


 今日くらいは奮発してハーゲンダッツのアイスでも買うか、と不織布マスクと財布を片手に玄関を開けた時だった。


「あっ」

「……あ?」


 前者の「あ」はブロンドヘアーの絶世の美少女からで、後者の「あ」はボサボサ頭のすっぴん顔にマスクを付けた私の口から出た。同じ地球上に住んでいながら明らかに作画が異なるような美少女を前に、私は咄嗟にマスクの下で愛想笑いを浮かべて挨拶をした。


「こんにちは」


 私が言うと、綺麗な二重の目をパチパチと瞬かせた美少女がじっと上目遣いで見つめてきて、ちょこんと両手をスカートの前で揃えて、


「ごきげんよう」


 と挨拶を返してくれる。

 ごきげんよう。なんという育ちの良さが滲み出た六文字。


「ご、ごきげんよう。どうもどうも」


 どうもどうも、とか付けちゃったよ。私の口から出た十二文字のなんと庶民くさいことよ。とほほ。まぁ、今は金髪美少女よりもアイス。ハーゲンでダッツなストレスフルカンフル剤アイス。

 勝手に美少女と自分の差を思い知って自己嫌悪しそうになるのを堪えて、一足先にアパートの外階段を降りようとした――その時だった。


「これから占いをするところなの。タロットカード占いよ」

「ん?」

「わたしの相手をしてくれない? あなたのことを占うわ」


 タロットカード占い……いや、土曜の朝にくだびれたアラサーにいきなりそんな提案をされても。私は階段を二段ほど降りたところで立ち止まり、フランス人形のような白く小さな顔をまじまじと見上げた。


 彼女の名前は、ミユウ・植村。

 体力の衰えとともに年中不織布マスクが手放せなくなった私こと夜丘瑞世とはなんら関係のない小学二年生の女の子で、たしか同じクラスに彼氏がいたはず。最近の小学生ってマセてるのねー、と彼女の母親が暢気に笑っていたのはつい二日前だったか。


 我が地元――愛媛県佐久間町は山と川と海に囲まれた関西の田舎町で、絶世の美女と美少女が並んで金髪を靡かせて歩いていることなんて滅多にない。だからそんな二人が二丁目のゴミステーション前にいたら誰だってつい目をやってしまう。私もその内のひとりだった。同じ町内にこんなキラキラ親子が引っ越してきたのか――と驚くのも束の間、なんと同じアパートの二階で、しかもお隣さんときた。それが分かったのが一週間前くらいだろうか。

 築五十年以上のボロアパートでほとんどが空室状態だ。部屋はいくらでも選べたはず。だというのに、わざわざ隣同士……私はなんだか怖くなってしまって、このキラキラ親子とは接触を最小限に控えておこうと決めていた――のだが。


「暇でしょ、あなた」


 キッパリとした口調で断言されて、私は思わず財布を片手に仰け反る。


「え、ええー、暇ではありますが、その、これから買い物に行く予定で……」

「じゃあついていくわ。買い物が終わったら暇なんでしょう?」


 なかなかに図太い。しかも、妙に上から目線。子ども相手とはいえ、これはオブラートに包まずにはっきりと伝えたほうが後々のために良いような気がする。お隣さんだからといって毎度顔を合わせる度に絡まれたら面倒だし。子ども、苦手だし。

 私はムッとした真顔をつくってから、「いいえ」と首を左右に振った。


「暇ではないです」

「子どもがこんなに頼んでいるのに断わるの? 買い物のほかにどんな用事があるの? というより、どうして七月なのにマスクを付けているの? 風邪なの?」


 質問が多いな、おい。

 私はちょっと引きながら金色のつむじを見下ろした。最近の小学生って彼氏がいる上に隣の部屋のアラサーの時間を拘束することも当たり前みたいな感じ?


「ごめんね。おばさん、風邪予防で常にマスクが手放せないアラサーなの。一度倒れると回復するのに三日もかかるから。リスク重視型なの。ちなみに、今日は家でゆっくりしたい気分かなーって……」

「じゃあ、ゆっくりと占いをするわ。家にあげて」


 いや占いをゆっくりされても。


「あまり他人を家に上げたくないタイプでして。よかったら今日は別のお友達と遊んでくれるかなー?」

「そう……それなら外でカードを展開するわ。泥だらけになるでしょうけど。だってあなたが家にあげてくれないって言うんだから、仕方ないわよね」


 そんな恨めしそうな目で見つめられましても……。

 私は「未成年誘拐」や「彼女の母親からの叱責」「その他諸々の面倒」を未来から排除すべく、膝を曲げて彼女の視線に合わせてから「お母さんは?」と問い掛けた。膝からはパキッと哀しい音が鳴った。


「お母さんに許可は貰ったかな? 隣の家のおばさんと遊びますーって」

「いないの」

「ん?」

「お母さんは家にいない。引っ越しを手伝ってくれた真知おばさんは今仕事に行ってるわ。お母さんの妹よ」

「お母さん、今日はお家にいないの? 買い物とかかな」

「病院よ。入院してるの。だから真知おばさんが料理を作ったり洗濯をしてくれたりしてる。でも真知おばさんにも息子がいるから、夜はわたしひとりっきりよ。今までも、これからもずっとそう」

「そう……なんだ」


 ということは、一週間前に並んで歩いていた女性は彼女の母親ではなく叔母だったのか。

 大変だね、とか、大丈夫? とかそういう言葉が出そうになったのをグッと堪えて喉の奥に呑み込む。


「じゃあ、置き手紙をしてから鍵をちゃんとかけて。キッズ携帯とかを持っているなら、真知おばさんにメールも送って。それができたら、おばちゃんと一緒に近くの公園に行こうか」


 私がそう提案すると、不満げな表情が見上げてくる。


「家に上げてくれないの?」

「上げないよ。おばちゃん、他人を家に上げるタイプじゃないから」

「わたし、子どもよ?」

「関係ないかな。だってお嬢ちゃんは私とは他人だから」

「あなた……はっきり言うのね」


 驚きに丸くなった碧眼に、私は「あ」と思い出す。鍵を閉めたばかりの二○一号室のドアノブを掴む。


「家に残っているアイスを持って行って食べよう。お嬢ちゃん、アレルギーとかある?」

「ないけど……」

「よかった。じゃあ、ソーダアイスを持って行こう。ちょっと待っててね」


 少女の瞳の色からソーダアイスを連想する自分の思考回路に呆れつつ、急いで自室へと戻る。適当なビニール袋に冷凍庫から取りだしたばかりのカチコチのソーダアイスを二つ突っ込み、ついでに外出用にと玄関に常備してあった除菌シートも回収して、急いで玄関の扉を開ける。


「おまたせ、って、うおっ」


 玄関を開けると、すぐそこに少女が立っていた。


「ごめん! 扉でおでこをぶつけたりしなかったかな?」

「お手洗いを借りてもいいかしら?」

「お、お手洗い? あ、ああ。どうぞ……」


 小柄な身体に玄関の扉をぶつけなかったか動揺する大人を尻目に、少女は「お邪魔します」と告げて私の二○一号室へと入ってゆく。自分の家のトイレがすぐ隣の二○二号室にあると思うが……あーあ、他人は家に上げたくなかったのに。


「さっき、実はもうカードを切っていたの」

 ワンルームの狭い七畳の和室に立って、少女が振り向きざまに言う。その表情は小学二年生というより、まるで往年の大女優の貫禄がある。


「えーっと、カードって、タロットカードの占いの?」


 私が暢気に問うと、コクリと頷いてから少女が答える。


「そう。カードは、はっきりと答えを出したわ」

「答え……というかトイレは行かなくて大丈夫そう?」

「それは後でもいいわ」


 後でもいいんだ。

 私はシンクに出しっぱなしにしていたシリアルの袋を急いで輪ゴムで閉じながら、少女が飲めそうな飲み物を冷蔵庫で見繕う。小学生のテンションがよく分からないから、とりあえず飲み物で落ち着かせる作戦でいく。ウィルキンソン……は刺激が強すぎるかな。刺激強めウィルキンソンだもんな。あーあ、こんな展開になるなら、この前スーパーで特売だった林檎ジュースを買っておけばよかった。


「ごめんねぇ、おばちゃんの家、今ミネラルウォーターと刺激強めの炭酸水しかなくて……」

「小さい時はずっと家で人形遊びをしているような子だったのに、人前に出て光を浴びる星のもとに生まれた子だったんだねぇ」

「はい?」


 なんだこの子は。親戚のおばさんっぽい演技が妙にうまくない?

 突然はじまった『親戚のおばさん劇場』に、私はウィルキンソン炭酸を片手に呆然と少女を見る。


「こ、これは何かの劇がはじまったりしたかな……? 私、何役とかある?」

「何を言うておる。ようやく『ツバサ』から招待状が届いたんじゃ……おぬし、ワシの共犯者になれ。これから『ツバサ』に潜るぞ。ウィルキンソンなどどうでもいいから、こっちへ来い」


 今度は時代劇がはじまった?

 小学生のテンポの速さに完全に乗り遅れてしまったアラサーの私に、少女はさらに追い打ちを掛けてくる。


「ワシのことはミユウ様と呼べ」


 これは「ははー」とでも言って頭を下げておけばいいのだろうか。


「は、ははー、ミユウ様!」

「違う。イントネーションが違う。美しい夕日と書いて美夕様じゃ。片仮名読みをするなっ」

「み、美夕様。素敵なお名前ですね。ははーっ」

「寝るぞ、瑞世」

「寝る? ……って、うおっ!」


 急に手を掴まれたかと思いきや、畳の上に押し倒される。どこにそんな力が……というか、小学二年生に押し倒される体幹の弱さ恥ずかしっ。


「寝るって、まだ朝の十時過ぎですよお代官様!」

「お代官様って誰じゃ?」

「え、これどういう設定? お代官様とその部下とかじゃないの? というより、劇の前にトイレに行ってきてほしいというか……部屋でお漏らしされたら困るというか。公園に行ってアイスを食べるんじゃないんですか、美夕様」

「アイスなら『ツバサ』でも食べられる……はずじゃが、行ってみんことには分からん。瑞世、このカードの文字を見ろ。おい、まだ口に出すでないぞ」


 そう言って顔面に押しつけられた細長いカードを「いや近すぎて見えない」と一旦遠ざける。私の顔の脂がついてしまったせいでピカピカと光るカードの表面を、ズレた眼鏡をかけ直してよく観察する。

 金で箔押しされた立体感のあるカードだ。なんて綺麗な絵柄だろうが。林檎の木が鏡映しになって、草冠が黄金に光っている。

 私の下腹部の上に馬乗りになった美夕様が、金色の巻き毛を私の頬に垂らしながら力強く言う。


「瑞世、行くぞ!」


 どこへ――と問う間もなく、彼女と私の声が「××××」とユニゾンする。

 下腹部の痛みもソーダアイスのこともすっと意識から遠ざかってゆく。これ、まさか異世界転生とかってやつじゃ……いや、違う。眠い。ふつうに、ものすごく眠い!


「ふ、ふが……ソーダアイス……溶ける……もったいなっ……」


 瞼に力を込めて抵抗しようとしたものの、私は強烈な睡魔に負けてそのまま夢の世界へと旅立った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

私はヒロインじゃなくて、ヒーローだ! @15243822

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画