第6章 終章

第43話 出会い その1

 小学校六年生のとき、俺の家族はこの港南市に引っ越してきた。


 元から引っ込み思案だった俺は、慣れない土地に馴染めず、友達もできないまま、気づけば一ヵ月以上学校に行かない日々が続いていた。


 いわゆる不登校の引きこもりだ。両親には心配をかけていたが、自分ではどうにもならない日々だった。


 そんなある日、母親がこう言った。


「部屋にこもっていたいのもわかるけど、気分転換にでも行ってみたら?」


 勧められるまま、俺は市が運営する子ども読書会に恐る恐る顔を出すことにした。


 場所は市立図書館の一室。


 そこには、先生や子どもたちの笑い声やおしゃべりが響いていた。だが、そんな空間の隅で、俺はじっと時間が過ぎるのを待つことしかできなかった。心細さと居心地の悪さで胸が締めつけられるようだった。


 ふと視線をめぐらせると、部屋の反対側の端に、ひとりぽつんと座っている子が目に入った。


 女の子だった。


 長い黒髪に、黒真珠のような瞳。印象的な顔立ちだが、その表情はどこか寂しげで、周りの騒がしさから切り離されているようだった。


 なんというか……捨て猫の仲間を見つけた気分だった。


 普段の俺なら絶対に声をかけない。だが、そのときは違った。気がつくと、彼女に近づいて話しかけていた。


「あ、あの……」

「……」


 女の子は無反応。けれど、その佇まいに妙に惹かれるものがあった。


「君も、ひとりなの?」


 勇気を振り絞って再び声をかけると、彼女が顔を上げた。黒真珠の瞳が俺をまっすぐに見つめてくる。


「君も……って?」


 その問いかけに、俺は思い切って答えた。


「僕は高持冬也。港南第一小学校六年生……なんだけど、学校には行ってない。よくある、不登校ってやつ」


 聞かれてもいないことまで話してしまい、少し後悔した。だが、それでもよかった。この子なら、俺を笑ったりしない気がした。


 彼女はしばらく俺を見つめていたが、やがて口元をほころばせた。


「そう……なんだ」


 柔らかな笑みだった。その笑みに俺も釣られて、自然と笑みが浮かんだ。


「ねえ、せっかくだから一緒に本、読まない? 退屈してたの」


 唐突に彼女が提案してきた。


「え? 本?」

「これ」


 彼女は手元にあった本を差し出した。表紙にはタイトルが書かれている。


「エラリー・クイーンの『ローマ帽子の秘密』」

「ミステリー?」

「国名シリーズの新訳版。知らない?」

「聞いたこともない。僕、ラノベくらいしか読まないから」

「面白いわよ。一緒に楽しみましょう」


 彼女に促されて、俺は人生で初めて誰かと一緒に本を読むことになった。あのときの緊張感と不思議な高揚感を、俺は今でも忘れない。





「難しいね」


 二人で文字を追いながら、女の子が俺に合わせてゆっくりとページをめくってくれる。


「弁護士を殺したのは誰なんだろう」

「そうね。わからないわね。私は読んだことがあるから知ってるけど、それでも楽しめるわ」

「なんで帽子がなくなったの?」

「さて。なんでかしら?」


 女の子が悪戯っぽい表情を浮かべ、俺に視線を向ける。その笑みに、思わずドキッとしてしまう。


 彼女がさらにページをめくり、俺はゆっくりと文字を追う。


 内容はさっぱり頭に入ってこない。でも、隣に女の子がいることが妙に緊張して、なんだか心地いい。


 と――。


「お二人さん」


 突然声が聞こえて、俺たちは驚いてそちらを見た。いつの間にか部屋には俺たち二人しかいなくなっていて、出入り口にいた先生が優しい口調で言った。


「残っててもいいけど、閉館は五時だから。部屋の電気は消していってね」

「あ……。はい……」


 状況を把握しようとする間もなく、先生は俺たちの返事を待たずに部屋を出て行ってしまった。


 部屋には俺と女の子の二人きりが残された。


 ふうっと、女の子が大きく伸びをした。


 隣り合って座っていた彼女が椅子をくるりと回してこちらを向く。その動きで肩が一瞬触れ合い、なんだかドキドキする。


「自己紹介、まだだったね。久遠夏月。夏月でいいわ」


 夏月――そう名乗った彼女が、ニコッと笑った。


「夏月……」

「うん、そう」

「冬也は、一か月、学校に行ってないって言ってたわね。でも、私も馴染めなくて、ここで時間を潰してたの。この一年間、まともに学校に通ってない。だから、私の方が冬也より先輩の不登校児よ」


 夏月は自慢げな口調で、楽しそうに笑った。その屈託のない笑顔に、俺は嬉しくなり、どこか勇気づけられたような気がした。


「ねえ、携帯、持ってる? ライン、交換しようよ」

「ライン?」

「ここで遊んだのは、僕らだけの秘密にしよう。それでさ、また会おうよ。また一緒に遊ぼう。きっと、僕たち仲良くなれると思うんだ」


 引っ込み思案の俺にしては、驚くほど大胆な提案だった。けれど、なぜか口を突いて出た言葉に躊躇はなかった。


「うん!」


 夏月が今度は満面の笑みを浮かべる。


 これが、俺と夏月の出会いだった。そして、夏月はこの街で俺の初めての友達になった――その瞬間だった。



 ◇◇◇◇◇◇



 それから、俺と夏月は休日に開かれるこの読書会で一緒に時間を過ごすようになり、やがて互いの家にも遊びに行く仲になった。


 夏月と相談し合い、励まし合ううちに、俺たちの気持ちは少しずつ前向きに変わっていった。


 ゆっくりではあるが、二人とも学校に通えるようになり始めた。


 夏月との距離は次第に近づいていった。最初は普通の友達として接していた関係も、少しずつ、何かが変わり始めていた――そんな予感がしていた。


 そして、二人が「春葉」に出会ったのは、まさにそんな時だった。

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